身は削れても魂は
ああいらっしゃい、お客様ですか。いやあ、あの主が客人を招くなんて珍しい。おや、私を探しておいでですね。ここですよ、ここ。机の上のペン立て。そこの、白い見た目のボールペンが私でございます。
どうかされましたか? ……ああ、私の見た目が気になると。そうでしょうねえ、長年使われてボロボロですから。クリップも折れていますし、全体的に薄汚れていて、見苦しいかもしれません。もう捨てられてもいいだろうとお思いになったようですが、あの主はこんな私でも使ってくれているのですよ。何故かって? そうですねえ、すこし話してあげましょうか。
信じてもらえないでしょうが、私は主にとっての記念品なのですよ。もうその刻印も消えてしまって、私が記念品である証明はどこにもないのですがね。本当ですよ。もとはここに、記されていたのです。主は私を愛用してくださってましたから、そのうちに手の脂などで消えてしまいました。
それでも、主にとって私の価値は変わらなかったのでしょう。私がただの市販のものと変わらない見た目になっても、もちろん残念そうな顔はしておりましたが、変わらず特別な物として私を愛用してくださいました。誰にも自慢することはできなくなっていましたが、主の中で私はいつまでも記念の品として思われているようでした。それはもちろん、私にとっても誇りでございます。
ですから、この背についたクリップが折れたときも、主は変わらず私を愛してくれました。もとより我々ボールペンは文字を書くために存在するのですから、クリップごときでは機能に支障はないのです。服の裾に張り付いてお供することはできなくなりましたが、それでもこうしてペン立てに入り、筆箱に入って使われる分には問題はありません。……怪我をするかもしれないって? ああ、確かにそうかもしれませんね。しかし折れ口を処理すればリスクは減りますし、何よりあの主がそれくらいで私を手放すとは考えられません。それほどまでに、主は私を愛用してくださっているのですよ。
我々道具の命がどこまでなのか、私は使われる人がいなくなった時だと考えております。時が経ち、壊れ、形を変えても、使われている以上は我々は道具として生きられるのです。私はもちろん、服などはずたずたに引き裂かれて別の物として生まれ変わっても、使われている以上は道具として生きられるのでしょう。
私も、主が私を必要とする限り永遠にお供すると心に誓っております。例えこの身が折れようとも、軸だけになったとしても、記念として主の手足として、働く所存にございます。ここまで愛してくださっているのですから、その思いに応える。そう思うのは、当然のことでございましょう?
ああ、主が戻ってきましたね。話を聞いてくださってありがとうございました。そうそう、ここで聞いた話は、主には内密にお願いいたしますよ。
というわけで、「クリップも折れたボロボロのボールペン」でした。いくらか実話が含まれています。私は多少壊れても機能に問題なければそのまま使い続けるほうなので、使われている道具の方はどう考えるのかな、と思って書き上げました。
ほんの少し、狂った雰囲気を感じて頂けたら成功かなと思っています。