心の闇
「いいえ、あなたは意気地なしよ」
庄野美月も立ち上がる。
「あの数学の教師だってそう。暴力の現場に居合わせながら、何もせずに立ち去った。事なかれ主義者なんだよ。あなたと同じ」
すると、深見省吾が怪訝そうな表情を浮かべた。
「暴力の現場? それに数学の教師って? まさかこの場所にまで、彼女が現れたとでも……? いや、そんなはずはない」
私は数学の教師と言っただけで、男とも女とも言っていない。それなのにこの人は、彼女と呼んだ――。
あの不思議な女教師のことを確かめるチャンスだ。
「ここじゃない。私たちの教室がある三階だよ。ほら、生徒の立ち入りが禁じられている――」
言い終わらないうちに、省吾から両肩をぎゅっと掴まれた。顔面を蒼白にして、激しく詰め寄ってくる。
「じゃあ、暴力の現場というのはそこだったんだな? 誰が誰からどんな暴力を受けていたんだ? それにその数学の先生というのは、どんな姿だった?」
立て続けに質問されたので、思わずたじろいでしまった。下を向いて、しばらく唇を噛む。
顔を上げると、挑戦的に相手を見つめ返した。
「昨日、私も片山瑞穂たちにやられたのよ。そう、暴力を受けた。あなたと同じように。でも、あんたなんかと違うのは、中村先生にすぐに報告したこと」
「無駄足だったろう。君への忠告も間に合わなかったわけだ」
皮肉っぽく、唇の端を歪めている。
「そうだね。あなたと一番に知り合って、今日みたいな話を先に聞かせてもらっていたら、そんなことにはならなかった」
美月は素直に認める。
「で、君の言う数学の先生というのは、白衣姿だったかい?」
「うん。長い黒髪に、きりっとした目付き。黒いスラックスをはいている」
「T定規を持っていただろう」
「そう。今頃珍しいよね」
省吾は美月から手を離すと、その辺をぶらつき始めた。何かを真剣に考えこんでいる様子である。
やがてまた傍に戻ると、尋ねてきた。
「君は学校伝説というのを、聞いたことがあるかい?」
「うん、あるよ。学校には袋小路があって、そこに迷い込んだ生徒が出られなくなってしまったとかいう話があるよね。まさかあの立入禁止区域が、その袋小路とでも……?」
「それは分からない。ただ、袋小路は現実の場所とは限らない。たとえば、僕たちの心の中だったり……。でも、学校伝説にはもう一つあるんだ。それは知っているかい?」
眼鏡の奥の澄んだ目に、真っすぐ見つめられる。
「いや、知らない」
思わず、顔をまた背けながら美月は答えた。
「袋小路には、白い魔女が現れる。しかし、決して手を差し伸べてくれたりはしない。袋小路に陥った者が、自らの力でそこから脱出するしかない」
「それが、あの女教師だと……。じゃあ、彼女が現実の存在ではないとでも、あなたは言うの?」
「ああ、そうだ」
「まさか。そんなことあるわけがない」
「疑うなら、自分で調べてみればいい。学校にどのような教師が在籍しているかなんて、簡単に調べられるから。それに、彼女はいつもあの廊下の奥に消えていくけど、あの先には物置以外何もないんだ」
省吾の真剣な眼差しに、決して嘘を言っていないことが伝わってくる。
「でもなぜ、わざわざ立入禁止なんかに」
「昔、屋上で飛び降り自殺を図った生徒があった。それで、あんなに厳重にしているんだ」




