神殺し“ヴァーミリオン”
この世界には、耶蘇という組織がある。人知れず世界を救う――偉人を使役する秘密の組織だ。
2024年11月11日、午前十時三十五分。
耶蘇に使役されている三人の救済偉人代行が、指揮官の部屋に集められていた。
指揮官は資料の束を机に置くと、淡々と口を開く。
「今回、君たちが向かう異世界で極小のバグが確認された。
いつもの約半分のサイズだ。ゆえに、そこに出現するであろう救済偉人代行も、比較的小規模な存在である可能性が高い。
ただし――問題が一つある。
バグの存在は観測できるにもかかわらず、その異世界自体の座標が特定できないのだ」
「なんで観測できるのに、座標は分からないんですか?」
救済偉人代行の一人、“ジャック・ザ・リッパー”が問いかける。
「宇宙を想像してほしい。そして、そのバグは宇宙の中の“地球”にあるとしよう。
しかし、地球のどの地域、どの国にバグがあるのか――その現在地が不明なのだ。
そのうえ、その地球は雲に覆われ、どんな星なのかも判別できない。……そういう状態だ。わかったか?」
「ええ。十分理解できました」
ジャック・ザ・リッパーは、その悪名高い逸話からは想像もつかない柔らかな笑みを浮かべて答える。
指揮官は再び、感情の起伏を抑えた声で続けた。
「これにより、現時点では武器や補給物資の転送が不可能となっている。
状況が改善し次第、本部から武装支援を送るつもりだが、基本的には現地調達をお願いしたい。
召喚された救済偉人代行の影響なのか、それとも異世界そのものに異常があるのか――今は判断できない。
バグが小さいからといって油断は禁物だ。
……何か質問はあるか?
もっとも、現状ではこちらも確かな情報は何ひとつ持ち合わせてはいないが」
「なにも分からないなら、質問もクソもないわよ。
さっさとこんな会議、終わらせましょ」
酒吞童子が、タバコを燻らせながら不機嫌そうに質疑応答の場を打ち切る。
しかし、それは最善の判断なのかもしれない――どうせ、何も分からないのだから。
「了解した。では――お前たちにはもう必要ない説明かもしれんが、一応ルールなので、救済偉人代行について話しておこう」
指揮官は、まるで会社の朝礼でも始めるかのような慣れた口調で説明を始めた。
「救済偉人代行とは、“バグ”によってこの世界に呼び寄せられた存在だ。
過去の偉人に限りなく近い人物の“コピー”を依り代とし、その肉体に偉人の魂を宿す――それが救済偉人代行である。
彼らは人間とは比較にならない力を持ち、その力が悪意を持つ者に利用されれば、異世界はもちろん、こちらの世界すら危機に晒されかねない。
コピーは人種や性別に縛られず、魂の形が近い者が選ばれる。史実では男性であっても、依り代は女性である可能性がある。酒吞童子がその好例だ。まあ、逆の場合もある。
そして、召喚者の命令には絶対に逆らえない。
たとえ非道な命令であっても従わざるを得ない――それが救済偉人代行という存在の本質だ。
だからこそ、酒吞童子や、その依り代である梅吉遥のように、人類の未来に興味のない者であっても使役できる。
さらに、救済偉人代行は戦闘において“気絶”という状態にならない。
力を発揮できなくなるのは完全な戦闘不能――つまり死亡時のみだ」
指揮官は一息置き、話題を変える。
「次に、“絶技”について補足しておく。
これは各々に設定された必殺技であり、その多くは使用後に一定の“クールタイム”を必要とする。
クールタイムは、偉人と依り代の相性によって異なる。
ただし、まれにシモ・ヘイヘのように、クールタイムの制限を受けない例もある」
その場にいるシモ・ヘイヘは、まるで自分の名が出なかったかのように、静かに聞き流していた。
「――以上だ。武運を祈る」
説明を終えた指揮官の言葉を背に、救済偉人代行たちは転移装置へ向かう。
ある者は退屈そうに、ある者は無関心に、ある者は当然のように。思考も思想もばらばらだが、全員が指示通りに動いた。
装置の起動準備が整うまでのわずかな時間、偉人たちは軽い会話を交わすことが許されている。多くの場合は初対面のため、自己紹介が始まる。
最初に口を開いたのは酒吞童子だった。
「私の名前は酒吞童子。依り代の名前は梅吉遥。
暴力しか取り柄はないけど、よろしくね!人間ども!
……それはそうと、そこの綺麗な女!今夜、一緒に寝ない?」
話しかけられたジャック・ザ・リッパーは、差し出された手を取らず、笑顔で答える。
「いえ、遠慮しておきます。きっと現地にもっと素敵な女性がいますよ。
私はジャック・ザ・リッパー。依り代の名前は血脇メアリー。
私も依り代も医療の心得がありますので、負傷したら頼ってください」
最後に口を開いたのは、覆面で顔を隠したシモ・ヘイヘだった。
「俺の名前はシモ・ヘイヘ。依り代の名前は寺野守。
狙撃なら任せてほしい」
短い自己紹介が終わるのと同時に、転移装置の準備が整った。
本当に誰かが気を利かせたかのような、完璧なタイミングだった。
彼らは職員との軽いやり取りを済ませ、装置へ足を踏み入れる。
金属の軋む音と微かな振動が全身を包み――次の瞬間、意識は闇に沈んだ。
――そして、目を開いたとき。
そこは、異常な光景のただ中だった。
足元は焼け焦げた瓦礫と灰に覆われた大地。
頭上には、一片の星も月もない、ただ真っ暗な空が広がっている。
空気は重く湿り、どこか人の存在を拒むような“死の匂い”が漂っていた。
視線の先――。
薄く透明な黒い球体に包まれ、一本の刀を手にした赤髪の少年が佇んでいる。頭には捻じれたツノ。
ツノさえなければ、人間の子供とそう変わらない姿だった。だが――。
理性が、あの存在を否定しようと警鐘を鳴らす。
理由は分からない。ただ、“本能”が悟ってしまった。
この少年は、神をも凌駕する何かだ。
怒り、悲しみ、呪詛、憎悪――あらゆる負の感情とエネルギーから生まれた“災いの極点”。
それが、いま目の前に佇んでいる。
歴戦の戦士たちでさえ、その異常存在を前にして、精神を侵され始めていた。