走る。
呼び出された場所は居酒屋の外だ。
走った時とは別の肌寒さがそこにあった。
俺は元カノの後ろを後ろめたい思いを抱きながら歩く。なぜ後ろめたいのか、それは別れてからこれまでのことがあるからだ。人に見せつけるように過ごした数日間は彼女にとっても、いい思い出ではないだろう。
「西田君」
「なに、俺を呼び出してなんかあるの?」
虚勢を張った。俺はなにも悪くないと言うスタンスを取る。
「ううん。別になにもないよ」
そう言って彼女は振り返る。別になにもないと言いながら俺を見つめるその目は疑っている目だった。
「西田君さ、彼女と付き合っているって言っていたよね」
「……言ったと思う」
「言ったよ。『俺は今あいつと付き合っているんだ。お前と別れて、悲しんでいたらあいつが慰めてくれた。それでいいだろう』って」
確かに言った覚えのあるセリフだ。
元カノは俺への視線を鋭くした。
瓦解する。鉄球でガッチリと固めたはずの要塞がひび割れていく。
「ねぇ、西田君さ、嘘ついていたの?」
「……」
「私に振られたから腹いせしていたの?」
「……」
「あの子が誰かわからないけど、私に引け目を負わせようとしたの?」
……やめてくれ。と心の中で叫んだ。もうこれ以上、何もしないでくれと願った。
しかし彼女は、逃がさないと言わんばかりに俺に一歩一歩と近づいてくる。
「本当は寂しかったんでしょ? 私に振られて、西田君は一人ぼっちで悲しくなったから、私に見て欲しくて、知らない女の子と付き合ったふりをした」
……お願いだ。もう……。
顔を下げた俺は居酒屋の外のコンクリートを見つめていた。灰色のコンクリートが奈落の底のように、底なしの沼のように感じた。
「ほんっと、『サイテー』だよね。西田君」
ぐさりと俺は殺された。
心臓をえぐり取るように、胸を全てバラされて、俺の生きている意味を奪われた。
「……」
苦しかった。
深海の底で、光を見れない魚のようにそこにいた。
「……私はそんなことどうでもいいんだけどね」
「……え?」
顔を上げた。
顔を上げると眼前には元カノがいた。
「私への当てつけってことは、私のことが好きだってことでしょ?」
「……」
どう言うことなのかわからない。
彼女の腕が植物のように絡みついてきた。
後ろに仰け反るようにしたが、背中には居酒屋の壁があった。
逃げれない。
いや、追い詰めれた。
しゅるりと布の擦れる音が聞こえた。
「いいよ?」
「……は?」
今なんて言った?
「西田君、より戻すくらいいいよって言ったの」
「……なん……で」
彼女は、キョトンとした顔をした。
「お前、付き合っている男性が……」
「あぁ、あの人ね。結果的にダメだったの。全然タイプじゃなかった」
「タイプって……お前財布目当てだろう」
「……へぇ、私のことそう思っていたんだ」
その瞳に怒りの色が見える。ジワリと首筋から汗が滲み出た。
「そういうわけじゃないけど……いや、俺が多分そう思っていた。と思う」
「そうだよ。私はそんなつもりで西田君とも付き合っていないよ?」
一層ぎゅっと抱きついてくる。
「私が、西田君と別れた『理由』変わってないでしょ」
「……」
全然分からなかった。
財布の紐がかたすぎたからと答えればきっと、明日から夜道を気をつけなければならないだろう。
だから答えなかった。
「西田君さ、私のこと名前で呼ばなかったでしょ」
「名前?」
「そう、名前。私の名前、『美咲』って言ったことないよね?」
「……」
今思えば、俺は彼女の名前も、苗字も言っていなかった気がする。
「私、それが嫌だった。西田君の声で、西田君の心の底から、西田君に私の名前を呼んでほしかったんだよ?」
「……」
彼女は、目を伏せた。悲しそうな顔をした。
「でも、一ヶ月待っても、西田君は私のことを一切呼ばなかった。だから私は西田君と別れることにしたの。私は西田君のなんだったんだろうって思ったんだよ?」
彼女は、俺に対しての不満を言い放つ。
「だから私は西田君と別れた。別れて、西田君に振り向いて欲しくて、別れたの」
答えれない。
「すると、今度は西田君はほかの女の人と一緒にいるじゃない。私は、怒ったよ。初めて、嫉妬した」
「それ……は」
「わかってる。見てほしかった。からでしょ?」
「……」
心が、揺れた。
俺は何をしていたのかと後悔をした。
俺は彼女になんて酷いことをしたんだろう。
どんどん、彼女に後悔する。
「簡単だよ……私の名前を、『美咲』って呼んで欲しいだけなの。それだけで、私は……」
西田君をもう一度好きになる。と囁いてくる。
このまま、もういいんじゃないか。と考えた。
「……み」
彼女の、元カノの、名前を言いかける。
『俺、嬉しかったんだ』
ふと、あいつの声が聞こえた。
『みんなそれぞれ抱えているものがあるって。そう言ってくれた時に俺救われたんだ』
一郎太の声が聞こえた。
救われたことを、全部洗いざらい話した一郎太を思い出した。
胸が痛い。苦しい。
「……だめだ」
俺は彼女の腕を振り解く。
「……西田君?」
「だめなんだ。俺には、好きな人がいる」
そう、俺には好きな人がいる。
ずっと一緒にいて、苦しい時も、ずっとそばにいてくれたあいつがいる。
「……」
「だから、俺は、お前のことを『呼べない』」
そう言って、俺は逃げ出すようにその場を走り去る。
声は聞こえなかった。呼び止める声も聞こえなかった。
ただひたすらに、心臓が選ぶ先に、足を進めた。