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ユナは森の中を走り続けた。
深い闇に包まれているはずなのに、不思議と周囲の景色が見えていた。木々の影も、足元の根も、闇に溶けることなく、はっきりと分かる。
やがてユナは、森の奥にある自分だけの隠れ家へと辿り着いた。それは大きな木の虚で、ユナ一人がぎりぎり身を潜められるほどの大きさの、誰にも知られていない秘密の場所だった。
ユナは中へと入り込み、膝を抱えるようにして座り込む。懐から、小さな人の形をした像を取り出し、強く握りしめた。
怖くて、息を潜めて。時折、ぎゅっと目を閉じながら――。ユナは、ただ朝が来るのを待った。
闇の中で、ひとりきりで。
朝が来た。ユナは木の虚から外へ出ようとして――その瞬間、遠くに気配を感じ取った。
理由は分からない。けれど、はっきりと分かる。
……人が、来る。ユナは咄嗟に身を引き、木の虚の奥で小さくなった。
気配は次第に近づき、数も増えていく。ユナは息を殺し、ただじっと耳を澄ませた。この場所は、入り口が蔦や草に覆われている。
そう簡単に見つかるはずはない――それでも、心臓の音がうるさくて仕方なかった。
やがて、人々の話し声が聞こえてくる。
「御神体を探せ、だとさ」
「最初から無かったんじゃないのか?」
「村人は皆死んでる。誰にも聞けねぇな」
「一人くらい、生かしておけばよかったのによ」
「もう遅いわ」
「まあ、逃げた奴がいるかもしれん。……いないだろうけど」
「だな」
ユナは、その言葉を、はっきりと聞いていた。やがて足音と声は遠ざかっていく。森に、再び静けさが戻った。
……今のは、本当?
村の人たちは、みんな――。
ユナは考えることをやめ、暗くなるまで木の虚の中で動かなかった。日が沈み、外は闇に包まれる。固まっていた身体を、ユナは無理やり動かした。
地面に這うようにして、そっと外へ出る。闇のはずなのに、不思議と見えた。草の揺れも、木の輪郭も、はっきりと分かる。
……お水、飲みたい。
……お腹、空いた。
そのことを、ユナは不思議だとは思わなかった。今はただ、生きるために必要なことがある。ユナは口にできるものを探すため、
そっと――一歩を踏み出した。
ユナは森の中を、あてもなく歩いた。走る力はもう残っていなかった。喉が渇いて、足が震える。それでも立ち止まれば、二度と動けなくなりそうで、ユナは歩き続けた。
小さな川を見つけたのは、日が高くなった頃だった。しゃがみ込み、両手ですくって水を口に運ぶ。冷たい水が喉を通り、少しだけ息が落ち着いた。
「……生きなきゃ」
誰に聞かせるでもなく、ユナは小さく呟いた。
食べ物は、村で覚えたことを頼りに探した。
赤い実は食べてはいけない。匂いの強いものも避ける。地面に落ちている木の実を拾い、割って中を確かめる。
空腹は満たされなかったが、何も食べないよりはましだった。夜は、木の根元や茂みの中で身を丸めた。獣の鳴き声が聞こえるたびに、身体が強ばる。
眠りは浅く、何度も目を覚ました。
それでも、朝は来た。
雨の日は、葉の広い草を集めて身体を覆った。寒い夜は、落ち葉を集めて重ね、少しでも風を避けた。
指先は泥だらけで、服は擦り切れ、手足には小さな傷が増えていった。怖くて、泣きたくて、何度も立ち止まりそうになった。
それでもユナは、歩いた。
「村のみんなが、そうしてたから」
誰かのために働き、耐えて、生きていた。
ユナは、それを真似していただけだった。
何日が過ぎたのか、もう分からない。
それでもユナは、森の中で息をし、食べ、水を飲み、眠った。
小さな身体で、必死に。
ユナは、もう自分がどこにいるのか分からなかった。
歩いてきた道も、進んできた方向も、すべて曖昧になっている。
服は裂け、靴は擦り切れ、全身が泥と埃にまみれていた。足は重く、視界が揺れる。景色が歪み、地面が近づいてくる。そのまま、ユナは倒れた。
人の声が、聞こえた、気がした。
「……何だ?」
そこまでだった。
ユナの意識は、闇に沈んだ。
――次に目を覚ましたとき。そこは、粗末な小屋の中だった。木の板を打ち付けただけの床に、ユナは転がされるように横たわっている。
「目が覚めたか」
低い声がして、ユナの視界に影が差し込んだ。その人物は、ユナの目の前に水を差し出す。ユナは言葉も出せず、ただ懸命にそれを飲んだ。
乾ききった喉に水が染み渡り、少しだけ身体が楽になる。そして――ユナは、再び目を閉じた。
ユナは、まぶたの裏に炎の気配を感じて、そっと目を開けた。ゆらゆらと揺れる赤い光。
……外は、夜?
小屋の中では薪が燃え、その火がユナの顔を照らしていた。影が壁に揺れ、時折、ぱちりと薪がはぜる音がする。
「起きたか。食べろ」
低い声がして、誰かがユナの前に器を置いた。中に入っていたのは、粥だった。
……ぬるい。そんなことをぼんやり思いながら、ユナは何も考えずに口に運んだ。
空腹が、思考より先に身体を動かしていた。
ゆっくりと、けれど止まることなく食べ続ける。
やがて、器は空っぽになった。そこでようやく、ユナは小屋の中を見渡した。家具と呼べるものはほとんどなく、壁際に置かれた道具もわずかだ。
「何もない」に近い空間だった。
視線を火の方へ向ける。
薪をくべている人物の背中が、炎に照らされていた。
……男の人?
炎がはぜ、火の粉が小さく舞う。その音だけが、小屋の中に静かに響いていた。




