婚姻する猫
ここまで開いたのなら早く読んでください。
二日酔いの寝ぼけ眼を指で擦りながら、その男は受付に立った。眼鏡の度が強いのだろうか。厚いレンズを通した瞳は異様に小さく見え、睡眠不足でさらに細く線を引くように映っていた。頭髪は毛と毛がうねり合い、一種の密林のように頭をこんもりと覆っていた。背はさほど高くない。むしろ小男の部類に入るだろう。にぃと笑うと黄色い歯が糸引く涎とともに覗き見える。黒のスウツも少々くたびれていて、皺が寄っており、肩には夥しい量のフケが降りていた。一言で言って、あまり外面を気にするような人種ではないようだった。
この人物は、はっきり言って醜男であったが、こういう人間で稀に見られるように、弁は達者であり、どちらかと言えば社交的な部類であった。昨晩も、異動となる同僚の送別会を自ら企画し、二次会、三次会と自ら進んで会場を用意し、周囲には、見てくれは悪いが、愛想を振りまき、今にも折れてしまいそうな細い前歯を晒しながら、笑顔を絶やさず、上司のご機嫌取りにも余念がなく、いつも平身低頭、くだらぬ冗談にも臨機応変に、少しばかりの謙虚さを垣間見せつつ、実に妙に対応してみせていたが、そのくせ後輩の前では、にきびで頭の赤くなった鼻を膨らまし、決して内容の濃いとは言えぬ人生訓を大仰に語り、悩める後塵の肩を叩きつつ、最後には呵々と笑っていたのだった。要するに、そういう人物なのである。
さて、役所勤めの彼は、顎を前に突き出しながら、つまらなそうに受付に立っている。ボタンを押すと、受付ボオドが点灯し、番号を赤字で表示した。
「三十五番の方、どうぞ」
彼が待合室に声をかけると、一人の男性が歩いてきた。その男性は黒い猫を神妙そうに抱えていたので、彼は不思議に思ったのだが、ひとまず仕事に取りかかることとした。
「お伺いします」
男性は、白いセエタアに、猫の黒い毛を散らしながら、晴れやかに口角を上げるのだった。
「婚姻届を出そうと思いまして」
「それは、それは。おめでとうございます」
しかし、男性は一人であった。失敬。男性のほかには猫一匹しかいなかった。
「お相手は、どちらに?」
「相手は、この猫です」
「猫?」
確かに、受付台の上には美しい黒猫が立っていた。目脂ひとつないぱっちりとした黄色い瞳は、文明の香りさえする理性の煌きを持っていた。すうと伸びた柔らかな脚は、受付台にしっとりと吸いついており、艶やかな背と腹は照明を柔らかに流していた。上品な尾を空間に遊ばせつつ、挑発的に男二人の四つの目を奪う。
「猫ですか……」
眼鏡の男は、猫をしげしげと眺めて、しかし沈黙の中に糸を張る返答の要請に抗しがたく、愚にもつかない言葉を発した。
「して、性別は?」
「女性です」
「なるほど、メスですか……」
ふむ、一応男女の関係というわけか――眼鏡の男は、そう小さくひとりごちた。何事も冷静に。これが眼鏡の男の処世術である。興奮したりしてはいけない。何分、彼は弁が立つ男であったから、気が立ったり、興奮したりすると、無駄に饒舌になり、要らぬ言葉まで口から飛び出して、それが事態を悪くすることもあったのである。この種の人物にはままあることである。
思い返せば、昨晩もそうであった。飲酒の末、気分の良くなってきた眼鏡の男は、異動する同僚に向かって得意気に語ったものである。
『ええ、同僚君よ、ご栄転おめでとうというわけですか。ははッ。実に愉快だ。しかし、君、忘れてはいないだろうね? ほら、あれは一年前? 違う、もっと前さ……そう! 一年と五か月ほど前さね。覚えているだろう? なに? 記憶にない? 馬鹿言っちゃあいけないよ、君。俺と君の仲じゃないか。俺と君の間に隠しっこなんて一切無しさ! ふふん、しらばっくれる気かい? そうは問屋が卸さないよ。なに、ね。決着をつけようじゃあないか。つまり、清算さ! 立つ鳥跡を濁さずとも言うし、ここできっちりと後片付けをして、清々と新天地へ行ってしまったらいいだろうさ! おや、まだきょとんとしてやがるな。ちぇっ! いいさ、俺は待つぞ。君が思い出すまで待ってやる。ええい、そんな顔したって逃げられやしないからな。無知は罪だが、無知のふりをするのは何にも増して罪だぜ? いい加減吐いてしまえばいいさ。本当はこの話の出始めたころから思い当たる節はあったが、なかなかどうして言い出しにくくなってしまったんだろう? あんなに印象的な話を忘れるわけがないだろうさ……』
しかし、そうして長広舌を弄している内に、自分でも何のことを喋っているのか全く見当がつかなくなって、結局、うやむやのうちにこの話は終息したのだった。つまり、何の生産性も見いだせないあやふやなもののために時間を食ってしまったのである。こうした事態もあることにはあって、結論、彼の処世術は一種の自戒に等しい。彼は、目の前で生じ始めている、この異常な事象を、冷静に、沈着に、それでいて、何事もなく、無事、処理し終えるために、アルコオルで螺子の飛びかかった脳みその皺という皺をほじくり、ほじくり、解決への筋道を立てようと考えた。
「つまり、あなたと、この猫が、婚姻関係を結ぶわけですか?」
「そうですね」
これはつまり、確認である。事象を正しく認識しないことには、それに対処することもできないであろう。何事も認識である。万事、認識が始まりに立つのである。眼鏡の男は、これでようやく、問題の地平に立ったことになる。だが、疑問は尽きない。こんな阿保らしいことはあってたまるものではない。そうとなれば、ひとつ。目の前の白いセエタアの男は、つまり、一般に言われるところの気ちがいではなかろうか……そう思われてしまうのも無理はない。なにせ猫と結婚しようというのだから! 猫だぜ!? 人間じゃなくって、猫と結ばれようっていうんだからな! こんなくだらない申請が通ってしまうんだったら、ふん、だったら俺は愛車と結婚してやるさ! しかし、こんなものは問題からの逃避でもある。言葉を尽くせば、きっと理解し合えるはずだ。……もしかして、猫というのはなにかの隠語なのかもしれない。いや待て。もしかすると、俺と相手の認識は、少し食い違っているのかもしれないな。きっとそうだ。猫と言って、彼は別の何かを伝えようとしているのではなかろうか。じゃなきゃ、こんなくそ忌々しい申請をしにわざわざ役所まで足を運ぶはずがないさ。確かめてみる必要があるだろう……
「しかし、猫ですよ?」
「ええ、猫ですね」
「猫というのは、つまり、この、四本足で歩く?」
「はい。現にあなたの目の前で歩いているではありませんか」
やはり、白いセエタアの男性は、この、目の前で愉快そうに脚を投げ出す、メスの黒猫と結婚しようと考えているのだ! ああ、こんなとち狂ったことがあろうかよ! 別に、人間の、つまり、ホモサピエンス、ああ、つまり、生物学的な人間のメスを配偶者として考えているわけではない。この黒猫を配偶者に仕立て上げようというのである! 猫である! 言葉を喋れもしなければ、意思疎通だってなかなか難しい、この毛むくじゃらの生き物と結婚しようとしているらしいぞ! これが鸚鵡だったら多少は情状酌量の余地ってものがあろうさ。なにせ、あいつらは、理解してはいないだろうが、とりあえず言葉を発することはできるんだからな……しかし、こいつは猫だぜ!? 日向に寝そべって、ぐうぐうと昼寝するしか能のない、あまりに愚鈍な生き物だ! 眼鏡の男は、一気に事態が馬鹿らしく思えてきて、失礼千万ではあるが、鼻をふっふっと鳴らし、息を吐くように、かなり陰湿に笑ってしまった。
「いや、失礼……ですが、猫、ですか。この、ネコ科の……それは、少し、というか、かなり、難しいかもしれませんよ。つまり……手続的に」
「はて。何故です?」
「何故って、猫ですから……結婚は本来人と人がするものであって、ネコ科の動物と結ばれるようには考えられていませんから。いや、ここでネコ科と限定する必要も無くてですな……つまり、何が言いたいかと言うと、こんなことはあまりに前例の無いことで……」
「ですが、私たちは愛しあっています」
見れば、確かに白いセエタアの男に、猫はずいぶん懐いているように見える。男の指の動きを追って、猫がにゃあにゃあと腕を動かす。その様子を見ていると、幾分人に慣れているようにも見えるし、その辺りを歩いて道路で轢かれているような野良猫のように野卑な印象は無い。だからって行為が正当化されることはない。だって、猫だもの。
「そうは言いますがね、結婚というのはつまり……ああ、なんだってこんなことを説明しなきゃならないのか……社会的に、男女が結合することでありまして。ここで重要なのは、社会的に、ということですな。人間には人間の社会がありますし、猫には猫の社会があるでしょうよ。だから、つまり、そういうことでしょうし……ううん。それに、婚姻届はどうするんです? まさか猫に文字は書けやしないでしょうから……」
「婚姻届を猫が書けるかどうかなんて、そんなことは些事に過ぎないでしょうよ」白いセエタアの男性は、苛立ちを覚え始めているようであった。「両者が精神的に相互に惹かれ合っていることが結婚、ひいては婚姻にとって一に大事であり、婚姻届なんて形式上の遊戯、社交辞令上の睦言のようなものではありませんか」
なるほど、それも一理ある――とも思えたが、眼鏡の男は諦めなかった。
「仰ることもわからないでもないですが、しかしですね、猫の意思はどうなるんです? つまり、婚姻意思とかいうやつですな。この猫は本当に結婚したいと思っているんですか?」
正直なところ、眼鏡の男にとって猫の意思なんて茶碗にへばりついた米粒ほどどうでもいい事柄なのではあるが、しかし、目の前のこの愚者になんとかして事態の馬鹿馬鹿しさを理解してもらいたいがために苦肉の策として提出した意見書なのであった。
ところが、白いセエタアの男性は、うんざりしたように首を振った。
「先ほども申し上げましたが、見てください……私たちはこんなにも愛しあっている。結合せずして、一体この先どうやって生きていけばよいというのですか」
そう言うと、白いセエタアの男は、一呼吸置き、とつとつと語り始めた。
「彼女と出会ったのは、冷たい雨の降る、ちょうど二年前の冬のことだった……彼女の鳴く声に僕は立ち止まったんだ。ケースの中の彼女は……まだ、ほんの子猫だった。にゃあにゃあと寂しく鳴いていたものさ。私はその時、ひどく感傷的な気分になっていて、ああ、つまり、私の方でも温もりが欲しくって……彼女を家に連れ帰った。すると、狭い空間にずっと閉じ込められ、みすぼらしい姿だった彼女も、温かいご飯と、温かい住居、そして、優しいブラツシングをしてあげれば、みるみるうちに美しい雌猫となって成長していった。彼女を見ていると、人間の雌などというものは、醜いし、卑しいし、目も当てられないね……確かに、私たちの間に共通の言語はない。だが、心と心で通じ合っているのさ。彼女と結婚したい。そう思い始めたのは……今年の、春ごろからだったろうか。美しい彼女と添い遂げることができたらば、この世に生を受けた意味もあろうというものさ。お役所の方、わかっていただけますでしょうか? いや、失礼。私たちの馴れ初めを語ったところで手続的にはなんら変わりはないんでしょうが……つまり、結婚したいという、私たちの内で強烈に突き上げるこの衝動をですね、わかってもらいたかったものですから……」
くだらないね! 眼鏡の男は叫び出してしまいそうになった。なにが馴れ初めだ! ああ、くそ。忌々しい。とっとと帰りやがれ! 何が楽しくて役所の受付に立ちながら飼い主とペットの邂逅と触れ合いの物語を拝聴せにゃあならんのだ! お望みなら感想文でも書いてやろうか? 阿保らしい。俺だってボランテイアでここに立っているわけじゃあないんだ。給料を貰って立っているんだ! お前らの税金でここにいるんだぞ!? そんなこともわからないのか……
騒動が大きくなってきたからか、後ろで同僚たちが聞き耳を立てているのが眼鏡の男にはひしひしと感じられた。やめろ、そんな目で見るんじゃない! なんだってこんな狂気じみた事務をこの俺が引き受けにゃならんのだ。猫と結婚するだって? ふざけてやがる! ははあ、つまり、こいつ、冷やかしだな? 税金で飯を食っている俺らが憎くて、こんなくそつまらない悪戯を考えついたに違いない。なんだ。考えてみれば簡単なことではないか。何をまじめにとり合おうとしていたのだろうか。くだらない。とっととけりをつけてしまおう!
「お話はわかりますが、しかし……婚姻届を提出するとなれば、戸籍謄本が必要になりますが……猫に戸籍謄本なんてありゃしませんよ。どうするつもりです?」
「なに、血統証明書がありますよ」
「血統証明書!」
眼鏡の男は卒倒しそうになった。血統証明書が何の証明になるって言うんだよ!
「違いますよ。戸籍、戸籍です! つまり、婚姻届は戸籍法に則った手続に従って、婚姻の効力を第三者に及ぼすために……(ええい、冷やかし相手に何を本気になって説明しているんだ、俺は!)要するに、戸籍謄本が無けりゃ結婚なんぞ不可能というわけですよ」
すると白いセエタアの男は、憤慨したように受付台を拳で叩いた。受付台に寝そべっていた猫は、ぎゃッ、と叫ぶと、男の肩に飛び乗って、あろうことか眼鏡の男を威嚇し始めた。
「なんだってそう、手続ばかりなんだ! 私たちは愛しあっているんだ! なぜこんなにも明白なことでさえあなたにはわからないんだ!」
論戦では、先に怒鳴った方が負けさ――眼鏡の男は、へへ、と呟くように笑うと、勝ち誇って言った。
「しかし、手続は重要ですよ。なにせ結婚なんていうものは……手続が名を変えた姿なのですから」
「くだらんね!」
白いセエタアの男は受付を立ち去っていった。眼鏡の男は、ひとまず厄介ごとを片付けて満足していたが、どっと疲れが押し寄せてきて、たまらず受付を離れ、後方に退散せざるをえなかった。
自分のデスクにつき、両手で顔を覆っていると、好奇心に目を輝かせた同僚の女が走り寄ってきた。
「一体何を揉めていたんですか?」
「いやね、聞いておくれよ。今来た男がね、猫と結婚したいと言い出して……まったくおかしなことだよ。人間と猫が結婚できるはずがないじゃないか!」
しかし、同僚の女はきょとんとして言った。
「あら、私の主人はアメリカンショートヘアですよ、知らなかったんですか?」
心臓が、とくんとくんと早鐘を打ち始める。
心臓が、とくんとくんと早鐘を打ち始める。
〈了〉
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