魔女の葬列
なるほど、確かに彼女は死んでしまった。冷たい墓石の下で二度と目覚めることはない。しかしだからといって、彼女の行いが残した影響が消えるわけではない。
むしろ、魂という重石が取り払われたことで、彼女の遺した「毒」はより純粋な形でこの街に染み出し始めていた。
葬儀は、彼女——九条比奈子の生前の華々しさに比べれば、驚くほど静かなものだった。参列者の顔ぶれは豪華だったが、そこに涙はなかった。あるのは安堵と、隠しきれない警戒心だけだ。
「これで、ようやく終わったんだな」
最前列で焼香を終えた男、経済界の重鎮である佐伯が、隣に立つ秘書に小さく耳打ちした。その声には、長年自分を縛り付けていた鎖が千切れたような、解放感の混じった震えがあった。
比奈子は「聖女」であり、「魔女」だった。
慈善事業に私財を投じ、孤児院を支援する一方で、政財界の醜聞を握り、チェスの駒を動かすように人を操った。彼女に救われた者は彼女を崇め、彼女に破滅させられた者は彼女を呪った。しかし、そのどちらもが彼女という存在なしには生きていけなくなっていた。
墓地から立ち去る人々を見送りながら、私は一人、最後に残った。
私は彼女の顧問弁護士を務めていた。いや、正確には彼女の「後始末」を任されていた掃除屋だ。
私の手元には、彼女が死の直前に預けていった一通の遺言状と、重厚な革張りの手帳がある。
「先生、私が死んだら、これを適切なタイミングで『開封』してちょうだい。死ぬのは怖くないけれど、忘れ去られるのは癪だわ」
彼女の最期の微笑みを思い出す。それは、子供が悪戯を仕掛ける時の、無邪気で残酷な輝きを湛えていた。
四十九日が過ぎた頃、彼女の影響力は消えるどころか、さらに加速度を増して顕在化した。
まず動いたのは、彼女が支援していたはずの「ひなぎく児童養護施設」だった。
比奈子の死によって寄付が途絶えた途端、施設の経営陣が隠していた多額の横領が発覚した。比奈子は彼らの不正を知りながら、あえて指摘せず、その証拠を握ることで施設を完全に支配していたのだ。
重石がなくなった経営陣は、浮足立って証拠隠滅を図り、それがかえって命取りとなった。結果として施設は解体の危機に瀕し、子供たちは路頭に迷いかける。
「助けてください、先生。比奈子様なら、こんな時どうされたでしょうか」
施設長の絶望的な懇願に、私は彼女の手帳を開いた。そこには、施設長が過去に犯した罪のリストと、次のようなメモが記されていた。
> 『絶望は人を最も効率的に働かせる燃料よ。彼らが底に落ちた時、私の名前で新しい「救済者」を送りなさい』
>
彼女は死してなお、次の支配体制をデザインしていたのだ。私は彼女の指示通り、あらかじめ指定されていた若手実業家を施設に引き合わせた。その実業家もまた、かつて比奈子に弱みを握られ、忠誠を誓わされた「駒」の一人だった。
街の至る所で、同じような現象が起きていた。
彼女という中心点を失ったことで、張り巡らされていた蜘蛛の巣が振動し、絡め取られていた獲物たちが一斉に暴れ出したのだ。しかし、その暴走すらも、彼女の計算の範疇にあるように見えた。
数ヶ月が経ち、私は次第に奇妙な感覚に囚われるようになった。
朝、鏡を見るたびに、自分の表情が彼女に似てきていることに気づく。彼女の遺言を実行し、彼女の代わりに判断を下し、彼女の言葉で他人を説得する。
私の生活は、九条比奈子という死者の意志によって完全にジャックされていた。
ある夜、私は彼女の手帳の最後のページをめくった。そこには、これまでの冷徹な指示とは打って変わった、乱れた筆跡でこう書かれていた。
> 『私を殺したのは、私自身でもなく、病でもない。私という偶像を作り上げた、あなたたちの欲望よ。だから、私は死んでもあなたたちを許さない。永遠に私を演じ続けなさい』
>
背筋に冷たいものが走った。
彼女は知っていたのだ。自分が死んだ後、残された者たちが自由を求めるのではなく、むしろ「彼女のルール」を欲しがることを。秩序を維持するために、誰かが九条比奈子の身代わりにならざるを得ないことを。
私は、デスクに置かれた彼女の遺影を見つめた。
写真の中の彼女は、すべてを見透かしたような目でこちらを見ている。
「……なるほど、確かにあなたは死んだ」
私は独り言をつぶやいた。
「でも、あなたが望んだ通り、この街のどこを見ても、あなたがいなくなることはない」
私は受話器を取り、次の「処理」のために佐伯に電話をかけた。
「もしもし、佐伯さん。九条の件で、少しご相談が……。ええ、彼女ならこう言ったはずです」
私の口から出た言葉は、自分のものではなかった。
それは紛れもなく、冷たい墓石の下で眠っているはずの、あの女のトーンだった。
それからの数年間で、街は一変した。
「九条比奈子」という名前は、次第に個人の名から、ある種の「システム」の名称へと変貌を遂げていた。
彼女が設立した財団は巨大化し、都市開発から教育、果ては治安維持に至るまで、比奈子が遺した「倫理」と「罰」のバランスに基づいた統治が行われるようになった。犯罪率は低下したが、住民たちは常に、目に見えない「彼女の目」を意識して暮らすようになった。
人々は口々に言う。
「九条さんが生きていれば、もっと素晴らしい世界になっただろう」と。
皮肉な話だ。彼女が死んだからこそ、この完璧なディストピアは完成したというのに。
私は今や、財団の最高顧問として、事実上この街を動かしている。
豪華なオフィス、かつて彼女が座っていた椅子に身を沈め、私は窓の外を見下ろす。
かつて彼女が愛した庭園には、今や彼女の銅像が立っている。
その足元には、毎日絶えることなく新鮮な花が供えられる。彼女を憎んでいたはずの者たちさえも、今はその像に祈りを捧げている。彼らにとって、比奈子はもはや人間ではなく、自分たちの不浄を肩代わりしてくれる神に近い存在になっていた。
「先生、次の議題ですが」
秘書が入ってくる。彼女もまた、比奈子の面影をどこか宿している。
私は手帳を閉じ、微笑んだ。
「始めよう。彼女の意志を、さらに広く、深く浸透させるために」
死者は語らない。しかし、死者は支配する。
肉体が滅び、言葉が消え、記憶が風化しても、その人間が世界に打ち込んだ「楔」だけは、時を経るほどに深く、抜けなくなる。
九条比奈子は、墓の下で満足しているだろうか。
それとも、自分の描いたシナリオが、あまりにも忠実に実行されていることに退屈しているだろうか。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。
そこにはもう、私自身の意志は残っていなかった。
ただ、冷徹に微笑む一人の「魔女」の残影があるだけだった。
「なるほど、確かに彼女は死んでしまった」
私は最後にもう一度、自分に言い聞かせるように呟いた。
「しかし、私たちが生きている限り、彼女が眠ることはないのだ」
夜の帳が下りる街に、彼女の遺した街灯が一つ、また一つと灯っていく。
その光は優しく、そして逃げ場がないほどに明るかっった。




