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東京作戦

作者: 田中 直也

ある日、突然と日本の副総理が、国交もない北朝鮮を訪問することとなった。

なぜ、今この時期に、その目的は?

その裏には、国民に知らせられない重大な危機があった。

首都高速道路羽田線の平和島出口を出て、そのまま高速道路と平行に走る道路を進むと、環状七号線が高速道路をまたぐように交差している立体交差がある。

その立体交差の下で午後八時と言うのが今回の指示だった。

「もう八時十分になるな」

石神は車の外の明りで腕時計を見て言った。

 九月になっても残暑がきびしく、蒸し暑い夜だったが、車内はクーラーがきいていて心地よかった。

「何かあったんですかね。時間にはいつも正確なんですか?」

運転席で吉井順二は言った。髪を七三に分け紺の背広上下のその姿は銀行マンのようで、陸上自衛隊の特殊訓練を二年間受けた猛者とは、とうてい見えなっかた。まだ三十才前だが、私が信頼している部下の一人だった。

石神は助手席のサンバイザーに取り付けてあるミラーで、高速道路を下りて来る車を見張っていたが、乗用車は少なくトラックターミナルへむかうトラックがほとんどだった。

「あれはなんでしょうね、石神さん」

吉井の示した方向は流通センターの金網のフェンスにそってる植え込みの中だった。 

 黒い陰が少しずつこちらへ向かってきていた。その植え込みからこちらの立体交差の下へ来るには、立体交差へ上がる道路を横切らなくてはならなかった。

 黒い陰は植えこみのはじまでくると、その明るい道路を横切るかどうするか迷っているようだった。

「どうやら水口さんのようじゃないか。ひろってやろうぜ、何かあったようだな」

 吉井はうなずくとライトをつけずに静かに車をうごかした。植え込みのはじまできて車を止めると、後ろのドアが開き、蒸し暑い熱気と共に水口がすばやく乗り込んだ。

「こんなところでかくれんぼですか、水口さん。あの隠れかたじゃすぐに鬼に見つかりますよ」

石神はあたりに気を配りながらいった。

「とりあえず車を出してくれ。話はそのあとだ」

 水口は後部座席の下にうずくまりながら言った。

「あくまでも普通にゆっくりとな」

 吉井は車のライトをつけるとしずかに発進した。高速の平和島入口を通り越すと、その先は高速道路の下をくぐって反対がわの側道に出られるようになっていた。

「立体交差をのって環状七号線に出て、そのまま平和島駅のほうにむかってくれ。くれぐれも鬼につけられるなよ」

水口は身をかくしたまま吉井にいった。

「まかしておいて下さい、水口さん。私もプロですよ」

「慣れ慣れしいひよっこがえらそうなことを。ほんとうのプロになったら人前で自分のことをプロとはいわないものだ」

「自信過剰は命取りになるぞ、吉井」 

石神がミラーで後ろを確認しながらいった。

 吉井はちょっとふてくされたようにしていたが、それは彼が恥ずかしさをかくすときにとる態度だった。

環状七号線と京浜第一国道が交わる交差点は、京浜急行の高架線と京浜第一国道の陸橋が並行しながら環状七号線をまたいでいた。

「その交差点をすぎたら、ウインカーを出さずに左に止めろ。あそこなら、おあつらえの場所だろ」

後ろの座席から、顔だけのぞかしながら水口は言った。

「前方で止まる車があるかチェックしろ」 

吉井にすばやく指示すると、石神は首を後ろに回し、交差点のむこうがわで急停止する車がないか調べた。しばらく見ていたが異常はなかった。

「つけられてはいないようです。もう安全です」

 石神は座席ごしに右手をさしだした。その手につかまるようにして水口は床から起きあがり、後部座席に座ると改めて強く握りかえしてきた。

「おひさしぶりです。相変わらずお元気そうでなによりです」

「どうせ元気なのは頭と口だけさ。体のほうはかくれんぼもうまくできなくなってしまったらしいからな」

額の汗を拭きながら、水口は皮肉って言った。

「本当にかくれんぼのつもりだったんですか、私には優雅に散歩しているように見えましたよ」

 水口が、ハンカチをもった手を石神に突きつけて何かを言おうとしたが、それよりさきに石神が続けた。

「それで鬼はどうしたんですか」

 水口はやれやれというように頭を振りながら、ハンカチをしまいながら言った。

「大阪から連絡をうけた仲間が羽田で待っていたようだ。私がモノレールに向かうと彼らは二手に分かれた。たぶん一人は車をとりにいったのだと思う。残る一人が私をつけてきた。かれらははじめからまるみえだった。それでも彼らにおまえらはプロかと聞いたら・・・」水口はここで言葉を切って吉井を見た。

「たぶんプロだと胸を張って答えるでしょうよ。これからはつつしみます」

吉井は周囲に気を配りながらいった。

「その自称プロさんの一人は、今ごろ流通センターの中でお散歩中さ」

水口は深々と座りなおしながら言った。


ホテル・スターパレスの六一一号室のドアを開けると、石神は水口を先にいれた。吉井はすでに警備の位置についていた。

 水口は窓際に行くと東京の夜景を眺めながら言った。

「二年ぶりか、早いものだ。家族はみんな元気かね」

 石神はウィスキーの水割りを二つ作ると、その一つを差し出しながらいった。

「妻も二人の息子も元気です」

 二人は向かい合うようにテーブルをはさんで椅子に座った。中肉中背の体に、人のよさそうな丸顔の水口の、いつもは鋭い眼差しも、今はその太い眉下の下で優しく微笑んでいた。

「私が五十五才になったということは、君は三十五才になるわけか」

「あとひと月あります」

石神は訂正した。

「正確には、二人ともあと三十五日後だ」

水口はグラスを持つと窓の所へいった。

二人は誕生日が一緒だった。石神が十年前に入所したときは水口が東京の所長だった。誕生日が同じと言うことで可愛がられたし、八年間の間にこの世界で生き延びていくための実際知識も教わった。

 外の夜景を見ながらグラスを口に運ぶ水口の姿は、現場から何年も離れているにもかかわらず、仕事に疲れた中年サラリーマンそのものだった。少しくたびれたグレーのスーツに、磨かれていない革靴。特徴ある服はいかん。いつでも人混みにとけ込んでいなくてはいけない。それは水口の口癖だった。

 石神もそれを忠実に守ってきた。そのせいで妻とは口論がたえなかった---あなたの服装がだらしないと私がぐうたらだと思われてしまいます---彼女は石神の本当の仕事を知らないのだからしかたがない。彼女には単に経済専門の興信所としか教えていなかった。

「何をぼんやりしているんだ」

水口の声で石神は顔を上げた。

「何か・・・」

「何かじゃない、さっきから聞いているじゃないか。石神君。かわいい奥さんの事でも思いだしていたのか」

「いや、別に」

石神は自分の動揺をごまかすように言った。

「もう一杯つくりましょう」

 石神は水割りをつくりながら肩ごしにきいた。

「何の話でしたっけ」

「本当にうわのそらだったんだな」

水口は腕時計をみながらいった。

「俺が育て上げた優秀な部員を、ここまでふぬけにさせた張本人は何時にくるんだ」

石神も腕時計を見て言った。

「飯島部長との約束は十時です」

その時、室内電話がなった。

 石神は受話器をとると短く答え、すぐに受話器をもどした。

「至急にここをでます。ここへ来る途中に飯島部長が襲われたそうです」


ドアが1回ノックされた。石神は一瞬緊張しながらドアにむかうとさらに三回ノックがあった。ドアのノブと反対側の壁に身を寄せると、石神はドアに向かって「九」と言った。「六」、とドアの外が答えた。さらに「十八」、と言うと「十二」と答えがあった。

 石神は安心したように緊張をとくとドアを開けた。

廊下には吉井の他にあと二人いた。石神は水口に急いで、と言うと廊下に出た。

 吉井ともう一人の部員は従業員専用の扉へ向かい、残る一人がエレベーターへ向かった。

石神は水口の背中を押して急いだ。

従業員専用の扉の中へはいると水口はエレベーターへ向かったが、石神は階段を指示し、吉井、水口、石神の順で階段を下った。もう一人の部員は従業員専用エレベーターに乗り込んだ。

「この年になると階段はきついな」

「危険を避けられるし、健康にもいいですよ、水口さん」

と吉井が言うと

「危険を避ける前に、心臓マヒで死んでしまうさ」

と水口がやり返した。 

 二階につくと吉井は扉を開けて廊下を調べた。異常なしの合図ののち、三人は毛足の長い絨毯の上を歩きながら息を整え、一階に下りる階段では世間話をしているふりをしながら下りた。

従業員専用の扉の前では、さきにエレベーターで下りた部員が安全の合図を送ってきた。 表玄関の脇の壁には、先ほどエレベーターで下りた部員が立っていて、彼も安全の合図を送ると、さきに玄関を出てタクシー乗り場へ向かった。石神達はゆっくりした足取りで表玄関に向かった。

表玄関の前には他の部員が運転する車が待っていた。吉井が後部座席のドアを開け、水口と石神が乗り込むとドアをしめ、自分は助手席に乗り込んだ。

 タクシー乗り場に向かった部員は、窓ごしにタクシーの運転手に話しかけながら、石神たちの車の発進を確認した。

 その時玄関脇の陰から二人の男が飛び出して、タクシー乗り場に向かってきた。一人が部員に先にタクシーを譲ってくれと交渉し、もう一人が石神達のナンバーを確認していた。 部員は渋りながら、石神達がドライブウェイから表通りを左折したことと、もう一人がナンバーをしっかりメモしたのを確認したのち譲った。

石神達の車は表通りを左折して、表玄関から見えないところで停車すると、そこにいた三人の男達が石神達と入れ替わり、すぐに発車した。石神達は建物側の暗いかげにかくれた。そのすぐ後にタクシーが目の前を通り過ぎた。

動きだそうとした石神と吉井を、水口が両手で制した。白のホンダがかなりのスピードでホテルから出てきてタクシーの後を追って行った。その後五分間ぐらいはそのままにしていた。

「よし、もういいだろ。追っては二組だけらしい」

水口は二人の背中を叩くようにしながら言った。

「それにしても今回の配置は何人だったんだ」

「先ほどまでが十二名、そのうち四名がドライブ中なので現在は八名です。部長との会合の時は多分十八名ぐらいです。それでは会合場所へ急ぎます」

と言うと、石神と吉井は歩き始めた。

「おい、歩いて行くのか。会合場所はどこなんだい。私はもうくたくただぜ」

「健康の為に歩きましょうよ、水口さん。そのかわり今度はエレベーターを使っていいですからね。目の前のホテルの七一一号室。階段では私でもきついですから」

吉井は言いながら水口の背中をおしてあげた。


七一一号室に着くと、吉井がノックをして先ほどと同じ様な番号の言い合いを中の者とした。

「あれも暗号かい。さっきとは番号が違うな」と水口は聞いた。

「大阪では使っていないんですか。簡単なルールですよ。簡単すぎて普段は使いません。緊急で取り決めが出来ないときのみ使っています」

「何を入口の所でごちゃごちゃ言っとる、早く入ってこんか」

と言いながら飯島部長が入口まで迎えにきて、水口に手をさしのべた。

 二人は挨拶を交わしながらかたく握手をすると、飯島部長は左手を水口の背中に回して部屋の中へ招き入れた。


戦後日本の経済が復興し始めた頃、日本は外国の諜報員の格好の情報収集場所になっていた。その対応策として国家公安委員会はその中に、特別調査部というのを設立した。最初は外国諜報員の捜査、発見が主な仕事で、摘発は警視庁へ依頼していた。しかしその摘発にはかなり乱暴で非合法の場合もあり、民主警察のイメージが定着してくると、警察に依頼していては色々な面で支障が出てきた。そのため秘密理にそれらを専門に扱う機関が作られた。それが経済興信所で初代所長が水口で同期に飯島がいた。

当初は各地に支店をおいて東京で管轄していたが、二年前に西日本地区強化の目的で大阪経済興信所を設立し、東京も東京経済興信所と改め石神が所長になった。水口には特別調査部部長への昇進の話があったが、現場にいたいということで辞退したため、同期の飯島が部長に昇進し、水口は顧問という形で大阪経済興信所を育てることになり、大阪の所長には石神の後輩の添島が派遣された。


部屋にはいると二人はテーブルにつき、石神と吉井は入口側の壁ぎわ、部長といっしょにいた二人の部員は窓側に位置した。

「いま、そこのひよっこに尻を叩かれながら運動してきて」

汗を拭きながら水口はちょっと間をおいて、吉井を見て言った。

「喉がからからなんだが、誰か飲物をくれんか」

吉井が動こうとするよりさきに、窓側にいた部員がさきに動いた。

「ひよっこもはしゃぎすぎて、動作が鈍くなったか」

水口は飯島の方を見ながら肩をすくめて微笑んだ。

ウイスキーとアイスピッチャーの前で部員が好みを聞いた。

「コーヒーは駄目だぜ。たとえ薄くとも」

吉井もちょっと間をおいて微笑みながら言った。

「お年寄りは眠れなくなってしまう」

石神はいい加減にしろと、肘で吉井をつっつきながらいった。

「ウイスキーに少しの水、それにたっぷりの氷を」

部員が二つのグラスをテーブルにおいて窓側にさがると石神はきいた。

「先ほどの連絡で部長が襲われたと聞きましたがどういう状況でした」

「ここへ来る途中に薬局へ寄ってな、出てきたところ襲われた」

 部長はウイスキーを一口のむと、グラスを顔の前に持ち上げたまま柿崎を--ウイスキーを入れた部員--をにらみつけた。

 柿崎は困ったように石神に視線を向けた。

「部長が薬局に寄られた理由により、奥様からくれぐれもお酒は薄めにと言われてますので」  

「あのうるさい奥方は、ついに我々の組織の中にスパイ網を作り上げた訳か。しかもその親玉が石神だとは」

部長は石神をにらみながらグラスの残りをあけ、グラスを持ったまま言った。

「襲ってきたのは二人組だ。そして彼らの意図は誘拐でも暴行でもない」

「状況を説明しますか」

と柿崎の相棒の篠原が言った。

 石神がうなずくと、篠原は説明し始めた。

「私たちは午後七時四十五分に部長の事務所に着き、私が車に残り柿崎が事務所に行きました。その時点では監視らしきものはありませんでした。吉井から接触完了の連絡の入った暫く後から、不審な車を発見しました。白のホンダです」

「タクシーを追っていった車だ」

と水口は言うとグラスを吉井に差し出した。「年寄りは不眠症が多いので、よく眠れるように濃いめにしてくれよ、お若いの」

何か言おうとした吉井を制止しながら、石神は言った。

「部長にも先ほどより少し濃いめのものを作ってさしあげろ」

「その車は事務所の前の道を二回程行き来したのち、暫く停止し、その後走り去りました」篠崎は先を続けた。

「部長をお乗せしてこちらへ向かう途中、後方に一度白のホンダをみましたが、ナンバーを確認できませんでしたので、先ほどの車と同一かは解りません」

「そのナンバーはチェック済みか」

石神は柿崎に聞いた。

「車はレンターカーで、借主を調べさせてはいますが・・・」

「どうせ偽名で本人は解らないだろうな」 と石神は言うと篠崎を見た。

「部長の指示で薬局に寄り、部長がご自身で買いに行かれるというので、私たちは車の中にいました」

「柿崎、なぜおまえが同行するか、車の外で待つかしなかったのだ」

 柿崎は石神の視線を外すと、うつむき加減にして言った。

「すみません」

「石神君、今回の事は私がわがままを言ったのだ。柿崎君の手落ちではない」

 部長はグラスを持って立ち上がりながら言った。

「それに私が襲われた時の、彼らの対処は完璧だった。現に私はこの通り無事だ」

「それは認めます。彼らは私たちの中でも最も優秀な部員です」

「石神君の言いたいことは」

と水口が割り込んだ。

「私たちの仕事は、ほんの小さなミスが自分や仲間を危険に陥れる可能性があるということだ。だから生きていたかったらどんなミスでもしてはだめだ」

水口は石神を見て言った。

「君はここにいる三人が一番可愛いようだな」石神はちょっと微笑んだだけで何も言わなかった。

「それより飯島、さっき彼らの意図は誘拐でも暴行でもないといったが、どういうことだ」水口は飯島部長に聞いた。

「私が感じた限りでは、彼らは私の腕を捕まえたり、あるいは強く殴ってもこなかった。ただ私を襲っている、という状況を作っただけだ。つまり警告だ。彼らは私に、いや我々に警告してきたのだ」


翌日の朝の七時には、石神は東京経済興信所の自分の部屋にいた。

 石神の秘書の平井よしみはまだ出社していなかったため、自分でコーヒーを入れて昨夜の話合いの事を考えていた。

 昨夜の話合いは石神と飯島、水口の三人で別室に移り、今朝の三時過ぎまでかかった。ホテルで少し仮眠を取り、こちらに出社したがまだ頭が重たかった。しかしそんな事は言ってられなかった。早急に対応策を考え、今日からすぐ行動しなくてはならないのだ。

水口はある情報を得た。それは電話や手紙、あるいは誰かに託して伝えるには危険が多すぎた。それで水口がみずから東京へ出てきた。

 

 二日前の夕方、水口に情報屋の金田より電話があった。

「今夜会えますか。どうしても会いたいのですが」、水口が電話にでると金田はいきなり言った。

「ああ、かまわんが。いつものミナミの店で落ち合おうか」

「いや、あそこはよしましょう。球場の前に八時ではどうですか」

「かまわんよ。八時だな」

「一人で必ず時間にきて下さい」

というと金田は電話をきった。


水口はスポーツ新聞を広げて、大阪球場の前に立っていた。

 時間は八時になっていたが、金田はまだ現れなかった。金田の電話はいつもとかんじが違っていた。不安がっていた。

新聞を広げたまま、あたりに注意していると、なんばシティのかげから金田が現れた。たぶんいままで不審者がいないか見張っていたのだろう。

 金田は顎が張った細い目をした中肉中背で、蒸し暑いのに薄手のジャンパーにGパン、頭に野球帽をかぶっていた。

 金田は水口に気づかないかのように前を通り過ぎると、マクドナルドでハンバーガーを買い、それをかじりながら水口に近寄ってきて、スポーツ新聞をのぞき込むような位置にきた。

 そしてハンバーガーで口の動きを隠しながら小声でいった。

「ホテル南海の先の路地を入った”ひろ”という店に行きます。後から来てください」、それだけ言うと金田は横断歩道を渡って行ってしまった。

 水口は5分ほど、金田の入って行った路地に入るものがいないか待った。

”ひろ”という店は間口の狭い小さな飲み屋だった。クーラーの程よくきいた店に入ると右手にカウンターがあり、奥にボックス席が一つあり、座っている金田の横顔が見えた。

「どうした、いつになく用心しているな」

水口は座るなり言った。

「俺、やばいことを聞いちゃったみたいで」入口の方を見ながら、すでにジャンパーを脱いでTシャツ姿になった金田は言った。

 カウンターの中にいた男が注文をとりにきた。

「彼は大丈夫。俺の仲間です」

と言って、水口のために水割りを注文した。「でも今回の件はあいつにも話せない」

金田はテーブルの上のグラスをつかみ、それを見つめていた。どう話しだそうか迷っている様子だった。

金田の両親は韓国人だった。それで彼は朝鮮語ができた。水口は彼に朝鮮関係の情報を主にもらっていた。大阪にはかなりの数の北朝鮮からの諜報員が潜入していたが、水口が把握している以上に金田は知っていたし、つき合ってもいた。

 大阪の部員の中には金田を北朝鮮の諜報員と思っているものもいた。

バーテンの男が水割りを持ってきた。水口は金田のほうにグラスをちょっと上げると、グラスに口をつけた。金田も自分のグラスを持つと水割りを一気に飲んだ。

 グラスをおいて、一つため息をつくと観念したように横の座席においてあった野球帽を取り上げ、その中から一枚の写真を取り出し、水口に差し出した。

水口もグラスをおいて、その写真を受け取った。隠し撮りされたらしいその写真は鮮明ではなかったが、そこに写っているものは確認できた。

ソ連製のスカッドミサイルだった。空からの発見を防ぐためのカモフラージュと移動式らしく大きなタイヤとそれを警備する何人もの兵士が写っていた。

 水口は写真をテーブルに置くと老眼鏡を取り出して掛け、自分を落ち着かせるかのように水割りをゆっくり飲んだ。

金田が話しかけようとするのを手で制し、写真を取り上げてのぞき込んだ。

 間違いなくそこに写っている兵士は北朝鮮の軍服をきていた。スカッドミサイルと思ったものは労働一号だった。そしてもっと気になったのは労働一号に描かれている---先端より少しさがった弾頭の中央あたりにある---赤い帯だった。それは核弾頭を表していた。

水口はため息と共に老眼鏡を外した。

「この写真は預かってもいいかな」

「もちろん、最初からそのつもりです」

水口は札入れの中にしまい、手をあげて水割りのおかわりをたのんだ。

バアーテンダーが新しいグラスをおいてさがると、水口は興奮して言った。

「すごい写真を手にいれたじゃないか。どのルートからだ」

「写真だけでなくもっと有りそうなんですよ。北の軍備や組織の状態、もしかしたらこちらに潜入している者も解るかもしれません」

「どういうことだ」

「実は三日前から変な噂があったんですよ。北の重要な人物が亡命をはかって日本に潜入したと。確かに北の奴らの動きが活発になりましたが、確認はとれませんでした。それが今朝むこうから、・・・その人物から接触がありました。この私に。水口さんのことも知っていて、私に連絡を取ってもらいたいと。この私に接触があったんですよ」

金田は震えているようだった。

 無理はないと思った。北の連中も金田が水口と知合いなのは知っていた。それで彼をつかって偽情報をながしてくることもあった。彼から私たちの情報を逆に得ることもあった。 金田はあくまでも情報屋であり、組織の人間ではない。彼が知り得ることは断片的で、表面的なことだけだった。重要な情報に彼が触れることはなかった。だから彼はいつも無事だった。だが今回は違う。とてつもなく危険な情報に接触してしまった。北の連中がこのことを知ったら--多分もう知られているだろう--金田の知り得た情報が他にもれないように最善の処置をするだろう。

「その人はオメガとなのりました。そして韓国に亡命したいが身の危険がせまっているので、あなたがたに保護して欲しいといって、その写真をさしだしました。それを見れば自分がどれほど価値があるかわかるだろうと言ってました」

「それでそのオメガはいま何処にいる」

 水口はそのオメガと名乗った男を手にいれたかった。この写真だけでも十分価値はあった。これを持っていた男となるとその価値は計り知れない。どんな犠牲を払っても手に入れる価値はある。

「オメガは東京へ行くと言ってました。大阪はもう危ないそうです。オメガは自分のほうからあなたがたへ接触すると言ってました。そしてその時の名前もオメガをつかうそうです」

「ほかには」

「それだけです。それだけ言うと去って行きました」

「こちら側で彼の顔を知っているのはおまえだけだ。モンタージュ写真を作らなければなるまい。それにおまえにも保護が必要だ。とりあえずここを出て何処かに隠れよう」

二人は店を出ると表通りに出て、むっとする熱気の中を、左の球場のほうに向かった。

「駅前でタクシーを探そう」

 二人は肩を並べて歩いた。水口は公衆電話を探していた。

「水口さん、さっき彼のモンタージュ写真を作ろうと言っていましたね。彼の顔を知っているのわたしだけだと。出来上がったらびっくりしますよ」

 金田はいたずらっぽく微笑んだ。水口は少し先のタバコ屋に公衆電話を見つけた。

「そのオメガと言うのは・・」

「ちょっと待っててくれ。事務所に連絡をいれなくては」

 水口は公衆電話に近寄ると受話器を取り上げた。

 道路ぎわに立っていた金田がタクシーを見つけ、手を上げた。

 水口はテレホンカードを入れた。

 金田は水口に振り返り指でOKサインをつくった。

 水口は近づいて来るタクシーを見ながらプッシュボタンを押し始めた。おかしい。タクシーのスピーがゆるまない。金田はきずいていない。

「逃げろ、金田!」

 水口が叫ぶと金田はタクシーの方に視線を戻した。

 その時タクシーがライトを上向きにした。 金田がまぶしさに耐えきれず腕で目をかくしたと同時に、タクシーが金田をボンネットの上にはね上げた。

 タクシーはそのまま直進し、次の交差点では信号を無視して走り去った。

 水口は金田に近寄った。すでに耳と口から血を流し、こと切れていた。

 公衆電話に戻ると110番へ電話した。徐々に人が集まり始めていた。

 遠くにサイレンが聞こえ始めてきた。これでこちら側で顔を知るものはいなくなってしまったか、と呟きながら水口は人混みの中に消えて行った。


午前八時をすこし過ぎた頃に、ホルダーを脇に抱えて対朝鮮専門の山口が石神の所長室に入ってきた。

「おはようございます。今朝はだいぶお疲れのようですね」

と言いながら、机の前の応接セットのソファに座った。

「夜更しをしてしまった」

 石神はあくびをかみころしながら煙草を取り出した。一本取り出して口にくわえたが火はつけなかった。昨夜から吸いすぎで口の中がおかしかった。

「平井君に言ってコーヒーでもいれてもらうか」

と、石神が受話器をとろうとすると山口がそれを制して言った。

「ほら匂おいませんか。ここにはいる前に既に彼女に頼んでおきました」

 ドアがノックされ平井よしみがコーヒーをお盆にのせて入ってきた。

 つぶらな瞳とは対称的に引き締まった唇と、さきっちょがちょっと上を向いている鼻を、卵型の輪郭の中にうまく配置した顔が微笑みながら石神に挨拶をした。

「よしみちゃんのコーヒーは所内で一番おいしいと思いませんか、所長」

 山口は石神に話しながらも、顔はよしみのほうを向いていた。

「山口にとっては平井君の差し出すものなら何でもおいしいのさ。たとえそれがなんであってもさ」

「そうとは限りませんよ」

と山口は少し顔を赤らめながら言った。

「まだよしみちゃんの手料理は食べたことが有りませんから」

石神は笑いながら言った。

「平井君、今度一度山口に何か食べさせてやってくれよ。それが気になって仕事が手につかないと困るからな」

「はい、わかりました」

と、微笑みながら言うとよしみは部屋を出て行った。

「良かったな、山口。何か作ってくれそうじゃないか」

「はい、有難うございました。所長のおかげです」

と、うれしそうにしながらテーブルの向こう側で深々と頭を下げた。

  今の会話で少し笑ったせいか、石神の頭もすっきりしてきた。

「昨日は北の動きに変化はあったか」

と言って石神は煙草に火をつけた。

 ホルダーをひろげ山口は確認しながら言った。

「三日前に大阪で六人の不審者を発見の報告をしましたが、確認が取れました。四日前の深夜に富山沖で逃げきった漁船で密入国したものと思われます。富山と大阪を結ぶ途中にあるラーメン屋で、彼らの写真を見せて確認しました。しかし二日前の午前中に見逃してから行方がわからなかったのですが、昨夜のドライブで撮った写真から、タクシーの二人と白のホンダの二人は彼らです。すでに残りの二人も東京にいるものと思われます」

「よくやった。それで彼らのマークには、いま誰がついている」

石神は煙草を消しながら聞いた。

山口はホルダーを静かにテーブルに置くと石神を見て言った。

「済みません。彼らが追跡してる人間が入れ替わっているのにきずくと、すぐ彼らは消えてしまったとのことです」

「何を、馬鹿なことを」

石神は怒りながら立ち上がった。

 煙草の火をつけながら机の後ろの窓によったが、口の中がまだおかしいのに気づき、またテーブルに戻ると荒々しく煙草を消した。 石神のいらつきがもろに態度に表れていて山口は驚いていた。普段とても冷静な石神だけに、今回の仕事が如何に大切なものなのか山口にも感じられた。

「山口、とりあえずその六人を捜し出せ。最優先事項だ。それに他の機関の動きも探ってくれ。何かつかめるかも知れない。しかしこちらの動きを悟られるなよ」

と言うと石神は少し微笑んだ。

「解りました」

と力強く言うと山口は席をたって行った。


昼少し前に吉井が石神の部屋にやってきた。 石神はソファーに座ると吉井にたずねた。

「水口さんはいまどうしてる」

「千駄ヶ谷の別荘で今ごろ遅い朝食を取っていられるでしょう。柿崎と篠原が護衛についています」

「水口さんもだいぶ疲れただろうから、ゆっくり休んでもらおうか。ここ数日はゆっくり寝ていないだろう」

その時、机の電話がなり、吉井が受話器を取った。

「水口さんに、女性から電話が入っているそうです」

石神はソファ-から立ち上がりながら言った。

「俺がでよう。つないでもらってくれ」

 石神に受話器を渡すと、吉井はすかさず別の受話器を取り上げた。

「もしもし、お電話を代わりましたが」

「水口さんですか」

 受話器から緊張した若い女性の声が聞こえた。

「失礼ですが、どちらさまですか」

「水口さんではないのですか」

 日本人のアクセントではないな、と石神は思った。

「鈴木といいますが、どの様な御用件ですか」

「水口さんとお話がしたいのですが。いらっしゃらないのですか」

 若い女性の声が、少し苛立つように言った。

「水口という者はこちらにはおりませんが」、 水口がこちらに来ていることを知るものはいないし、家族ならこのようなかけかたはしてこない。唯一知っているのは水口を追ってきた連中と、その仲間だけだ。

「いない、と言うのですか」

と彼女は静かに言ったが、怒鳴りたいのを抑えているのが、ありありと感じられた。

少し沈黙が続いた。さあ、次はどんな手でくるのかなと石神は考えていた。

「おかしいわね。水口の叔父さんが出張で、大阪から東京へ来ると言っていたんだけどな」 彼女は素直に可愛らしく言った後、石神が何かを言うかとちょっと間をおいた。

 石神が何も答えないでいると、彼女は続けた。

「私、水口の姪です。私が預けたお見合いの写真を持って来るはずだったし、この前もらったオメガの時計のお礼もしたかったのにな」と、独り言のように言った。

石神は思わず受話器を強く握りしめた。吉井と目があった。吉井は石神の驚いた様子が、何故なのか分からずに戸惑っていた。

彼女は、いま確かに写真とオメガの言葉を口にした。ただの偶然なのか、それとも北の連中は写真のことはおろか、すでにオメガの名前も知っているのか。あるいは彼女がオメガの連絡係なのか。

石神は、心の動揺を相手に悟られないように注意しながら言った。

「私の思い違いでした。水口と連絡を取ります。それで伝言は?」

「会いたいのです。それも早い時期に」

 彼女は、ほっとしたように言った。

「待ち合わせの時間と場所は?」

「二時間後ではどうかしら。ヒルスホテルで、お礼に昼食をご馳走したいと、伝えて下さい。ロビ-で待っていてくれれば、私が見つけるわ」

吉井は受話器を置くとソファ-に座り、まだ受話器を持って立っていた石神をみつめた。 先ほどの石神の驚きが気になってはいたが、このような場合に、部下である吉井から説明を求めることは禁じられていた。現場にいるものは、知っている情報が少なければ少くないほど---たとえ敵に捕まったとしても---身の安全が保障されるからだ。

石神は煙草に火をつけながら、ソファ-に座った。今回の事は部下に任せることはできなかった。自分が担当しなくてはならなかったが、相棒が必要だった。吉井にはある程度までは話さなくてはならなかった。

石神は水口に電話をして、先ほどの電話の内容を話し、二時間後にヒルスホテルで待ち合わせることと、吉井にどの程度話すか指示を受けた。

それからしばらくの間、石神は吉井に写真の事はのぞいて説明をすると、ヒルスホテルでの接触の警備について検討しあった。


  ヒルスホテルのロビ-で、石神と水口はソファ-に座りながら、オメガからの接触を待った。警備には吉井の他に柿崎と篠原、ホテルの外には無線機を持った車が二台待機していた。

水口と石神は電話の主の女性にについて話し合っていた。

 水口が東京にいることは、オメガはもちろん敵の連中も知っていた。これは罠ということも考えられた、となると敵は既に写真の事も、オメガの暗号名も知っていることになる。 しかし水口はその可能性を否定した。写真の事を知っていれば、金田をただ殺したりせずに捕まえて、写真を取り返そうとするだろうし、捕まえたとするとオメガの事も聞き出している可能性もある。

 しかし今回はオメガと接触した金田を殺しただけということは、敵は何を持ち出されたか知らないに違いない。となると、あの女性はオメガの連絡員と言うことになるが、彼が北朝鮮を抜け出すまえに、日本国内に仲間を作っていたとなると、亡命者は二人になるかも知れない。一人でさえも面倒なのに、二人となるとどうなることやら二人は考えていた。


小さく鈴の音が聞こえ、ボ-イが「水口様」と書いたボ-ドを持って歩いていた。

 石神がすばやく合図をすると、お電話が入っておりますと言いながら、ロビ-の隅の電話を示した。

 水口が席を立ち受話器を取り上げた。電話の主は女性だった。「ヒルトップホテルの六六一号室でお待します。くれぐれも尾行に気をつけて下さい」

と言って電話は切れた。

水口が席に戻り石神に内容をつげた。

「かなり用心してますね。今日は何カ所ぐらい回されますかね」

「この歳になると、いい加減にしてほしいな」と、水口は言いながら、靴紐を直すように前にかがみこんだ。

「我々はオメガか、その仲間に見張られているな。我々の仲間を敵と勘違いしなければいいがな」

「わかりました。その点も指示しておきます」と言うと、石神は気づかれないようにメモを書いた。メモをソファ-の隅に隠して二人は表玄関に向かった。

暫くして吉井がそのソファ-に座りメモを回収した。水口と石神はタクシ-をつかまえると、ヒルトップホテルへ向かった。


角を二つ三つ曲がったところで、石神と水口はタクシ-を降りた。二人は歩道を歩き、石神は上着の内側からイヤホ-ンを取り出すと耳にいれた。

「聞こえるか、吉井」

石神は水口と話すようにしながら、胸の無線機に向かって話した。

「よく聞こえます」

吉井の声がイヤホ-ンを通して聞こえてきた。

「私達がホテルを出たあと、監視者か尾行者はいたか」

「いえ、誰も居りませんでした。現在も尾行は有りません」

「それなら次の角で、拾ってくれ。そしてヒルトップまで頼む」

「了解、次の角で待機します」


水口達は南側にある入口からヒルトップホテルへはいると、そのまま六六一号室へ向かった。

 ドアをノックしようとした石神は、ドアの下にくさびをはさみ閉まらないようにして有るのに気が付いた。

 水口を壁ぎわに立たせて、石神はドアを静かに開けた。部屋の中には誰もいなかった。 石神が水口を部屋に招き入れると、電話のベルがなった。石神が受話器を取った。

「もしもし、水口さん?」

水口の姪といった女性の声がたずねた。

「鈴木です。君の叔父さんもここにいるよ」

「水口さんと一緒にいたのはあなただったのね。私は水口さんと二人きりでおあいしたいわ」

「悪いがそれは出来ない。水口さんを一人で行動させるには、今は危険すぎる」

「どうしても、と言ったら」

「残念だが、叔父さんと二人で帰るしかないな」

「わかったわ、三人でデ-トしましょう。今そちらへ行く・・・」

彼女は不意に黙った。

「どうした」

と石神は静かに言った。

「尾行されてたみたいね」

彼女は冷やかに言った。

「これではこちらの身も危なくなるわ。あなた達は素人なの? デ-トはおあずけね、また連絡するわ。一人が階段、二人がエレヴェ-タ-にむかったわ、十分気を付ける事ね」

「誰だそいつらは」

と石神は聞いた。

「誘拐とか殺しとか、荒っぽいことが好きな連中よ」

と言うと彼女は電話を切った。

「どうしたのかね、石神君」

水口は落ち着いた声で言った。

「北の奴らが、この部屋へ向かっているようです」

石神はイヤホ-ンを取り出しながら言った。

「吉井、聞いているか」

「聞いていました。私が六階、柿崎が五階、篠崎がロビ-にいます」

「それでは柿崎に階段を見張らせ、吉井は私と二人でエレベ-タ-に向かう。篠崎は非常階段から水口さんを迎えにこい。全員とも無線はきるな」

 イヤホ-ンからは各自からの了解の合図が聞こえた。

石神はドアを開け、水口に非常階段を示しながら言った。

「奴らはどうしますか」

「そうだな、捕まえてしまえ。少しでも敵の数が減ったほうがいいだろう」

 水口はウインクしながら、非常階段へ向かった。

吉井は既にエレヴェ-タ-の前にいて、指で四の数字を示していた。

 石神もエレヴェ-タ-に向かいながら、胸の無線機に向かって言った。

「今からは、各自の状況を絶えず連絡しあうように。頑張ってくれ」

 後ろを振り向いた石神は、非常階段の扉の向こうに水口が消えるのを確認した。

 エレヴェ-タ-の表示板は五階を示していた。イヤホ-ンから柿崎の声がした。

「接触します」

 その後誰かが倒れる音に続き、くぐもった音が聞こえ、組み合っているような音が続いた。

石神も吉井も、そのくぐもった音を聞いた瞬間、顔に緊張か走った。北の奴らは消音銃を持っているらしい。石神は急いで上着を脱いだ。表示板は既に六の数字を示していた。

エレヴェ-タ-の扉が開くと同時に、石神は上着を広げたまま、エレヴェ-タ-の中に投げ入れた。

 くぐもった音が、腰を落とした石神と吉井の上でひびいた時には、すでに二人は躊躇する事なく、エレヴェ-タ-の中に飛び込んでいた。

石神は一人の男の腰に、肩から体当りをした。男は後ろの壁に叩きつけられた拍子に、頭をしたたか打ち、その場に崩れ落ちた。

 石神は男の拳銃を拾い上げ立ち上がった。吉井はもう一人の男の首筋に手刀を打ちすえていた。男はうめき声も上げずに気絶した。 石神が閉まりそうになっていたエレヴェ-タ-のドアをおさえている間に、吉井は倒れている二人を廊下に引き出した。

石神が外れていたイヤホ-ンを耳にいれて、柿崎を呼び出したとき、猿ぐつわをかませ、後ろ手に手錠を掛けた男を連れた柿崎が階段のほうから現れた。

「大丈夫だったか」

と聞いた吉井に、柿崎は腫れ上がってきた左目を指しながら言った。

「いっぱつ食らってしまいましたよ。当分デ-トはおあずけですね」

「俺のは経費でおりるかな」

と言いながら石神は穴の開いた上着をかざしてみせた。

 その時石神のイヤホ-ンから水口の声が聞こえた。

「何をくだらないことを言っている。早く脱出しろ。上着の経費は大阪で面倒を見るから安心しろ」

「了解」

と石神は嬉しそうに言うと、みんなを非常階段へ急がせた。


東京経済興信所の石神の部屋で、石神、水口、吉井の三人は、対朝鮮専門の山口からの報告を聞いていた。

昨日捕まえた三人は、先日の飯島部長を襲った者と確認されていた。尋問は引続き行われていたが、成果は上がっていなかった。

山口の調べでは、北朝鮮の動き以外に韓国とロシアの動きも活発になっているとの事だった。

「韓国とロシアの目的はわかっているのか」、と水口が山口に聞いた。

「今のところわかっていません。両方とも各所に人を配置していますので、何かを見張るか、あるいは何かを探しているようにおもわれます。ただーーー」、と山口は口ごもった。次の話をしようか辞めようか迷っている様子だった。

「ただ、どうしたんだ。何か有るなら早く言わんか!」

と水口がせっついた。

「水口さん、何をいらついているんですか。すこし疲れぎみですか」

と吉井が笑いながら言った。

「私ならともかく、山口ではびびってなにも言えなくなってしまいますよ」

「何を言っているか!わしは疲れておらんよ。ただおまえらの仕事がのろくてのろくて呆れているのだ」

「まだ三日目ですよ。敵さんだってまだ目標を捕捉できないでいるし、こちらとしても連絡を待つ以外に、うつてはありませんよ」

水口は横目で吉井をちょっとにらんだが、すぐ諦めたように肩をすくめると、ソファーに深く座りなおして、煙草を取り出した。

「さあ、山口君とやら、続けてくれたまえ」、と静かに言うと、これでいいかと言うように、吉井の方に目を向けた。

吉井はちょっと微笑むと、山口に手をふって話すように仕草をした。

「ロシアの動きかたにーーーこれはあくまでも私の推測ですがーーー特異なパターンがみられます。監視行動や探索行動ともちがい、どちらかというと支援行動のようにおもえるのです。しかし通常の支援ともまたちがうのです」

石神は山口の話を聞きながら水口を見ていたが、その煙草をもつ指先がわずかに緊張するのを見ていた。水口が口をひらいた。

「石神君、ロシアから誰か重要な人物がきているか」

 その口調には少しも緊張を感じさせない落ち着きがあった。

「いえ、誰もきていません」

 水口は煙草を灰皿でもみ消した。そしてなにげないそぶりで続けた。

「それにしても通常の支援とも違うと言うのは、どんな点からだね」

「警護と追跡が混じったような感じです。つまり目標を追跡しながら、しかも目標に気づかれないように警護をしているようにおもえるのです。それに気づいたのは二日前です。ロシア担当の清水の報告書を読ませてもらったときに、何かおかしいと思ったのですがはっきりわかりませんでした。その時に気になったのは、ロシアのキーロフと、韓国の催とのいざこざです。報告書によると催が一方的にキーロフにからまれたようでした。しかし昨日の報告書を今朝見せてもらってわかりましたが、昨夜ロシヤの連中もヒルスホテルから、ヒルトップホテルへ動いています。これだけでしたら、うちの連中が監視されていただけと思うのですが、所長達が敵と接触したと思われる時刻に彼らは移動しています。それも歩きの者が二名と、車が二台です。それで、彼らは所長達でなく別な者を尾行していると思ったのです」

水口はソファーに深く座り、胸の前に指をくんで聞いていたが、わずかに石神のほうにうなずいた。

「それで彼らの目標はわかっているのか」

と石神がきいた。

「報告書にそれらについての記載はありませんでした」

と山口は残念そうに答えた。

「清水と打ち合せしながら、その目標を何とか突き止められないかやってくれ」

と石神は言いながら目の前の報告書を揃え始めた。

山口が挨拶を済ませ、部屋を出て行こうとすると、石神が立ち上がり山口に追いつき、その肩に手をおきながら言った。

「なかなかいい分析だったぞ。俺もきがつかなかった。今度からもっと自信を持って、どんどん言ってくれ」

と言いながら軽く背中を叩いた。

自分の考えが評価されたことで、急に元気な顔つきになった山口は、明るい顔で部屋を出て行った。

 石神が席につくと、水口が言った。

「韓国もロシアも、オメガに気づいているようだな」

「そうらしいですね。しかもロシアの動きは明らかにオメガの連絡員を支援している」

「オメガはロシアとも通じている、と言うことですか」

吉井が、どちらともなく質問をした。

「その可能性がありそうだな」

と水口が呟くように言った。

「それが事実だとすると、何故オメガはわれわれと接触したがるのか、疑問が残りますね」

と石神は言うと、考え込むように眉を寄せた。 水口も深くうなづくと呟いた。

「オメガの持ってきた情報も、再検討する必要があるな」

「といいますと」

「今のところ、オメガが北の人間という確証はなにもない。あくまでも金田の話のみだ」「それでは、オメガが偽情報を持ってきたということですか」

吉井が水口に聞いた。

「いや、偽情報はないと思う。我々だって馬鹿じゃないからな。情報は真実だが説明が少ないと言うところじゃないかな」

「嘘は言わないが、言わなくてはいけないことも言わない、というやつですね」

「まあ、そんなところだ。ところで石神君、写真はどうなっている」

「鑑識の方で調べていますが、これといって不審なところはなさそうです」

「ロシアがなんらかの方法で写真の事を知り、オメガが我々と接触できるように望んでいるだけかも知れないな」

「当然、裏ではロシアの利益があるということですか」

「それもわからん。とりあえず、早くオメガを保護し、いろいろ聞かなくては先に進むことができん。それも大至急だ」


その日の午後遅く、オメガの連絡員から電話がはいった。

「無事だったみたいね」

「おかげさまでね。それより今は何処にいる。私たちは早くオメガを保護したいとおもっている」

「それはこちらも同じ。早く保護してもらいたいわ。それなのにあなた達がお客さんを連れて来るから駄目なのよ」

「分かった。今度はもっとすばやくやろう」「それなら、二時間後に昨日のヒルトップホテルはどう。まさか同じ所を使うとはおもわないでしょう」

「いや、ホテルはもうよそう。それより二時間あれば北千住まで行けるかな」

「ちょと待って」

と言うと、電話のむこうで何かがさごそ聞こえた。何かで調べているようだった。

「日比谷線の北千住ね」

「そうだ。西口へ出て、大通りをまっすぐ歩いて行くと、日光街道にぶつかる。そこの交差点で待ち合わせをしよう。車で行く。そちらの目印は」

「いえ、こちらで見つけるわ」

「分かった。それでは東京方面からきて、信号を渡ったところで止まっている」

電話は一方的に切れた。

 石神は吉井を呼ぶと電話の内容を話し、これからの打ち合せをした。


石神は車のダッシュボードについている時計を見た。もうじき七時になる。約束の時間だが、それらしき人物は見あたらなかった。 石神が国産の小型車をここに止めてから、うしろの信号のむこうに一台と、石神の少し先に一台車が止まっていた。国産の大型車でそれぞれ二人ずつ乗っていた。ナンバーからレンタカーでなかった。たぶんロシアの連中らしい。

信号が赤になり、石神の後ろの横断歩道を人がわたり始めたときに、その中の一人がすばやく車に近づくと、助手席にいきなり乗り込んできた。

「すぐ出して」

その女はいきなり言った。その声は、あの電話の女だった。

 石神はウインカーも出さずに車を発進させた。

「オメガはどこだ」

「え、なに」

女は一瞬驚いた様子だった。

「オメガは何処にいるんだ」

石神はくりかえした。

「何を言っているの。オメガは私よ」

今度は石神が驚いた。

「オメガは女性だったのか」

バックミラーには、先ほど石神の前に止まっていた車が、慌てて発進して来るのがうつっていた。

「私が女性だって事は、水口さんから聞いていないの」

「君が大阪で会った男は、そのことを言う前に死んでしまった」

石神は路地を左折しながら言った。

「なぜ死んだの。もしかして殺されたの」

女は驚いたように言った。

「君の元仲間に殺られた」

石神はバックミラーを見た。ヘッドライトの光が、左折して路地にはいってきた。

「かわいそうな事をしたわ。・・・写真も届かなかった訳ね」

「写真は、こちらの手元にある」

声には出さなかったが、女がほっとした様子が、石神には分かった。

石神は千住の町の狭い裏道を右に左に曲がって走った。

「つけられているの」

女は後ろを振り返りながら言った。

 石神は無言のまま車を走らせた。すでに国産の大型車のヘッドライトは見えなかった。 石神は西新井橋のたもとへ出ると右折して、土手下のいっぽん道を千住新橋へ向かった。

バックミラーを見ていたが、後に続いてくる車はなかった。そのまま日光街道の下をくぐり、さらに裏道を通り、また堀切橋へ続く土手下の道に出た。

「もうだいじょうぶだ」

「つけられていたの」

「ああ、だけど千住の町に大型車は合わなかったな」

石神は、ヘッドライトを三回パッシングしながら、路肩に止まっていた車の脇を通り抜けると、その車がヘッドライトをつけて、動き始めた。

「あの車は」

「仲間さ。もし尾行されてしまい、その車を撒く事が出来なかった場合は、あの車がここで邪魔をする手筈だった。左は土手だし、適当に右に曲がっても、ここいらの道は狭い上に、一方通行だらけで、二度とこの道に戻ることはできない」

石神はバックミラーで吉井の車を確認しながら堀切橋の下をくぐり抜けると、土手上の道に出て、荒川沿いに走った。

九月になっても蒸し暑いとはいえ、秋が近づいているらしく空気が澄み渡り、ここからの見晴らしはきれいだった。遠くに家々の明りや高速道路の街路灯が連なり、漆黒の中に散りばめた宝石のように光り輝いていた。


 翌日、報告書を作成していた石神の机の電話がなった。水口からの電話だった。

「オメガを無事保護したらしいな。おめでとう。それにしてもオメガが女性だとは思ってもみなかったな」

「私もびっくりしましたよ。それにもう一つ驚いたのが、私が待ち合わせ場所について、さほどもしないうちに、ロシアのとおもわれる車が二台、到着しました」

「ほう、ロシアのが。でもロシアがオメガを支援しているらしいことは確認済みだろ」

「オメガが電車で来たとすると、ロシアの連中も電車で来るか、あるいは支援の車があったとしても、到着はかなり遅れる筈ですが、彼らはかなり早く着いています。誰かが前もって待ち合わせ場所と時間をロシアに連絡したか、あるいはオメガと一緒に車に乗ってきたか、いろいろ考えられますよ」

受話器のむこうで、水口のため息が聞こえた。

「なかなかすんなりとは、事を運ばせてもらえないようだな。ところでオメガの査問は誰がおこなっている」

「吉井です」

「あの若いのか。彼が優秀なのは分かるが、今回は石神君が直々にやってくれんか。どうも気になることが多すぎる」

「分かりました。どちらにしてもこれから行く予定でしたから」

「済まないが、頼む。年を取るとどうも心配性になっていかん」

愚痴をこぼしながら、水口の電話は切れた。


葛飾区東水元にある東京経済興信所の持ち家に、石神は昼を少し回った時刻に到着した。 昨日とはうってかわり、秋風が吹き始め気温が低下していた。水元公園に隣接したこの辺りは、東京でありながら田畑が広がり、秋の収穫を待つ水田などもあった。

 高い塀に囲まれ、木立の生い茂るその家は、周りを田畑に囲まれた普通の家の様に見えたが、じつは敷地の内側も外側も電子機器で防御された、東京経済興信所が関東近辺にいくつか持っている家の一つだった。

石神が敷地の中の駐車場に車を止めると、玄関から人の良さそうなお年寄りが出てきて、石神を迎えた。

夫が定年退職した老夫婦が、今まで住んでいた都内のマンションを売却して、この静かな水元に移り住んで来たことになっていた。もちろん特別調査部の大先輩である。

「安田さん、どうですか、様子は」

石神は車を下りながら言った。

「とても感じのいいお嬢さんだね。お世話しやすい人ですよ」

と安田は言った。

お世話しやすい、石神は疑問を感じた。生まれた国を捨てて、他の国に亡命することは観光旅行とは違う。不安や苛立ちが現れ、扱いにくい存在になる。

石神の表情を読み取った安田は言った。

「そうなんだよ。彼女は要注意だな」

「分かりました。注意します」

石神は玄関を入ると、すぐ横の部屋に控えている警備の部員に挨拶をした。彼らは電子機器に囲まれたその部屋で、二十四時間の警備体制をしいていた。

応接間のドアが開き、吉井が顔を出した。石神は応接間にはいるとソファーに腰を下ろした。

「査問は進んでいるか」

「ええ、とても協力的ですよ。これが午前中の内容です」

吉井は書類の束を差し出した。

「こんなにすすんだのか」

石神は書類の枚数を見て驚いた。

「彼女は今なにをしている」

「そろそろ食事が終わる頃だとおもいます」 石神は彼女に与えた部屋のドアを開けた。

 彼女は窓際のテーブルに座り庭を見つめていたが、石神の姿を見ると立ち上がった。

「食事は済みましたか」

彼女はうなずいた。

石神は後ろに控えていた吉井にコーヒーを頼むと、彼女の向いの椅子に座った。

「どうですか、ここの居心地は。何か不自由なことはありますか」

「いいえ、とても快適です。私の国の招待所とは格段の差です」

「それは良かった。何かあったら遠慮なくおっしゃって下さい。なるべく希望にそうようにします」

「ありがとうございます」

ドアがノックされ、吉井がコーヒーを持ってきた。テーブルの上の食器をかたずけると、コーヒーを置いて出て行った。

石神はコーヒーを飲みながら聞いた。

「日本語がとてもお上手ですね。何処で習いました」

「万景台革命学院と外国語革命学院です」

「ほう、それはすごい。出生がいいんですね」「おじいさまは偉大な首領様と共に戦いましたし、父は国家保衛部保衛員をしています」「むこうでは、今ごろ大変ですね」

彼女はうつむくと、目を手にやった。

「父や母、それに兄弟、親戚達には申し訳ないことをしたとおもっています」

彼女は涙声で言った。

石神はしばらく彼女が落ち着くのを待ってから言った。

「キムキョンヒ、金京姫、美しい名前ですね」「ありがとう、でも私の国では多い名前です」「仕事は何をしていました」

「三号庁舎にいました」

「対南工作の機関ですか」

「私の場合は、海外僑胞政策のための連絡員が主でした」

「日本には何回も来ていましたか」

「ええ」

「いつもはどうやってきました」

「特殊工作船で日本に近づき、その後は小舟とゴムボートです」

「日本ではどんな仕事を」

「海外僑胞を主体思想でしっかり武装させることです。それにより偉大な首領様と親愛なる指導者同志の熱烈な信奉者に仕立て、社会主義祖国の隆盛、発展に貢献するとともに南朝鮮かいらい徒党を徹底的に孤立させ、朝鮮革命の全国的な勝利を成し遂げるようにするためです」

「日本以外の外国には行きましたか」

「ええ」

「どちらへ」

「東ドイツとモスクワです」

「期間はどれくらい」

「東ドイツが一年、モスクワが二年半です」 石神はその後しばらく質問を続けたが、急に思いだしたように腕時計を見ると言った。「これは失礼。つい話し込んでしまった」

「いえ、構いません」

「午前中は、ずっと査問が続いて疲れているでしょうから、午後はゆっくり休んでもらおうと思っていたのに」

石神は立ち上がりながら言った。

「またお話ししに、寄っても構いませんか」

「もちろん、構いません。それと・・・」

 彼女は、ちょっと言いよどんだ。

「なんですか」

「日本の事をよく知りたいので、新聞を読ませて頂きたいのですが・・・」

「もちろんいいですよ。明日から用意させます」

石神は、軽く微笑むと部屋を出た。

応接間に戻り、煙草を吸っていると、吉井が書類を持って部屋に入ってきた。

「これが今の話しのコピーです」

と言いながら石神に手渡した。

石神は吉井から受け取ると、頼むぞ、と言いながら部屋を後にした。


事務所に戻ると、水口が待っていた。

「やっと、もどったか」

ソファーに座って書類を読んでいた水口が顔を上げて言った。

「お待たせして済みませんでした」

「気にすることはない。若いのからファクシミリで送られてきた査問の報告書を読んでいた。それに君の秘書は実にうまいコーヒーをいれてくれた」

水口はうれしそうに言いながらコーヒーを飲んだ。

ドアがノックされ、平井よしみが石神にコーヒーを持ってきた。

「平井君、水口さんがえらく君のコーヒーを気に入ったらしいよ。おかわりを作って上げてくれないか」

「わかりました」

と言って、よしみはいたずらっぽく笑いながら、水口を見た。

その仕草を見て石神が言った。

「平井君、何かやったな」

「水口さんに、砂糖とミルクは、とお聞きしましたら、どちらもいらないと言われましたので、それならば味付けにと思いまして、琥珀色の液体を少しブレンドしましたの」

石神は呆れたようによしみを見て、次に水口を見た。水口はそ知らぬ顔をして、窓の外の景色をを眺めていた。

 石神はふっと笑みを浮かべるとよしみに言った。

「君は実に気のきく秘書だ。水口さんにスペシャルブレンドのコーヒーのおかわりだ」

よしみは、可愛らしい笑顔を残すと、部屋を出ていった。

石神は煙草に火をつけると、まだ外の景色を眺めていた水口に言った。

「それで報告書を読んで、いかがでしたか」 水口は話題が変わったので、安心したかのようにこちらに向き直ると、書類を持ち上げながら言った。

「実に巧みだ。前もってかなり練習したものとみえる。これを読む限りでは、こちらに協力しようとしているように見えるが、肝心なところはしゃべっていない。例えばここなどだ」

水口は報告書の一部を読み上げた。

<ええ、そうです。南道新浦に建設したのは核施設ですが産業用です。博川と寧辺に建設したのが軍事用です>

「軍事用核施設の疑惑はありましたが、いままではどの施設か特定は出来ませんでした。でもこれではっきりしましたよ」

石神が、異を唱えるように言った。

 その時、ドアがノックされて、よしみがコーヒーを持ってきた。      

よしみが出て行くと、コーヒーを一口うまそうに飲んで水口が言った。

「確かに今まではそうだった。しかし一ヶ月ぐらい前に、米国防総省から軍事衛星による情報が極秘に入ってきていて、博川と寧辺が軍事用なのは既に分かっているのだ。つまり彼女は既にこちらが極秘に知っていることや、近い将来分かってしまいそうな事を述べているに過ぎない。敵ながらよく調べあげている。しかも言葉足りなくの説明だ。博川の施設は軍事用に偽装されているにすぎん。寧辺こそが本命だ。しかし、いまこの情報だけで戦争が起こったと仮定すれば、博川と寧辺に兵力は分散されてしまう。敵ながらあっぱれな話し方だ」

水口はソファーにもたれ掛かると、ゆっくり煙草に火をつけた。

「私は気づきませんせしたが、そのような箇所は何カ所もありましたか」

石神は、腹だたしそうに煙草を消しながら言った。

「何カ所かあったが、しかし石神君が悔しがることはない。これらは私なんかより、もっと上しか知らない極秘情報だ。君はそれらを知らないのだから、気が付かなくてもしかたがない。それより石神君にそれらの情報を話さなかったのは、私の落度だ。許してくれたまえ」

水口はすまなそうに言った。

「いえ、水口さんが謝ることはありません。私たちは国内対策が主なのですから、それに必要な情報さえ与えられていれば充分です」「それでは改めて、石神君の感想はどうだね」「東水元の安田さんの話では、彼女には、亡命者特有の苛立ちや不安はないそうです。用心するように注意がありました。それに報告書を読んでもらえば分かりますが、彼女の話は韓国の事について全然触れていません。いつ韓国側と接触ができるのかとか、韓国の国の状態はどうなっているか、などの質問はありません。それに亡命するとはいっても、今まで生まれ育った国であり、ついこの前まで忠誠を誓ってきたにしては、国の秘密を話すのにためらいが認められません。何かあると思いますね」

水口は煙草を消して立ち上がると、考え込むように頭の後ろをかきながら窓際に立ち、しばらく外の景色を見ていた。

 そして振り返ると言った。

「石神君も知っていると思うが、明後日から社会党の委員長と、自民党の副総理が第十八富士山丸問題で北へ行くことになっている。政府としては、それまでにこの問題をはっきり把握したいらしい。オメガこと金京姫は何故あの写真を持って日本にきたか、その真相が知りたいらしい。それで石神君に聞きたいのだが、現時点までの情報で考えると、オメガが北からきたのは間違いないと思うか」「間違いないと思います」

「うむ、それで次に、オメガは本当に亡命する気があると思うか」

「いいえ、オメガにその気はないと思います」石神は即座に答えた。

「あの写真についての真偽は」

「あの写真そのものは、北で撮ったものと思います。しかしあの弾頭が核なのか、またはそれらしく見せているのかその真偽は分かりません」

「オメガの今回の行動に、北が絡んでいるとおもうか」

石神は、ちょっと考えるようにしてから答えた。

「そこが、まだよく分からないのです。国に残っている者の話をしたときに、オメガは涙ぐみました。彼女が亡命するならば、家族や親戚は強制労働に送られますから、当然の悲しみだと思います。あの涙を信じるのならば、亡命は本物になりますが、オメガの態度を見ていると、どうしても本当に亡命の意志があるとは思えません。北が絡んでいる、と考えるのが妥当なのかなと思うのですが・・・」

「確かに、査問の回答を見ると、すでに北において、どの程度話して良いか検討してきた様子がみられる」

と水口はソファーに座りながら言った。

「となると、今回のオメガの亡命と言うのは、北が仕組んだ罠であると考えるのが妥当だな」「だとするとオメガの今回の亡命劇の主役はあの写真です。それがどんな役割をするのか、まだよく分かりませんが、それをいかにも真実らしく見せるために亡命を装っていると考えますと、わざわざ追跡班を組んで捕まる危険を犯したり、北の情報収集能力から考えて、先ほど水口さんが言われたほど、きわどい回答が出来るか疑問が残ります。それより、オメガが北を脱出してきたのは本当で、行き先についてはロシアと相談してあると考えるのはどうですか」

石神が新しい煙草に火をつけながら続けた。

「それならば、オメガの涙も、落ち着いた態度も、北の追跡も、それにきわどい回答にしてもロシアの情報能力なら納得がいきませんか」

水口はソファーから、体を起こしながら言った。

「そんなことをしたら、ロシアと北の仲が気まずくなる。そんな危険を犯してまで、北の核を暴露して、ロシアには何のメリットがあると言うのだ」

「ロシアが、絡んでないとすれば、北は核の存在を日本にわざわざ知らせて、何を狙っているのでしょうか」

「わからん。それがわからんから悩んでいるのだ。とりあえず、そこら辺の所をもう一度あたってみてくれ」

と言うと水口は立ち上がり、事務所をあとにした。


日が暮れかかる頃、石神は東水元の隠れ家で、金京姫とテーブルをはさんで座っていた。「もう一度聞きますが、あの写真はどの様にして手にいれました。あなたの話だと、最初は、金日成主席の誕生記念式典に参加したロシア高官に公開した時に自分で写した、その次が対南工作担当の鄭敬姫労働党連絡部長の机の上から盗みだした。そうですね。でも私たちはどちらも信じられません。どちらもあなたの国では不可能に近いことだ」

彼女はうんざりしたように、石神の視線をそらし、窓の外を眺めていた。

「協力してもらえないと、あなたに亡命の意志は無いと言うことで、出入国管理令、外国人登録法違反で国外強制退去の処置を取らざるおえません」

彼女は視線を石神にもどし、しばらく見つめていたが、うつむくと話し始めた。

「誕生式典に参加したロシア高官と、しばらくしたのち夜を供にしました。情報収集が目的で、もちろん上からの命令です。その時にフィルムを見つけ盗み出しました。現像は私たちの班でしました。その時にあの写真を同志に隠れて一枚多く焼いて隠し持っていました」

石神は、膝の上で両手を強く握りしめながら話していた彼女を見つめて、真偽の程を考えていた。嘘を本当にみせるには、真実を少し入れてそれにそって話すこと。

「写真を撮ったのはあなたがたではなく、ロシア高官だ、と言うことですか」

「そうです。ロシア高官が盗み撮りしたものです」

この部分は真実のようだった。

「あの写真は、いつ頃公開されるのですか」と彼女は、無関心を装って言った。

「なぜです。気になりますか」

「いいえ、ただ西側ではどんな情報でも、人民に隠さずに報道すると聞いていたものですから」

「今のところ、どうなるか分かりません」

彼女は、報道されることを望んでいるのだろうか。

「でも報道されると、あなたの国は核拡散防止条約に加盟しているから大打撃を受けることになるが、あなたが持ち出したこともばれてしまうわけで、あなたにとって身の危険が大きすぎませんか」

彼女はうつむいて何も言わなかった。

石神は、はったりをかけて彼女を揺さぶろうと、急に話題を変えた。

「韓国の件ですが、決まりましたよ」

「えっ、本当ですか」

彼女の瞳に、わずかだが動揺がみられた。

「うまく行けば、明日にも韓国へ向けて出国できます」

「そんなに早くですか」

明らかに、動揺を示した。

「先ほどは、写真の件で国外退去だと言っていたのに」

「申し訳ない。どうしても写真の件を知りたかったもので。そんなことより、早く韓国へ行けることになって良かったですね、うれしいでしょう」

「ええ、うれしいですけど、日本側の尋問は、もういいのですか」

「まだ日本に居たいのですか」

「そういう訳ではありませんが」

日本にまだ居たがる理由は何なんだ。

「写真も韓国に渡されるのですか」

「もちろんですよ。たぶん韓国でこの件は発表されるでしょう」

「でも、韓国で発表しても、いつもの対朝工作だと思われて、世間では信用しません」

「そんなことはありません。韓国は国際的に信頼されています」

どうしても、日本で発表させたいのか。その理由は何なんだ。

「明日ですか」

「何も問題がなければ」

彼女は、考え込むようにうつむいていた。「実は、まだお話していない大事なことがあるのです」

彼女は、まっすぐに石神を見つめながら言った。その瞳には、強い意志が感じられた。ついに切札を出してきたぞ。

「首領様の代に、南朝鮮を米帝と南朝鮮かいらい政権の魔の手から解放させ、偉大なる首領様と親愛なる指導者同志を統一したソウルの広場に高く奉るために、南侵の計画があります」

石神が驚くと思ったのか、彼女はいったん言葉を区切ると、石神を見つめた。

南侵の計画は以前から噂されていたから、いまさら目新しくはない。しかし彼女は切札をきったのだから、これで終わるはずはない。 石神は彼女の瞳や顔の筋肉の動きに、神経を集中しようとした。もしこれからの話しに嘘があれば、何処かに必ず兆候が現れるはずだ。

石神が何も答えないので、彼女は続けた。「その計画の一部に、南侵と同時に日本を狙っている核ミサイルの発表があります。これは日本を人質にして、米帝の介入を阻止するためです。日本の防衛力ではミサイルを阻止できません。日本は米帝に介入しないように懇願するしかありません。もしそれを無視して米帝が介入すれば、南朝鮮は侵略を免れるかも知れないが、日本に核ミサイルが打ち込まれます。そうなると米帝に対する国際非難は高まり、南朝鮮が侵略された場合に比べて、米帝の受ける損害は計り知れないものがあるはずです。当然米帝は何日か躊躇します。あるいは明らかに介入を諦めるでしょう。そしてその間に、南朝鮮は解放されるのです」

嘘を本当にみせるには、真実を少し入れて、それにそって話すこと。

彼女は少し高揚していた。

「あなたはそれを望んでいるのですか」

その言葉で自分の気持ちの高まりに気づき、彼女は少し慌てた。

「そんなことはありません。私をこころよく保護してくれた日本のことを考えて、事前に策を練ってもらいたいと思ったのです」

彼女は少し落ち着きを取り戻したようだ。「そのために、私が日本にしばらく居れば、何かのお役に立てるのではありませんか」

南侵と核攻撃の話を持ち出してまで、日本にとどまりたい理由は何なのだろう。

「その件については、明日もう一度話し合いましょう」

石神はその部屋を出て、吉井のいる応接間に向かった。

吉井は部屋の中央に立ち、うす笑いを浮かべて石神を待っていた。

「石神さん、いつ韓国に打診したのですか。いいんですか、あそこまで言ってしまって」

「あの程度のはったりで心配するとは、君らしくないぞ。真実が少しで、あとはみな嘘だらけだ。心配するな。それよりコーピーは」

「いま作らせてます」

「私は、事務所へ戻るからあとで送ってくれ。それから水口さんにも連絡をとって、事務所に来てもらうように」

石神は、そのほか幾つか吉井に指示すると急いで事務所へ向かった。


石神が事務所に戻ってから、かなりたったが水口は現れなかった。石神は平井よしみに水口との連絡を頼んだ。

 しばらくして、よしみから内線が入った。「ただいま飯島部長とともにに、首相官邸にて打ち合せ中だそうです」

仕方なく、石神は今回の内容をはじめから再度検討していた。

ふと、気になることがあり、石神は山口に内線をいれた。

「北の連中の動きはどうなっている」

「不思議なことに、昨日から主だった動きはしていません」

次に、ロシア専門の清水に内線をした。

「何か変わった動きはあるか」

「国内ではありませんが、おもしろい話しがロシアから入ってきてますよ」

「どんな話しだ」

「確認は取れていない話ですから、噂話と思って聞いてもらいたいのですが、ロシアが北朝鮮に対する支援を大幅に打ち切るかわりに、北朝鮮に対して、金持ち日本から支援をうけとる方法の入知恵をした、と言う話です」

「おもしろそうじゃないか。その方法は」

「残念ながら、そこまでは入っていません」「清水、その話を最優先で追って、なんとかその方法をつきとめられないか。期限は明後日の午前八時ぐらい迄だ。分かりしだい、何時であっても構わないから、連絡をくれないか」

「分かりました。あちらこちらの、貸しを頼ってみます」


清水は石神との話が終わると電話のフックを指で押さえて回線を切り、すぐ指をはなすと外線につなぎ、プッシュボタンを押し始めた。

電話の相手はすぐに出た。

「ロシア大使館です」

「通商部のヴィクトル・フロローフをお願いします。音羽山といいます」

「こちらにそのような者は居りませんが、何かのお間違いでは」

「わかりました」

清水は電話を切ったが、ヴィクトルには音羽山から電話があったことは伝わるはずだ。京都の清水寺の山号は音羽山といい、ヴィクトルには清水からの電話と分かるはずだった。 十五分もしない内に電話が鳴った。

 清水は受話器を取って名乗った。

「ヴィクトルだ。いま公衆電話からかけている。困るじゃないか。あれほど直接電話はしないでくれと言ってあったのに」

ヴィクトル・フロローフは怒りを隠そうともせずに、流暢な日本語で受話器のむこうから言った。

「今晩会いたい。何処へ何時に行けばいいかな」

 清水が会いたいと言ったので、電話の向こうで息をのむ気配があった。

「今夜は無理だ。はずせない用事がある」

声の調子が、大人しくなっていた。

「どうしても、今晩会いたい。場所と時間を」「無茶を言うな。俺にだって予定がある」

ヴィクトルは、懇願するように言った。

「時間と場所を」

「・・・分かった。十時に南砂の例の場所で。ミニクーペのとまっているボックスだ」


清水は江東区南砂にあるカラオケボックスの駐車場に車を入れた。ここは以前に一度使ったことがあった。

ミニクーぺの横に車を止めると、清水は車を降りて、ボックスのドアを叩いた。

ドアが内側から開き、巨体の男が現れた。清水は中にはいると、後ろ手にドアを閉めた。「久しぶりだな」

手を差し出した清水を無視して、男はカラオケのスィッチをいれた。

ヴィクトル・フロローフは、椅子に座りながらテーブルの上の缶ビールを取ると、清水に投げてよこした。

清水は両手で受け取ると、壁によりかかりながら栓を開けた。勢いよくビールが噴き出すのを口で受け止めながら辺りを見回した。 ヴィクトルの周りには、既に幾つかの空かんが転がっていた。

 カラオケから、音楽が流れ出した。

「何の用事なんだ。直接電話をしてくるのは危険すぎると、あれほど言っておいたのに」「手順をふまなかったのは謝る。しかし急いでいたんだ。貸しを決裁してもらう必要があった」

ヴィクトルはテーブルの上の缶ビールを取ると、残りを一気に飲み干した。

何年か前に日本企業のココム違反の事件があり、その時にヴィクトルの名が上がったが、それを清水がもみ消してあげた事があった。

 清水がその事件を調べたとき、ヴィクトルの名が捜査上に浮かび上がったが、清水の調べる限りでは日本の企業がヴィクトルを利用しようとしていた。ヴィクトルは罠にはまったも同然だった。清水の正義感からすれば、それは日本企業の許されぬ行為であり、彼は国外退去寸前ののヴィクトルを助け、貸しが出来た。

「ああ、もちろん、おまえには借りがある。もちろん返すさ」

清水はヴィクトルに、ロシアが北朝鮮に入知恵をしたらしい、と言う話をした。

「その話が本当なら、その入知恵の内容を知りたい。期限は明後日の夜明けまでだ」

「明後日の夜明け。・・・時間がなさすぎる。もう少し時間をくれないか」

「おまえの時も時間が迫っていた。あと三時間遅れていたら、おまえは今ごろロシアでどんな暮しをしていたと思う」

清水は自宅の電話番号を書いた紙を、ヴィクトルに渡した。

「分かり次第、いつでも連絡をくれ」

それだけ言うと、清水はヴィクトルを残して、カラオケボックスを去った。


石神が水口に会えたのは、翌日の朝になってからだった。

「南侵と同時に、日本への核による威嚇。やっこさん達もうまく考えたものだ。しかも彼女の証言を裏付けるように、北の軍隊が不穏な動きをしているらしい。実にうまいコンビネーションだ」

「物事が余りにもうまく運んでいると思いませんか。オメガと接触できたのが、副総理が出発する三日前。二日前になってオメガが核による威嚇の話を持ち出し、北もそれにあわせて軍を動かす」

石神が煙草に火をつけながら続けた。

「こちらとしては時間がなくて、真偽の調べようがない。それで総理との話しはどうなりました」

「総理も閣僚達も、慌てようといったらなかったよ」

水口は呆れたように、肩をすくめた。

「日本は金で安全を買うことになった。戦時中の償いとして、賠償金を払うことに決めた。その役目は副総理が行う。こちらの条件としては、国際原子力機関の特別核査察が終了次第、というものだ」

「先ほど話した、ロシア担当の清水の話、あれにほぼ間違いないと思いませんか」

「昨夜も、私と飯島とで閣僚達を説得したが駄目だった。確かな証拠がない限り、この決定はくつがえされないだろう」


その夜、石神は事務所で清水の連絡を待っていた。オメガの査問からも進展はなく、あとは清水の報告を待つだけだった。腕時計を見ると、すでに午前三時を回っていた。

資料の見すぎで、目の疲れを感じた石神は、目薬をさすと、軽く目を閉じた。

 石神は電話の呼び出し音で目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。腕時計を見ると午前五時四十分だった。

受話器を取ると、興奮はしているが、疲れきった清水の声が聞こえた。

「遅くなって済みません。確認がとれました」 清水はヴィクトルから得た情報を石神に話した。


ロシアは北への大幅な支援打ち切りを決定した。大統領側はこのまま北と距離をおく予定だったが、議会側は朝鮮半島の緊張状態を望んでいた。議会側を支援してくれている軍需産業のためだ。そのため北との関係を維持するために、日本から金を引き出す方法を北と打ち合わせた。まず社会党の現委員長と自民党の実力者が懇意にしていることから、この作戦が練られた。その作戦は東京作戦と名付けられた。北は社会党に、日本政府との友好関係を深めたいので、自民党との話合いの場を持ちたいと打診した。その見返りとして、第十八富士山丸の釈放をほのめかす。社会党の仲介で釈放が実現すれば、その宣伝効果は計り知れない。社会党は迷わず、委員長と懇意にしている副総理に白羽の矢を立てた。次に北は、日本の訪朝寸前に、北は核ミサイルによって日本を攻撃可能な状態であると想わせる。日本はその核ミサイルが偽物であっても確かめるすべはなく、米国や韓国に頼らずに処理できないか検討する。なぜなら相談する時間もないだろうし、韓国に核が再配備されることを望まないからだ。となれば残る道はただ一つ、何とか北を説得できないか考え、なんらかのかたちでの資金援助の提供によって説得を試みようとする。そしてこの作戦の起爆材に写真が割り当てられ、写真の効果を高める為にオメガの亡命が組み込まれた。ロシアはオメガの日本での行動を手助けすることになった。


石神は手を叩いて喜びたい気分になった。危うく敵の罠にはまるところだったが、核さえないと分かれば、賠償金の話を持ち出すことはない。敵の東京作戦は失敗に終わった。 石神は清水の労をねぎらうと、水口に連絡を入れた。

水口は説明を聞くと、これからすぐ総理に説明すると言って、電話を切った。

受話器を戻した石神は、肩の力を抜くようにしながら椅子によりかかった。

「終わった」

と思わずつぶやくと、顔に笑みが浮かんだ。もう少しで北に出し抜かれるところだったが、危機は去った。

ここ何日かの緊張が解かれた石神は、急に疲労を感じ、そのまま眠りについてしまった。


電話の呼び出し音で、石神は眠りから引き戻された。いつもの習性で時計を見ると午前八時三十分だった。

少し眠ったせいですっきりした頭が、明け方の出来事を明確に思いだし、石神の顔に笑顔を浮かばせた。

「石神さん、困ったことになりました」

吉井の声は、石神の気持ちとは裏腹に沈んでいた。

「オメガが今朝になって亡命はしない。北へ帰してくれとわめいています」

「今朝、オメガは新聞を読んだか」

「新聞は、毎朝一番に読んでいます」

新聞には、訪朝団は今朝出発、という記事が載っていたのだろう。

「わめかせておけ。どうせ東京作戦は失敗したんだ」

「東京作戦って何のことですか」

「あとでゆっくり説明してやるよ」

と石神は言うと、笑いながら電話を切った。


しばらくして水口から電話が入った。

「九州に、台風が近づいていたのを知っていたか」

水口は、台風の接近が石神のせいであるかのように、不機嫌な声で言った。

「総理と話し合っている間に、台風の接近で欠航になってはいけないと、奴さんら、出発を勝手に早めて飛んで行ってしまった」

「でも連絡はとれるでしょう」

「さっきからやっているが、強い妨害電波のせいで、全然連絡がとれないのだ」


石神の事務所で、石神と水口はソファーに座りながら、テレビのニュースを眺めていた。 画面では、にこやかに微笑む金日成国家主席と、核の恐怖のために美味しい餌をぶら下げていった哀れな副総理が握手をしていた。 石神がテレビのスイッチを切ると、水口は立ち上がって、窓から外を眺めた。

写真を持って大阪から来た時は、まだ残暑のきつかった東京も、いまここから眺めているとすっかり秋のたたずまいに変わっていた。 水口は両手で顔をしごくようにすると、大阪を出発したのは、何日前だったのか思いだそうとしたが、とてつもなく昔の事のように思えた。

「あと一歩の所でしたね」

石神は誰にともなく言うと、煙草に火をつけた。

「これでは、死んだ金田がうかばれん」

水口は、窓から離れながら言った。

「今回はやられたが、きっと償いはさせてやる」

水口は静かに言いながらドアを開け、そこにちょっと立ち止まったが、後向きのまま石神に軽く手を振ると部屋をあとにした。

国家間の外交には、ニュースで公にされるもの以外に、裏では、陰謀や策略が渦巻いている。

国家の安全を維持するためには、情報をいかに正確にすばやく得られるかが、生命線になっている。


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