陽はまた昇り、いつかは沈む。2
その光景は今までの常識をぶち壊す、まさに”非凡,,を体現した様なものだった。
ある偉人は言った。
『常識とは十八歳までに身に付けた偏見である』と。
成る程......其れならば...。
この”超巨大な猪,,が自分目掛けて突進するのが”常識の枠内,,に入るだろうか。
否、入らない。ありがとう、見知らぬ偉人さん。何か気持ちが軽くなった気がするよ......!
だが現実には反映されないがな......!
「ブオオオォ!!!」
と、巨大猪は声を荒々しく、叫ぶ。
その振動により地面には亀裂が入り、森全体はまるで地震でも起きたかの様に揺れに揺れる。
「......逃げるか...」
文面からするととても落ち着いている様に見えるのだろう。
だが内心、恐怖に似通った感情に埋め尽くされていた。
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体感時間で約、三十分程である。
自分はこの森を抜け出せずにいた。
おい!後500mだけとか言った奴誰だ!俺だよ!!畜生!!
「あぁあぃぅおおああああ!!??」
男性の叫び声など誰に需要などあるのか甚だ疑問だが、しかし怖いものは仕方ない。
ふつふつと自分の全身に鳥肌が現れるのをその身で感じながら、一直線に逃げていた。
「ブオオアアァアアア!!!」
勢いよく声をあげてますねぇ!?
其れぐらい大声出せるなら誰かに何かを呼び掛ける時凄い役立ちますね!!
はははははは!!?
..................
「笑えるかってんだ!ちきしょう!!」
この初っ端から絶望に近い状況。
相変わらずその猪と言ったら.........
「ブオオオオオオァア!!」
.........楽しそうで何よりです。
そして限界が近づいてきました。生憎、自分、人間なもので。
陽は燦々と輝き続ける。無尽蔵とも思えた体力は少しずつ減っていく。
確かに、無慈悲に、体を休みなく働かせれば、
徐々に肉体は悲鳴をあげていくものだ。......人間その気になれば何でもできるとか思っていた時期があったが、やはり体力の限界という事実には抗えなかった。
走れば走る程、動かせば動かす程、足が次第に固まって行く様な感覚を覚える。
まだ動いているだけマシなのだが、かなりガタがきている様だ。
「.........って言っても今更辞めるつもりは無いんだがな......!」
ーー辞めるつもりは無いーー
と、言っても其れが今自分のできる最大限の意地だった。
頭は思っていても、身体が動くとは限らない。
そんな当たり前な事は分かっていた、でもこんなに走ると思わないじゃない!?
そんな風に、この不条理に嘆きかけたその瞬間。
「!?」
一瞬、視界に異変が生じる。
其れは僅かな痛みから始まった。一歩、一歩と脚を前に出し、走る。
するとその度に今、この眼に映る草木達や、土、空の色がゆっくりと、ゆっくりと色褪せていき、
次にはもう全身の感覚が無くなっていたのだ。
『妙な感覚』、そんな言葉では表しきれない不気味さ、異常さ、奇妙さ。
此れは珍しい体験をしたな......とか言うレベルではない。
そして異世界に来ただけ生涯であるはずのない体験をした癖して、
その直後に巨大猪に追い掛け回され、
挙句の果てには死ぬ一歩手前まで来て、変な感覚に襲われる......。
もう何が何だか......。
だが、真の”異常は,,此処からだった。
声がしたのだ、何処かしらに。
最初は遠くからだった。何かしら聞こえる、そう思うぐらいの。
するとその声はどんどんと、だんだんと。
耳に入ってきた。
ーーかえりましょうーー
ーーかえりましょうーー
カランカラン。
と、下駄独特の音をその声と同時に、この森の中に反響する。
ーーかえりましょうーー
ーーかえりましょうーー
次に、パコンパコン。
と、何かボールの様な物を地面に叩きつける音が加わってくる。
すると次第に音が同時に聞こえ始め、其れはだんだんと近づいてきたのだ。
ーーカランカラン、パコンパコンーー
ーーカランカラン、パコンパコンーー
すると前に見える木陰に何かが現れた。
ーー其れは鞠を持ち、着物を身に纏った少女だったーー
まだ自分の半分ぐらいの身長だろう。端正な顔付き、長い黒髪を薄紅色の大きなリボンが特徴的で小柄な彼女には少し不恰好に思えた。
半眼で自分を見据える其れは、まるで品定めでもするかの様に鋭く、冷たい瞳だった。
すると、突如少女は口をゆっくりと開けたかと思うと、小言で何かを呟く。
その数秒後、
【ガンッ!!】
と、鈍い音がしたかと思うと、いきなり目の前の景色が変化したのだ。
”森から街へとたちまちに,,
其れを見た瞬間、自分の置かれていた状況すら忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。
まるで其処だけが切り取られ、入れ替わったかの様に瞬きする暇すらなく。
確かに今まで考えられない事を体験したが......。
だがこれだけ言えるだろう。其れは、その光景は今までに経験した事のどれよりも異常と言えた。
そんな事を少女はやったのだと思うと背筋に悪寒がはしった。
.........そういえば何か忘れているような......。
.........あ、猪!?
そう思うと自分は体を後ろに振り向かせる。
が、猪は居らず、その代わりに。
「キュウウゥゥ〜ン♪」
と......愛らしい鳴き声を放つ犬がいた。
え......まさかこの犬があの猪に......?いやでも......。
これまでに「これはあり得ない」と思っていた事が現実となって、経験してしまった為か、
あり得ない事をあり得るのでは?と考えてしまう。
別に用心深いのはいいのだが......いかんせん自分自身とは違う気がして気色悪い......。
そんな事を考えていると、少女は下駄を鳴らしながらその犬へと歩み寄り、頭を撫でていた。
その光景を見ていると、何かとても良い気持ちになってくる。
羨ましい......。素直に、ただ素直に......羨ましい.........。
その表情から少女は何を思っているのか感じ取ったのか、こちらを見ながら。
「.........触ってみる?」
とても落ち着きのある声音だった。
一通り満足したのか、幾らかした後、スッと少女は犬を抱き抱え、自分の近くへと持ってくる。
少女に向かって手を左右に動かし、本当に撫でていいのかとジェスチャーすると、コクンと頷く。
許可は得た為、自分は出来るだけ優しく手を当てた。
とても柔らかかった。