咸臨丸コンビ
夕食の支度を終え、テーブルで勉強しながら母の帰りを待つ。
母はドラッグストアで、レジ打ちのパートをしている。通常の勤務は、朝の十時から晩の六時まで。いつもであれば、遅くとも七時頃までには帰宅する。
しかし、今日に限ってなかなか帰ってこない。学校での出来事を相談しようと思っているのに、いったいどうしたんだろう。
八時が過ぎ、九時になっても帰ってこなかった。
メールぐらいくれたらいいのに。
母は、自転車で職場まで通っている。ひょっとして何かあったのでは……。急に心配になり、『今日はどうしたの』とこちらからメールを送る。
すると、すぐに返信が返ってきた。『ごめん、少し遅くなる。先に食べてて』とある。
何だ、無事ならよかった。そんなことなら、ちょっと知らせてくれたらよかったのに。
仕方なく、冷めた夕食のおかずで御飯を食べることにした。
テレビを付けたら、お笑い番組をやっている。
最近売り出し中の、『咸臨丸』というコンビだ。一人は『カツ』と言って、ずっと一人で活動していたのだったが、さっぱり目が出なかった。
ところが、相方の『ユキチ』と言うのが一流商社に勤めていたのに、これを辞めてしまってコンビを組んだところ、だんだんと人気が出てきたらしい。
カツのほうはチョンマゲに羽織袴スタイル、ユキチのほうは一万円札にあるとおりの恰好をしている。どういうわけだか、T型定規を必ずどちらか一方が携えている。
カツが話し始める。
「ええ、我々咸臨丸コンビもお陰様でだいぶ人気が出てまいりまして、これもひとえに、ここにおりますユキチが、わたくしめとコンビを組んでくれたということもあるわけなんですが……」
「そうだ、感謝しろ、感謝を。だいたい君は、感謝の心が足りない」
とユキチが合の手を入れる。
「感謝はしている。感謝はしているが、しかしユキチ」
「ん、何だ?」
「いったいぜんたい、何だって一流商社を辞めちまったんだ。どう考えたって、勿体ない話だ」
「うむ、それがだな」
「何だ」
「一万円札の山に埋もれちまって、窒息しそうになった」
「何だって?」
「夢だよ。ある夜そんな夢を見た。そしたら、仕事をしている最中にも息苦しさを感じるようになった。そればかりじゃない。通勤時の電車の中でも、本当に呼吸が止まりそうな感じがするようになってしまった。それで、とうとう会社に行けなくなってしまった」
「おいおい、そりゃあ笑える話じゃない」
「そうさ、真面目に言ってる」
「いやあ、今は漫才をやってるんだから。じゃあ君、一万円札が怖いだろう」
「ああ、怖いとも」
そう言って、ぶるぶる震えて見せる。
「ははは。ユキチが諭吉を怖がるのか。これは面白い」
カツは、ここで急に居住まいを正して、観客を見渡す。
「ええ、御存じのように我々は咸臨丸コンビでして、咸臨丸と言えば、福沢諭吉と勝海舟でございますね。ところで、二人はあんまり仲がよろしくなかったという話もございます」
それから、ユキチのほうを振り向いて怒り出す。
「おい、福沢君。貴君は最近、瘠我慢の説かなんだか知らぬが、おれのことを批判しているそうじゃないか。実に怪しからん」
「ああ、そうだ。貴君は明治政府で高位高官にのぼり詰めながら、薩長閥の横暴を諫めるでもなく、高禄を食んでおるばかりではないか」
「むむむ。もう堪忍ならぬ。貴様を斬る」
「斬るなら切ってみろ」
ユキチのほうは床にどかりと座り込み、胡坐をかいた。いかにも瘠我慢だと言わんばかりである。




