母の面影、父の残像。
「……珍しいな、お前が用務員室を訪ねてくるなんて」
そう言って、お姉ちゃんはわたしを室内のソファーに座るように促した。
「……コーヒー牛乳、確か、好きだったろ」
「……うん」
お姉ちゃんは冷蔵庫から紙パックのコーヒー牛乳を取り出すと、ローテーブルの上に置いて差し出した。
「……ストロー、ある?」
「……ああ。ほら」
「…………ごめん、差して」
「…………ああ。……ほら、これでいいか?」
「……ありがとう」
「……それで、いったい何の用だ?」
「……お母さんって、どんな人だったの」
「…………。……ずいぶんと、唐突な話だな」
「ちょっと、気になって。……それと…………。……どうして、お姉ちゃんはそんなにお父さんに怯えているの?」
「…………!」
「わたし、小さかったから…………昔のことは、よく知らないから」
「……あの人……父親のことは、あまり思い出したくない。またいつか、話す」
「……そう」
「……でも、母親に関してなら……麻子さんのことなら、話せる。優しくて、強い人だった」
「優しくて、強い人…………」
「……ああ」
◆
……昔、四人で買い物に行ったときに、出先の銀行で銀行強盗に遭遇したことがあったんだ。
銀行……強盗……?
ああ。黒装束に目出し帽の男が二人。私達は……客は男達に拳銃で脅されて、一ヶ所に集められて膝をついた。その間、あの人はずっと震えながら「やめてくれ。もう、家族を失いたくないんだ。まだまだ家族を増やさないといけないんだ」って小さく呟いていた。最後の言葉の意味を知ったのは、もう少しあとのことだった。
……お母さんは、どうしていたの。
……そのとき、麻子さんはお前をおんぶ紐でおぶっていた。お前はぐっすりと眠っていた。そんな麻子さんは、左腕で私を抱き抱えて……。
……強盗の一人に、歩み寄った。
歩み寄った……?
当然、強盗は発砲した。何発も。……けれど、銃弾は一発も当たらなかった。
どうして。
避けながら歩いたからだ。
「いくら拳銃振り回そうがな、当たんなきゃ、どうってことはねぇんだよ」
「お、お前、なんで撃ってんのに当たらねぇんだよ!?」
「あ? んなもん避けてるからに決まってんだろうが。バカか」
「そうじゃねぇ! なんで避けられんだよ!?」
「引き金にかけてある指と、てめぇの息づかいで、撃つタイミングを見計らってるだけだ。普通に弾だけ見てたら当たるからな。強盗する前に、んなことも勉強してこねぇのか」
「そんな不測の事態聞いたことねぇよ! ひっ!」
麻子さんは、強盗の一人の胸ぐらに掴みかかった。
「おい、こちとら普通に日常を過ごしてきてんだよ。こんなことに巻き込まれて、娘達がトラウマになったら、てめぇら責任とれんのか? あぁん?」
「こ、この女、俺らより口悪いぞぐはぁっ!」
強盗の一人は、麻子さんに思いきり顔を殴られて気絶した。
殴られて…………。
「……口が悪いのは生まれつきなんだよ」
麻子さんがそう呟いたあと、奥でバッグに金を詰めていたもう一人の強盗が戻ってきた。
「おーい、そろそろずらかるぞ……なんじゃこりゃあ!」
「見りゃわかんだろ。てめぇらはもう、負けてんだよ」
「うおっ!?」
麻子さんは右手で気絶した強盗から撃鉄が降りたままの拳銃を奪い取ると、もう一人の強盗へ躊躇なく発砲した。弾は当たることなく、強盗の背後の壁にめり込んだ。
「ひ、ひぃぃぃ……。片手でぶっぱなす奴があるかよ…………。普通は反動がデカくて、両手じゃねぇと………………」
「ああ、確かにそうだな。……けど悪いな。私はちょっとばかし器用なんだよ」
「器用ってレベルじゃ……ってか子連れ!? おま、こんな状況でガキ二人も……」
「そんなことも知らねぇのか。なら、教えてやるよ。こいつらガキ共にとってはなぁ………………私の隣が一番安全なんだよ」
「規格外過ぎるぞ、この女…………うっ!」
驚愕したまま立ちすくんだ強盗の顔に、麻子さんは素早く回し蹴りを打ち込んだ。強盗は吹き飛び、うつ伏せのまま動かなくなった。
「……使い慣れねぇモンを使おうとするからこうなるんだよ。……大丈夫か、邑。ケガしてねぇか?」
二人の強盗に冷たく言い放って拳銃を投げ捨てたかと思うと、いつもの優しい表情で抱き抱えていた私を撫でた。
「大丈夫だよ。お母さんがいたから」
「そうか。……ま、最初っからお前らに傷一つつけるつもりは無かったけどな」
「お母さんすごーい!」
当時の私は、そんな麻子さんが誇らしかった。
そんな私の顔を見て、麻子さんは言った。
「娘を守れない母親でいられるかってんだよ」
◆
「…………まあ、このときの話はそんなところだ」
「……お母さんって、ほんとに人間…………?」