19
ユナは唇を舌でなぞり、何も言わずに立ち上がった。その動きに迷いはなく、ふらつきもない。
すっと、手を前へ差し出す細い指先が、空中をなぞるように滑った。
次の瞬間――
鈍い音を立てて、牢の鉄格子が軋み、砕け、ばらばらに崩れ落ちた。
「なんだ!?」
見張りの叫びが地下に響いた。
だが、その声が広がる前に、片腕の男が動いた。
地を蹴り、一直線に突進する。
体当たりのような勢いで見張りにぶつかり、そのまま床に叩き伏せた。短い呻き声が漏れ、見張りは動かなくなる。
再び、地下は静まり返った。
崩れた鉄の残骸と、微かな息遣いだけが残る、重い静寂だった。
ユナは短く言った。
「行こう」
片腕の男は、その場に膝をついた。
だがユナは一瞥しただけで、吐き捨てるように言う。
「後だ」
それ以上の言葉は要らなかった。
二人は並んで地下を走った。石の床を蹴る音が反響し、湿った空気が肺に刺さる。
やがて、行き止まりに扉が現れた。重そうな木扉には、分厚い鍵が掛かっている。
ユナは立ち止まらない。
指先を空中に走らせた。
次の瞬間、音もなく扉が刻まれ、裂け、崩れ落ちた。鍵も、蝶番も、意味を失って床に散る。
二人はそのまま外へ飛び出した。
夜気が肌を打つ。見上げれば、空は深い闇に包まれ、星が冷たく瞬いていた。
――真夜中だった。
二人は、すぐに闇へと身を溶かした。
片腕の男は足を止め、周囲をぐるりと見渡す。物音、灯り、人の気配――すべてを確かめてから、小さく頷いた。
「あちらです」
低く告げると、迷いのない足取りで走り出す。
ユナは何も言わず、その背を追った。
細い路地を抜け、影から影へ。灯りの届かない場所を選び、二人は夜の町を横切っていく。
やがて足音も、息遣いも、闇の中に紛れた。
こうして二人は、何事もなかったかのように、夜の町へ溶け込んでいった。
二人は、町外れに建つ一つの小屋に辿り着いた。
片腕の男は周囲を一瞥し、鍵のかかっていない扉を静かに押し開ける。そのまま中へ入り、ユナも無言で続いた。中は狭く、簡素だったが、外の冷えた空気よりはましだった。
壁際には粗末な寝台と机が一つあるだけ。人の気配はなく、ここが人目を避けるための場所であることは明らかだった。
二人はようやく腰を下ろす。
片腕の男は、迷いなく片膝をつき、深く頭を垂れた。
「――幽凪の魔王、ナハト=アエル=ユルナス様。お待ちしておりました」
ユナは腕を組み、低く言った。
「……まだ、全く足りん」
「それでも。再びお会いできたこと、光栄に存じます」
「こんな貧弱な器だ。全盛期に比べれば、爪の先ほどの力しか残っていない」
ユナは不機嫌そうに視線を逸らし、吐き捨てるように続けた。
「しかも、もう時間だ。――“ユナ”が、目覚める」
一拍の沈黙。そして、静かに告げる。
「後は、任せる」
その言葉を最後に、ユナの身体から力が抜けた。小さな体は、糸が切れたようにゆっくりと前へ傾く。
片腕の男は慌てることなく、その身を受け止め、確かに支えた。腕の中で眠るその顔は、ただの子どものものに戻っている。
小屋の中には、再び静寂だけが残った。
――嵐の前の、凪のような静けさが。




