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恋愛病棟  作者: ミナ
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真っ直ぐな瞳(整形外科PT・森の場合)

視線には敏感なほうだ。

と言ってもそれは、基本的に人づきあいが得意ではない森(もり)の、単なる危険回避のためのある意味本能的センサである。

例えば媚びてくる視線だとか、あるいは逆に哀れまれているような視線を感じるとする。

さらにそれが、目が合いそうになるとすっと逸らされるような類いのものだったとする。

迂闊に立ち入らせないように、そして深入りしないように注意深く接するようになるから、大きな波が立たない。

そこそこに心を閉じていることが、静かに生活するうえでは必要なのだ、と森は思っている。

けれど、最近感じる視線には少し困っていたりする。

なんというか、痛いのだ。

最初の頃は、もう少し遠慮がちだったような気がするのだが、今はもう遠慮など欠片も感じられないくらいに見られている。

それも単に見られているというよりも、観察されているといったほうが正しいと思えるような視線なのである。


あぁ、今日も視線でチクチク背中が痛い、と思いながら、珍しく入った患者の治療に励む。

自分で珍しいと言いきってしまえるというのは哀しいことだが、事実、森の患者は少ない。

入るのは、他のPTの予約がいっぱいで入れずに森に流れてきた患者か、新規の患者だけである。

この病院に来て日が浅く、患者の覚えもよろしくないがためなのだが、ローテーションに入ってはいるものの、今のところクラークに毛が生えた程度の存在だ。

クラーク、という単語を思い浮かべたせいで、なんとなく背中に刺さる痛みが増したような気がした。

視線の元が、山下(やました)というクラークだからである。

これだけ見られていれば、森でなくとも気づくだろう、というほどの視線の主だ。

いつから感じているのかといえば、恐らく森がこの病院に来た時からずっとだと思う。

それは自意識過剰でも何でもなく、紛れもない事実だ。

けれども、その視線に含まれているであろう感情を、森は未だに読み取ることができずにいる。

それさえわかれば接し方に工夫もできようが、わからなければ対応策も練れやしない。

患者と接するより受付にいることのほうがまだ多い森としては、ただでさえ居心地の悪いリハビリ室が、山下の存在とその視線によってさらに居心地悪く感じる。


治療を終えた患者と共に受付のほうへ向かおうとすると、山下の視線を正面からもろに食らうことになった。

じっとこちらを見つめている瞳とぶつかり、森は何とも言えない気分に陥らされる。

視線を逸らすのは、今まではいつだって相手のほうだったのに、山下は決して自分から逸らそうとしない。

耐えきれずに逸らすのは、山下に限ってはいつも森のほうになってしまった。

どこか敗北感に似たような感覚を味わいながら視線を逸らし、患者の次の予約を取ることにする。

「次はいつ頃来られそうですか?」

「来週の同じ頃の時間でお願いします」

「ええと、それだと古賀先生はまた予約埋まってしまってますよ。

 来週だと…朝一番か午後一番だったら」

「いえいえ、古賀先生でなくていいのよ。今度から森先生にお願いしようかしらと思って」

「え…」

思いがけない言葉に、森は驚いて一瞬動きを止めた。

古賀の治療は丁寧で親切、且つ的確であるため評判が良く、古賀の治療の予約を取ろうとする患者は多い。

そして一度古賀の治療を受けた患者は、なかなか古賀以外のPTの治療を受けたがらないのだ。

「ずっと古賀先生だったけど、先生もすごく丁寧にしてくださるから」

「あ、ありがとうございます。じゃあ、来週の同じ時間で予約入れますね」

まだまだ古賀のレベルには到底追いついていないことは自分でもわかっているが、それでも少しは認めてもらえたのだと思うと嬉しい。

患者を見送った後、森は思わず小さく拳を握った。

「よかったですね」

横から、一部始終を見ていたらしい山下の声がして、森ははっと顔を向ける。

相変わらず瞳に映る感情は読み切れないが、山下は笑顔だった。

「森PTがいつも一生懸命患者さんに接してるの、ちゃんと皆さんわかってくれてますよ」

それは山下が、いつもあの痛いと感じるくらいの視線で観察しているからわかることなのか。

と一瞬思わないでもなかったが、それはそれとして、山下の言葉は森の嬉しさに拍車をかけた。

山下に限らず、普段ほとんど誰かと親しくしない森だからこそ、他者からそんな風に思われていたことはかなり嬉しかった。

「ありがとう」

思わず緩んでしまったままの顔で言うと、山下は驚いたように瞠目した。

その理由を聞こうと思ったところで、受付に数人の患者が来てしまい、山下はぱっとその患者たちに向き直る。

そして森も、物療を受ける患者の対応に追われ出し、結局聞き出すことができなかった。


夕方からは仕事帰りに物療を受けに来る患者がかなり多くなる。

機器には数の限りがあるし、一つの機器につき一人十分という制限があるにはあるが、それでも人数が多ければ時間内には捌ききれないことも多い。

既に診察終了時間を過ぎていたが、赤外線とけん引とウォーターベッドの所にまだ患者が残っている。

予約患者を全て捌ききったらしい先輩PTたちは、既にリハビリ室から出て行った。

森はここでは一番新人だから、そのことについては特に何とも思わないし、むしろ当然だと思っている。

ただ、クラークの中で同じく一番新人の山下も最後まで残っているから、それが気にかかるだけだ。

既に空いているベッドや機器の整頓が終わると、待っていること以外にやることが無く、受付にふたりでいることになる。

森は人と話すのは基本的に苦手だし、森の想像というか予想だが山下もそれほどお喋りというわけではない。

どうしても沈黙が支配しがちになってしまう、その時間が困るのである。


ウォーターベッドのアラームを皮切りに、残り二つの機器も次々にアラームを鳴らし、沈黙と困惑の時間は終了した。

森と山下は慌しく機器を片づけ、会計用のカルテを患者に渡さなければならない。

最後の患者のカルテを取ろうと森が目も向けずに手を伸ばすと、取ってくれようとしていたらしい山下の手に重なってしまった。

掌に伝わってきた滑らかさと柔らかさに驚き、森は思わずその手に、そして山下の顔に視線を遣る。

山下の瞳は、いつも通り真っ直ぐ森に向かっていた。

だがその瞳に、常にない、揺らめくものを見つけた森は、動揺して奪い取るように山下の手からカルテを取る。

「お大事に」

かろうじて、患者にその言葉を言えたことを自分で褒めてやりたい。

そう思うほどに、森は狼狽えていた。


患者が出て行き、自動ドアが閉まり、リハビリ室には森と山下だけになった。

その事実を認識すると、森はゆっくりと山下へ向き直る。

視線は、まだ森を捉えたままだ。

というよりも、決して逸らすまいと無理をして踏ん張っている、という感じだった。

その意味を、気づかないほど鈍感ではない。

しかし、今まで気づけなかった事実を考えると、視線のセンサはあまり大した性能ではなかったらしい。

今まで、痛いほどの視線を感じていたが、今向けられている視線には、別の意味で射殺されそうだった。

本物の好意という一番厄介な種類の視線を、無視できなくなる時まで感知できなかったなど、センサとしては致命的ではないか。

そう思いながら小さく笑うと、山下がまた目を瞠ったように森を見つめる。

そういえば、今日の昼間も何か驚いていたな、と思い出した。

「何を、そんなに驚いてるんです?」

「わ、笑ったから」

「驚くことですか、それって」

「驚きますよ。普段全然笑わないし、

 ここに来て初めてじゃないですか。すごく久しぶりに見…あっ」

慌てて口元を押さえた山下を、森は不思議そうに見る。

すごく久しぶり、と言われても、山下とはこの病院に来て初めて会ったはずなのだが。

問いかけるように見つめた先の、相変わらず健気にもじっと森を見つめている瞳は、それでもかなりぐらぐらと揺れていた。

「……去年の冬、森PTが面接に来てたときに、見たんです。

 お年寄りの方が若い人とぶつかって倒れそうになって、

 あって思ってたら、森PTが支えてあげてて。

 それで、お礼を言われた時に、すごく優しい笑顔で、

 しかもその後荷物も持ってあげて一緒にエレベータに乗ってあげてました」

言われて面接日のことをぼんやりと思い出したが、そんなこと今まですっかり忘れていた。

妙なところを見られたものだ、と少し気恥ずかしい気分になる。

「だから、受かるといいなって思ってて、実際ここに来たときは嬉しかったのに。

 なんか、深入りさせないってオーラがすごいし。

 お近づきになりたい視線をちらっと送ってた人たちは、

 さっさとかわされてるのにだんだん気づいて。だから…」

そこまで言って、山下はその先を言い淀んだが、森は納得した。

だから、あの痛いくらいの視線だったのだ。

少し見てかわされるより、むしろ見続けて逸らさないでいればいつかは見てくれる、と思ったのだろう。

「…負けました」

ここまでわかった以上、無視できないし、またそうしたいという気持ちも湧かなかった。

それに、どうせこんな強い視線をくれるなら、いつものじゃなく、感情を映し出した今みたいな瞳のほうがいい。

森のあっさりとした敗北宣言に、山下は嬉しそうに笑った。


じっと、森だけを、真っ直ぐに見詰める瞳。

ぐらぐらと揺れているように見えるのは、今まで隠していた気持ちを曝け出しているからだ。

見つめ返すと、腰骨の辺りからざわざわとしたものが駆け昇る。

その瞳に、触れたい。

こんな気持ちになったことは、今まで誰にも、一度として無かったのだが、その欲求のあまりの強さに森は抗えなかった。

まず最初に、瞼に、睫毛に、目の縁に、慎重に唇を寄せる。

そして、そっと出した舌の先を、眼球へ這わせた。

「ひゃ…っ」

途端に、山下はよくわからない声を上げて、体をびくつかせた。

異物を押し出そうと瞼が閉じようとするが、森はそのまま瞼の隙間に舌先を留まらせている。

驚かせたか、怖がらせたか、けれど山下は森を止めさせようとはせずに、ぎゅっと森の服を掴むだけにとどまった。

その仕草に許可を得たような気がして、森はそのまま続行する。

眼球を舐める、というのは、どこか倒錯的な気もした。

まともな神経なら、決して舐めたいと思わないような部位だろう、と頭の中のまだ少し冷静な部分で考える。

べつに、美味いわけでも甘いわけでもない。

ただ、森を見つめ続けてくるその真っ直ぐな瞳が愛しいだけなのだ。

右の眼を堪能した後、森はそのまま左へと移る。

山下はやはり抵抗せずに、目を閉じようともしない。

その代わり、少しだけぬるつくような感触の真ん丸ではない表面に舌を押しつけると、森に縋る手の力が強まる。

「は、ぁ…っ」

息を詰まらせるような、声にならない声を上げる山下に、煽られる。

舐める、というより既に、しゃぶるという言葉がふさわしいかもしれなかった。


内線の鳴る音が、大きく鳴り響く。

一気に現実に引き戻された森と山下は、ばっと体を離した。

まだ震える体を持て余し、森から手の離せない山下を椅子に座らせ、森は受話器を取り上げる。

「リハビリ室、森です」

「森PT! もう消灯になっちゃうんですけど、まだですか?」

「え? あ、高木(たかぎ)さん?」

「え、じゃないですよ! 8時半からって言ってたじゃないですか」

内線の相手は、整形外科の病棟看護師だった。

入院中の小学生のリハビリを頼まれていたのだが、すっかり忘れていた。

中学生以下の患者の消灯時間は9時に設定されており、時計を見ると、もうあと3分後に迫っている。

謝り倒し、今から行くと言うと、内線はすぐに切れた。


言ったからには行かなければならないのだが、山下のことを思うとすぐには行けない。

座ったままの山下に視線を落とすと、濡れた瞳が森に向けられる。

舐め倒していたせいか、と思うと今更ながらなんとなく罪悪感が襲ってくる。

「…すみません」

「え? な、何がですか」

「や、なんか…」

言い淀んだ森だったが、山下はなんとなく察したらしく、少しだけ顔を赤らめたまま笑った。

「いいです。それに、ちょっとだけ、クセになりそうな感じでした」

小さな声で言われた言葉に、森は思わずまじまじと山下を見つめる。

恥ずかしそうだったが、それでも瞳を逸らさない山下に、森は軽く調子に乗ってみた。

「じゃあ、またしてもいいですか」

「……敬語、やめてくれたら」

「いいの?」

「早っ」

変わり身の早さに、ふたりして噴き出して笑った。

ひとしきり笑い合い、はっとして時計に目を向けると、9時を回っている。

「わわっ、時間無い! ここは私やりますから、行ってあげて下さい」

「…敬語、やめてくれたら」

「え? あ、そっか。……行って?」

山下の物言いは、どこか微妙な感じがしたが、なんとなくお互い照れてしまった。

「じゃあ、よろしく」

山下の目尻に軽く唇を寄せてから、森は歩き出す。

その背中には、また視線。

痛いような、熱いような、全力のそれに、歩きながら森は小さくほほ笑んだ。

この真っ直ぐな瞳は、案外癖になる。


今気づきましたが。

目玉は舐めたのに、普通のキスはしてなかった…。

どこまで眼球好きなんだ、森ー!><

というわけで、森はちょっぴり変態チックな男でした(笑)。


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