大きなてのひら(内科看護師・白井の場合)
仕事を終えた木曜日のロッカールーム。
着替え終えて、約束の20時までまだ少しあるからとぼんやりしていると、誰かが入ってきた。
足音からするとふたりくらいだが、ロッカーを隔てた向こうで止まったため、誰かはわからない。
「あーもう、ほんと苛々する」
「ね、年下の癖に何様よって」
その声を聞いて、白井(しろい)は一気に気が滅入るのを感じた。
彼女たちは、今年他の病院から移ってきた看護師たちで、白井よりも年上だがこの病院では後輩に当たる。
白井は今日たまたま、目に付いたところをついちょっと言ってしまったのだ。
ロッカールームに他には誰もいないと思っているらしい彼女たちの、白井についての陰口が大きな声で続いていく。
白井は自分の性格がきついことは自覚している。
言葉がきついせいで、医師たちにさえびくびくされることがあることもわかっている。
けれどほとんどの人は、冗談めかして「怖い」なんて言いながら流していたし、たまの悪意も直接向けられてきた。
こんな風に陰口を叩かれるのには慣れていないせいか、白井の気持ちはどんどんささくれだってくる。
携帯を見ると、時刻は19時46分。
まだ少し早いけれど、もうここにはいたくない。
バッグを抱えて立ち上がり、彼女たちの脇を通り抜けて行く。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
視野の隅に入った真丸に見開かれたふたりの目と固まった口がおかしくて、だがそれでも気分はちっとも晴れなかった。
約束の10分前に到着したのは、リハビリ室だ。
看護師というのは意外と体力のいる仕事で、ある時患者を載せたストレッチャを動かしていたら腰を傷めた。
ついでに、元々首の骨にも異常があるせいで体のバランスが悪く、定期的にリハビリが必要だと診断された。
最初にかかったときからずっとリハビリをしてくれているのは、PTの古賀(こが)だ。
古賀は実際には白井より4つ年上だが、童顔のせいで同じ年くらいに見える。
すっかり仲良くなった今は、時間内に来るのが難しい白井のため、週に一度全ての患者が捌けた後特別に時間外でリハビリをしてくれている。
数人のクラークがいる受付を会釈で通り抜け、部屋の入口に置いてある椅子に勝手に座ると、最後の患者を看ているPTたちが目に入る。
その中に、約束しているはずの古賀の姿が見えず、白井は首を傾げた。
「お待たせ」
後ろからかかった声に驚いて見上げると、古賀だった。
軽く手を上げている古賀にどきりとさせられ、白井はいつもよりもさらにぶっきらぼうな物言いで返してしまう。
「まだ時間じゃないけど」
「ああ、最後キャンセル入ったから。少し早いけど、もう看てやれるよ」
白井の言い方にまるで頓着せずに言いながら、古賀の掌が白井の背中にあてられて促される。
古賀にはいつも何をどんなふうに言っても敵わない、と知っている白井はその掌に素直に従って立ち上がった。
首周りに軽いマッサージを丁寧に施された後には、患者やスタッフはいなくなっていた。
しんとしたリハビリ室に、呼吸の音と衣ずれの音、白井が横になっているベッドや古賀が座る椅子の軋む音だけが響く。
今は左の肩から腕にかけて調節している古賀を、見上げてみる。
意外と顔が近い、などと思っていると、視線に気づいた古賀が少しだけ眉を顰めた。
「今日、何かあったか?」
「どうして」
「…皺。さっきからずっと。体もいつもよりなんか強張ってるし」
腕からいったん離れた古賀の掌が額に触れ、その親指が眉間に触れた。
その適度な重みと温もりに、ささくれだっていた気持ちが少しずつ解けていく気がする。
きつい性格だと自他ともに認めている白井も、なぜか古賀の前ではそれを維持できず、普段なら嫌悪するはずの甘えまで出てしまう。
多分、古賀を好きだと思うその気持ちがそうさせているのだ。
「今日、やなことあって」
「ん」
ぽつぽつと話しだすと、古賀は額から手を離し、白井の話を聞きながら施術を再開した。
古賀は、掌が大きくて温かい。
冷え症の白井からするとかなり羨ましく、患者としてはかなり安心するが、古賀を好きだと思う女としては少し怖い。
リラックスモードにさせられて油断しているときに、時折絶妙なタイミングとタッチで刺激される。
古賀はそんなこと意識しているはずは無いし、自意識過剰だとわかっているのだが、こればかりはどうにもならない。
いつの間にかベッドに乗って膝を立てた古賀の腿に、仰向けの白井の脚が載せられ、古賀の掌が白井の太腿に触れた。
そのまま体重を乗せるようにぐっと古賀が体を少し倒すと、微妙に密着度が増す。
もう少し角度を変えれば、この体勢はまるでセックスのようで。
意識しないようにと思えば思うほど、逆に意識してしまう羽目に陥る。
そうなってしまうと、古賀の掌はもうPTのものではなく、男のそれだと錯覚させられる。
早く離れて、早くその手を離して。
頭の中で念じながら、意識を逸らそうと話を続けてみるが、効果は上がらない。
「それ、で…っ」
どう考えても不自然になってしまった話し方に、焦って古賀を見上げたが、古賀の様子は変わらない。
そのことに安堵しつつも、次々に襲ってくるぞくぞくとした感覚に必死に抗うが、話すと変な声が出そうで唇を噛む。
「ん、それで?」
古賀は相変わらず密着した体勢のまま、掌で無遠慮に太腿から爪先まで触れながら尋ねる。
その瞬間、いつもの手順から外れている、と白井の頭の隅で疑問が沸き上がった。
いつもなら、こうして股関節の調節を図った後は、すぐに離れてその後に足先のほうに触れるのだ。
おかしい、と思いつつも、古賀の掌から逃れることはできない。
「肋骨もずれてるんだよな…」
「え?」
無防備だった脇腹から肋骨の上に、古賀のもう片方の掌が滑り、白井は無意識に体をびくりと小さく跳ねさせた。
ずれていると言った割に、その掌には調節を図ろうとする力は働いていないような気がする。
ただ柔らかに触れられる掌の意図がわからず、古賀を見上げるが読み取れない。
「ねえ、ちょっと何…っあぁ」
肋骨に沿って撫であげられ、堪え切れずに上げてしまった自分でもマズイと思ったその声に、古賀の掌がぴたりと止まる。
白井は、両手で口元を押さえつけつつ古賀を睨みつけたが、その目にいつものきつさと力は無い。
白井を見る古賀は、笑みを浮かべるように口角を上げている。
「…いい声」
「ち、違うし! 今のは、べつにそんなんじゃ」
焦って言い訳すればするほど情けなくなり、しかもそんな白井を見て古賀は笑っているしで、白井の焦りはより増す。
古賀の掌は、動いてはいないがまだ触れたままにされていて、それも気が気でない。
「とにかく! 忘れよう。うん、忘れて!」
「無理だろ」
「はぁ? …っ」
言おうとした文句は、また動き出した掌に中断させられた。
確実に、リハビリじゃない。
明らかに、快感を引き出そうとしている動き。
「何考えてんのっ?」
「何って、そーゆう声聞いてみたくなった」
「っなにそれ」
何を考えているのかさっぱりわからない古賀に、白井の頭の中は少しずつ冷えて行く。
好きな相手に触られて気持ち良くならない人はいないだろうが、それでもわけも分からず触れられるのは気分が悪い。
せっかく治まっていた苛々が、またぶり返してきた。
白井は、頭を載せていた枕を掴むと、思いっきり古賀に向かって投げつけてやる。
「イテっ」
「帰る!!」
靴を履いている時間も惜しく、バッグと靴を手に持つと裸足のまま走りだす。
後ろから焦ったように名前を呼ぶ古賀の声が聞こえてきたが、無視してエレベータに駆けこんだ。
階数ボタンと閉ボタンを意味もなく連打して、ようやくドアが閉まると白井は力が抜けたように床にへたり込んだ。
「何だったの…」
のろのろと靴を履きながら、ぼんやりと先ほどのことを思い出して身震いする。
今日の古賀は、どこかおかしかった。
けれど、多分意識してしまったのは自分が先なのだ。
そうすると、それに気づいた古賀が誘発されたのか。
ということは、もしかしてからかわれたのか。
「…最低」
まだ残っている古賀の掌の感触を振り払うように、白井は自分の掌で体中を擦る。
それでも消えない感触と熱さが手に負えず、深くため息をついた。
それからの一週間、白井は何かが抜け落ちたかのように過ごした。
言葉も表情も無くなり、必要以上に仕事を引き受けたりと、普段の白井からは考えられない様子だった。
単に古賀とのことを考え込んでいただけなのだが、周りからはかなり落ち込んでいるように見えたらしい。
先週陰口を叩いていたふたりに、どうやら見当違いの反省をされてしまったらしいことが、少しだけ笑えた。
「白井さん、残業ですよね? 私たちやりますって」
「…でもこれだけ」
「でももう8時半になりますよ?」
時間はわかっている。
いつものリハビリの時間はとうに過ぎているけれど、行こうかどうしようか結局踏ん切りがつかなかったのだ。
「ていうか、今日はデートなんじゃないんですか?」
「は?」
藪から棒に尋ねられたが、彼氏もいないのになぜにデートなのだ、と思わず顔を上げて後輩を見つめる。
問いかける視線の意味がわからないのか、後輩たちは顔を見合わせて不思議そうに見つめ返してくる。
「あれ、違うんですか?」
「毎週木曜は早く帰ってるじゃないですかぁ」
「白井さん嬉しそうにしてたし、デートだと思ってたんですけど…」
何を言われているのか理解すると、恥ずかしさでカッと顔が熱くなった。
白井は自分がリハビリに通っていることを、特に同僚たちには伝えていなかったが、デートだと思われるほど浮かれていたということか。
つまり、それだけ古賀に会えるのを楽しみにしていたという事実が白井に突きつけられる。
「あ、赤くなった…やっぱりデートなんですね!」
「それならやっぱりこれは私たちがやるんで!」
「お疲れさまでしたぁ」
仕事を無理矢理奪われて、追い立てられるようにステーションを後にした。
ロッカールームに向かう廊下をゆっくりと歩きながら、だんだんと覚悟を決めていく。
会ったら、先週のことを問い質して、それからできたら気持ちを伝えてみよう。
そう決めてしまえば、あとは急ぐだけだ。
遅れた時間を挽回しようと、白井は人気のない廊下を急いで走った。
リハビリ室の電気は点いていた。
遠目に灯りを見てほっとした白井は、だが部屋に足を踏み入れた途端少なからずがっかりした。
残っていたのは、古賀ではなかった。
「森(もり)PT…」
「あ、白井さん。古賀PTから伝言なんですけど」
「伝言?」
「無理なら僕にしろ、って…僕は意味わかんないんですけど、言えばわかるからって、わかります?」
嫌なら担当を替えてもらえ、ということだろう。
古賀も古賀なりに気にしてはいるらしい、ということはわかるが、こういうのは狡い。
思わずむっとした白井の表情に、森は傍目にわかるほどびくりとした。
「古賀PTって、まだいますよね?」
「あ、はい。呼んできます?」
「お願いします」
早く古賀を呼んだ方が安全だと思ったらしい森は、軽く会釈をするとそそくさと部屋を出て行った。
誰もいないリハビリ室で、手持無沙汰になった白井は、いつも使っているベッドまで勝手に歩いていく。
ベッドを見ると先週のことがまた頭の中に鮮明に浮かび上がり、そのせいで熱くなった頬を手で押さえる。
聞きたいことはたくさんあるのだ。
落ち着つこう、と言い聞かせ、ベッドに腰掛けた。
ぎゅ、という靴底と床の接する音が、一定間隔で聞こえだんだんと近づいてくる。
音が止まると同時に、床を見つめていた白井の視界に、古賀の履くスニーカが飛び込んだ。
見上げると、どこか情けないような表情の古賀が白井を見つめている。
その顔を見た瞬間、聞きたいと思っていたたくさんの言葉たちは、頭から飛んで行ってしまった。
その代わり、できたら言おう、なんて狡い考えでいた言葉が頭の中を埋め尽くす。
「……すき」
「ごめん!」
ほぼ同時にそれぞれの口から出た言葉は、古賀と白井の双方を困惑させた。
特に白井としては、告白した瞬間にしかも勢いよく謝られたということで、衝撃は地味に大きかった。
一拍置いて白井の言葉を理解した古賀は、脱力したように笑って、近くから引き寄せた椅子に白井と向き合う形で座り込んだ。
「白井は、嘘つかないよな」
「なに、どういう」
「俺が好きって、ほんとだよな」
「今謝ってたじゃん。確認する意味がわかんない」
「俺が謝ったのは先週のことじゃん。つーか、俺も白井が好きなんですけど、だからもう一回確認してもいいですか」
馬鹿丁寧に聞いてくる古賀に、白井はようやく状況を理解すると、今度は一気に恥ずかしさが襲う。
照れ隠しのように、聞こうと思っていた言葉を必死で思い出して矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「先週の、どういうこと。なんであんなことしたの。今日も逃げるし、何」
「…それは、ごめんって。ちょっと、抑え利かなくて暴走した」
「暴走って」
「やー、つまり、好きな女に仕事とはいえ触れちゃうってのは実にオイシイ話なわけですよ。
ただ先週はいつもよりイタズラが過ぎました。すいませんでした。でも言い訳するとあん時の白井の顔も犯罪レベルだったんだよな」
丁寧な言葉遣いの割に、内容についてはあんまりな言い草で、白井は目を白黒させる。
しかも、古賀の言い分には聞き捨てならない言葉があった。
「…いつもより?」
ということは、たまに感じていたのは、自意識過剰ではなかったということだ。
それでしかも一生懸命我慢していた白井の顔を、素知らぬ顔で実はしっかり観察していたということか。
こんなに童顔の癖に、仕事中一体何考えているんだ、と古賀をきつく睨め付ける。
「サイテーだよ。エロPT」
「エロって」
ボキャブラリの乏しさを露呈する物言いに、古賀はくっと息を詰めて笑った。
「白井限定なんだけど」
「…なら許す」
「じゃー、そろそろやるか」
「リハビリだからね。先週も途中だったんだから、今日はちゃんとしてよね」
「はいはい」
古賀は苦笑いしながら掌を肩に当てて、白井を一度立ち上がらせる。
バランスを確かめるように体中を優しく触れるその掌に、安堵した白井は小さくほほ笑んだ。
“ちゃんと”リハビリを施す古賀に、白井もつられてリラックスモードに入る。
痛くない程度のちょうどいい強さで触れられ、体から余計な力や強張りがすーっと抜けて行くのがわかる。
「…きもちぃ」
うっとりとした心地で思わず呟くと、古賀の手が止まった。
止めないでよ、と文句を言ってやろうと目を開けると、何とも言えない表情が目の前にある。
「何?」
「そのふにゃふにゃになった顔と声で、そういうこと言うのやめてくれる」
「何が?」
「…白井の方がよっぽどエロいんだよ」
眉を顰めてぼそりと呟かれたのは、そんな言葉で。
何言ってるんだ、と頭に血が上り、思いつく限りの雑言罵言が口を衝きそうになる。
その一瞬前に古賀の唇で軽く塞がれて、汚い言葉は日の目を見ずに済んだ。
「…ちゃんと、するって」
「キスだけだろー」
「そ、れでもっ」
意識しだすともうダメなのだから、これだけでも困る。
「はいはいはい」
「真面目にっ」
「わーかったって。つーか、白井ほんとかわいいな」
「他に誰もそんなこと言わないし」
「俺の前でだけキバ抜けるのがいーんだよ」
「…モノズキ」
何と言って返せば良いのかもうわからなくなってそれだけ言えば、古賀の大きな掌が頭を撫でた。
その気持ちよさに、また目を瞑る。
いくら憎まれ口を叩いても、結局、この掌には逆らえないのだ。
トップバッターは、内科の看護師、白井です。
HSHで直輝を冷たく突き放していた彼女です^^;
口は悪いけれど、好きなひとの前ではかわいくなってしまう、普通の女の子でした。