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恋愛病棟  作者: ミナ
3/3

振り上げた拳(整形外科看護師・高木の場合)

交通事故による切断、障害者、健常者等、デリケートな題材を扱っております。

そうした題材を不快に思われる方は、申し訳ございませんがブラウザバックをお願いいたします。


「あ、今日私担当だ…やだなぁ」

申し送り後にカルテのチェックをしていた同僚が、思わずと言ったふうに溢した。

誰にでも、相性の良くないとでもいうか、苦手だと思う患者はいる。

気持ちはわかるが、職務上その発言はよろしくない。

「そんな事言っちゃだめでしょ」

「でも…河崎(かわさき)さんだよぉ」

「…あぁ」

名前を聞いて、納得する。

二週間ほど前から特別室に入院している、訳有りの患者だ。

プロバスケットボール選手、という特異なプロフィールに一瞬盛り上がったスタッフは、事情を知ると一気にトーンダウンした。

「そんなに嫌なら、代わるよ」

「やたっ。さすが高木(たかぎ)!」

気が変わらないうちにとでも思っているのか、素早く持っていたファイルをこちらに寄こす。

一度担当に付いた事のある看護師皆がこの調子で、ここ一週間はずっと高木が代わっている。

それを知らないわけが無いのだから、高木の前で溢したのも、計算だったのかもしれない。

「もう、ずっと私が担当でいいよ」

ため息交じりにそう言うと、少しだけばつの悪そうな顔で俯いた。

「ごめん。でも、怖いだもん…」

正直な意見に、苦笑する。

河崎がここまで皆に嫌がられるのには、もちろん理由があるのだ。

精神面で極めて不安定で、暴言だけでなく酷い時には物を投げつけてきたりする事もあった。

ヒステリックな患者は少なくないが、河崎は特に体格も平均を大きく上回っているため、声も大きければ力も強い。

実際、投げられた物が当たって軽いけがをした看護師もいるため、怯えるのも無理は無い。

「まぁ…普通よりも基礎体力があるだけ、タチが悪いかも」

「今さらだけど、高木は毎日行っても平気なの?」

「調子いいんだから、もう」

わざと怒ったような口調で笑いながら言って安心させ、そのまま巡回に行かせた。

そして、寄越されたファイルに目を通して、高木はため息をひとつついた。


特別室までの道を、深呼吸しながら歩く。

「…大丈夫。大丈夫」

誰にも聞こえないほどの小さな声で、何度も繰り返す。

高木とて、暴言や暴力が怖くないわけではない。

けれど河崎の不安定さの理由を十分に知っているから、どうしても放っておけない。

「おはようございます、河崎さん」

気合いを入れつつ、声をかけながらドアを開ける。

開けた瞬間だけ睨むように向けられるはずのいつもの目は、伏せられている。

いや、よく見れば、ぎゅっと不自然に力を入れて瞑っていた。

何が起こっているか気付いた高木は、

駆け足でベッドへ近寄ると痙攣しているその部位に手を触れてさする。

はっとしたように目を開けた河崎は一瞬だけ高木を見上げたが、

すぐにまた目を瞑ると歯を食いしばったその隙間から声を絞り出した。

「ふ、くらはぎが、いてぇ…っ」

「…マッサージしますから、もう少し、我慢できますか?」

返事は、無い。

高木もそれ以上は何も言わずに、痙攣が治まるまでマッサージを続けた。

ふくらはぎの、では無い。

太腿の途中で途切れた、断端の、だ。

そっと盗み見た河崎の、ぎゅっと瞑っている右の目尻に光る涙の粒が見えて、高木の胸が詰まった。


河崎は、ひどい交通事故に巻き込まれ救急搬送されてきた重症患者だった。

大型トラックの下に潜り込む形となってしまった河崎の自動車は、大破。

幸いなことに河崎自身は、翌日には既に生命の危険は無くなっていたが、

しかし河崎にとっての別の“命”とも言える部位を損傷した。

いや、損傷、などという表現では生ぬるいだろう。

では、損壊か。

それとも、損失だろうか。

そのどれも、適当ではない。

河崎にとっては、喪失、そのものだったはずだ。

なぜなら河崎は、大腿切断により右脚の大部分を文字通り、失ったのだから。

十代の頃からU-18だけでなくA代表に選ばれるほどの実力者で、

もしかするともう一度日本人がNBAのコートに立てるかもしれない、とまで言われていた。

その河崎が、もう二度と、以前と同じようにコートを走ることができないのだ。

高木がどうしても肩入れしてしまうのは、その姿を実際に見たことがあるからだ。

高校時代から付き合っていた人はバスケット部員で、

自分の学校が既に負けていたとしても、よく大会だ何だと連れていかれていた。

ルールもろくに知らないほど疎い高木でもわかるほど、その中で河崎のプレーは圧巻だった。

文句無しにカッコよかった。

付き合っていた相手には毎回ぼやかれるほど、河崎に見惚れた。

その後も新聞やテレビや雑誌に河崎の名前が出れば、その度に注視する程度には気にしていた。

言うなれば、ファンだったのだ。

遠くから見ていただけの人が、急に身近になったら、嬉しいか、否か。

こんな状況なら、遠くから見ているだけがよかった。

もう今は無いふくらはぎや指先が痛い、と言って呻く河崎を見続けるのは、辛い。

けれど、河崎がこのまま潰れてしまうのか、と思うと、そのほうが辛かった。


心理的衝撃が大きすぎたせいだろうか、河崎の幻肢痛はいっこうに治まらないでいる。

あれから幾度か行われているミラーセラピーもそれほど効果が無いようだ。

傷の様子から見ても全身の容体から見ても、そろそろリハビリに移るべき頃なのだが、

本人が拒否しているため先送りになっている。

このまま行くと、更に筋力が衰え関節が硬くなり、日常生活にすら戻りにくくなるため、

スタッフ一同頭を抱えた。

高木から見ても、河崎の頑なさは徹底していた。

暴言を吐いたり物に当たったりすることはもう無くなっていたけれど、

その代わりに無気力になってきている。

断端痙攣の際のマッサージも、拒絶したいような雰囲気を出す。

このままで良いわけがないのだが、高木自身もどうしてよいかわからずにいた。


怒鳴り声が聞こえたのは、午後5時頃。

洗髪のために河崎の部屋へ向かっていた時だ。

「あんたにはわからない!」

河崎の声だ。

その後に、何かがぶつかったり倒れたりしたような音が続く。

面会者名簿を見てこなかったが、誰だろう。

慌てて走って行くと、河崎の部屋から出てきたのは、車椅子の男性だった。

「また、来るな」

そう言ってドアを閉めると、ため息をつきながら、こちらへ向きを変えた。

その顔を見て、高木は思わず、あっと声をあげてしまった。

以前に、新聞で見たことがあったのだ。

何年か前の車椅子バスケットボールの特集記事で、河崎と写っていた選手。

「ふ、藤居(ふじい)選手…」

「え」

思わず呼んでしまった名前に、藤居は驚いたように高木を見上げた。

「あ、すみません。つい…」

「いえ。あまり知られていないものですから、驚きました」

車椅子バスケットボールは、漫画や映画でも取り上げられ以前より認知度を上げたとはいえ、

それでも日常的に紙面を飾るものではない。

よくて、パラリンピックの時に報道されるくらいだ。

選手の顔と名前が一致することも、珍しいかもしれない。

高木も、河崎の記事を見ていなければ、きっとわからなかっただろう。

「以前に、新聞でお見かけしました。河崎さんと一緒の記事で」

「あぁ、そういえばいつか取材を受けたことがありましたね。

 あいつもチームの練習の合間を縫っては、一緒にプレイしてたから」

そうだ。

最近は障害者スポーツの枠を超え健常者も混じってプレイしている、という記事内容だった。

「あいつにも、少し前を向いて欲しいと思ったんですよ。

 希望、なんて言葉は大げさでしょうが…バスケが好きなあいつだから、と思いましてね」

そうだった。

以前と同じように走れなくても、違う形でもコートを駆けてバスケットはできる。

どうして思い至らなかったのか。

高木にも、健常者の無意識下の思い上がりがあったのかもしれない。

それは、きっと、河崎も同じだ。

そうでなければ、先ほどの藤居への怒鳴り声の説明がつかない。

そう悟ったその瞬間、河崎へ感じていた胸の痛むほどの哀れみの気持ちが、何かへ姿を変えた。

怒りか、哀しみか。

それとも、他の言葉では言い表せない何かだろうか。

藤居の驚いたような声を背中に、高木は河崎の部屋へ駆け出した。


ドアを開けると、河崎の暗い目が高木の方を向いて、けれどすぐに逸らされた。

高木が床へ視線を移せば、先ほど聞こえた音に納得した。

カップ、新聞、雑誌、果ては枕まで落ちており、ベッドの脇にある筈の台や簡易椅子の位置がだいぶドア側にずれている。

高木は、先ほど感じた激情を落ち着かせるように、淡々と物の位置を元に戻していった。

最後に枕を手に、河崎のベッドのすぐ脇へ立つ。

差し出すようにしたが、河崎は受け取ろうとしない。

しばらくそのままにしていたが、河崎は高木の存在を厭っているように微動だにしなかった。

腕が痛くなったので、高木はため息をついて、枕を持ち直した。

「よく、あんなことが言えましたね」

普段、個人的なおしゃべりなどした事が無い。

おしゃべりといえば、せいぜい今日の天気がどうだとか、そんな職業柄こなす話題程度だ。

高木からそんな事務的なものとは無縁の言葉が発せられたから、河崎も意外に思ったらしい。

ちらりと視線をまた一瞬だけ遣し、むっつりとだが言葉を返してきた。

「…何のことだ」

「藤居選手は確か骨肉腫が原因でしたよね。それも、まだ小学生の時に、両脚。

 河崎さんと同じような境遇を経験された方に、よくわからないだなんて言えましたね」

藤居を知っていることに驚いたのか、逸らされていた視線がぱっと上げられたが、

自分の言葉を思い出したらしい河崎は、不機嫌な顔から一転非常に気まずげな表情になる。

けれど一度開いた高木の口は、閉じることを知らなかった。

今までの河崎の言動を非難するそれは、およそ看護師とは思えない言い草だった。

それもそのはずだ。

河崎にこのまま潰れて欲しくない、というのは高木のただただ個人的な思いなのだ。

あれこれとあげつらった後、とうとう言う言葉に尽きた高木は、

まだ何か言いたりないように唇を歪めると、ついには持っていた枕を河崎に投げつけた。

「ってぇな、お前…っ」

高木の言葉はとりあえず黙って聞いていた河崎だが、さすがに枕は腹が立ったらしい。

思わず、といった風だが、拳が振り上げられた。

今まで物は投げられたことはあっても、殴られたことは無い。

今日がその初めてになるのか、というある種の諦めを感じた高木は、ただ目を瞑っただけで、避けようとはしなかった。

月並みな言い方をすれば、殴られる覚悟はできていたのだ。

先に看護師の線を越えたのは高木だ。

どうしても、無気力な河崎が許せなかったから。

だから、高木に対する怒りでもいいから、前に進むための推進力を見つけて欲しかった。


少し経って、拳の代わりに高木に触れたのは、もっと優しい感触だった。

驚いて目を開ければ、それが掌だとわかる。

そして、目の前には困惑したような河崎の表情が見える。

「なんで、…あんたが泣くんだ」

さっきお前と呼んだくせに、今はあんたと呼ぶ。

なんとなく、もう怒ってはいないようだ、と推測する。

「すみません」

謝ると、少しだけがさついている掌が、乱暴に高木の涙の痕を拭って離れた。

「どっちかって言うと、今泣きたいのは俺のほうでしょ」

「すみません」

言いたいことだけ言って、枕まで投げつけて、最後に泣くとか。

看護師としてというより、人としてどうなんだ、という次元だ。

でも、それでも、どうしても、どうしても。

「バスケ…」

思ったより小さな声になってしまったけれど、河崎には聞こえたらしい。

困ったような、諦めたような表情で、ため息をつかれた。

「藤居さんのことも知ってたな。俺のことも、知ってたの」

「はい」

「観戦にでも来てた?」

「あ、高校生の時に」

「え」

プロになってからだと思っていたらしい河崎は、驚いて高木をまじまじと見つめた。

その視線にたじろいだ高木は、焦ってぺらぺらと言い訳を始める。

「えと、あの、昔の彼がバスケ部だったので、その、よくデートで」

「それは別に聞いてない」

遮った河崎の声は、妙に不機嫌そうに聞こえた。

「え? あ、すみません。とにかくよく大会は見に行きました。

 ルールに詳しくはないですけど、でも、プレーしてる姿が、カッコよくて。

 試合のたびにずっと目で追ってました。大好きだったんです」

「…へぇ。俺のこと?」

今度は、一転して妙に嬉しそうな声だ。

まるで熱烈な告白のように聞こえる自分の言葉を反芻して、高木は赤面した。

でもここまできて、黙るわけにもいかない。

「辞めて欲しくないです。諦めて欲しくないです。

 前と全く同じじゃなくても、コートは走れます。

 プレーを見られなくなるのは、嫌です。また、見たいです。

 だから、ちゃんとリハビリしてください。それで、試合も連れてってください」

一気に言いきってから河崎を見ると、何とも言えない顔をしていた。

嬉しいような、泣きたいような、いろいろ混じった変な表情だった。

けれどもそれはひと時のことで、すぐに癖のある笑みが浮かぶ。

「俺がプロになってからは、観に来たことあるの」

「すみません。無いです」

「うわー、それでよく今の言葉言えるな。図々しい」

「そ、それはその、観るの好きな友達もいないし、ひとりで行くのはちょっと」

「それは今度紹介してやるから、次のゲームは来て」

あまりにさらっと言われたその意味を把握するまでに、少しだけ時間がかかった。

それはつまり、つまり、諦めないということだ。

「…はい」

「だから、泣くなよ」

「すみません」

もう一度、河崎の掌が頬に触れて、今度は優しく涙を拭われた。


河崎はその後すぐに義足製作とリハビリを開始した。

やはり普通の人より筋力もあり関節も柔軟だったせいだろう。

あまり時を経ずに、今は既に退院に向けて屋外歩行と階段昇降の練習に移っている。

幻肢痛は、まだ時折出る。

それでも以前に比べればその頻度は確実に減った。

あれ以来、凶暴な訳有り患者から普通の患者へ変わった河崎に、看護師たちは再び色めき立ったのだが、相変わらず担当はほとんど高木だ。

河崎があからさまに高木と接触したがるせいだ。

河崎にリハビリを開始させた高木を、皆が猛獣使いのように言い広めたせいもある。

「お疲れさまでした」

「あー、まじできつ…」

リハビリ室まで迎えに来た高木に、珍しく河崎が弱音を吐いた。

高木は、腕時計を確認すると、河崎の部屋に戻るのとは違うエレベータへ向かった。

「どこ行くんだ?」

「今日はほんとにきつかったみたいですね。

 随分頑張ったようなので、いいところにお連れしますよ」

河崎は喜ぶだろう。

高木はにっこりと笑って、エレベータに乗りこむとRボタンを押した。


ドアが開くと、乗り込んでこようとした人とぶつかりそうになった。

「ぅわっ、やだ、ごめんなさい! 誰か乗ってるなんて思わなくて!」

「あ、保科(ほしな)先生」

「大丈夫ですよ」

「すみません、すみません」

飛び退いた保科は高木と河崎にそれぞれ謝ると、ドアを押さえてくれる。

無事にふたりが降りると、また同じように二度謝ると保科はエレベータに飛び乗った。

「落ち着きないな」

「でも、外科の先生なんですよ」

「…へぇ。で、ここって屋上?」

「屋上です」

「いいところ?」

「いいところです」

少し歩いたところに、バスケットゴールが設置してあるのだ。

長期入院している児童から勤務している医師まで、誰かしらが利用している。

「おっ、まじでいいところだなぁ」

ゴールに気づいた河崎が、嬉しそうに声を上げる。

ボールを渡してやると、手の中でいじり始めた。

数週間ぶりに触れたボールだ、感触を確かめているらしい。

河崎は、車椅子から立ち上がらず、そのままの体勢からシュートを打った。

ボールはリングにも掠らずに、そのまま落下した。

二度目のシュートは、リングにぶつかって跳ね返された。

特に残念そうな表情はしていないので、単に距離感を計算しているだけなのだろう。

そして、三度目に放ったシュートは、きれいな弧を描いてゴールに吸い込まれた。

「よし」

拳が、雲の無い天に向かって振り上げられた。

それが、コートの天井に向かうのも、そう遠くない将来の話しだ。

そう確信した高木は、曇りない笑顔を浮かべた。


何をしても世話してくれ続けた高木に、河崎はめろめろです^^

高木は基本河崎に憧れてたので、今後も河崎に流されていくと思われますw


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