第三話
初秋のような穏やかな笑顔は、弥一の代名詞ともいえる。それだというのに、弥一の笑顔はお滝の前だけでは鬼も泣き出す凶相へと変貌した。特に二人きりになったときはひどい。もう、見ている者を威圧しているとしか思えないのだ。お滝はつい目をそらしてしまう。
しかし、弥一の守役ぶりは、爺ばかの清吉が大満足するものだった。いつでもお滝を最優先し、手間暇を惜しまず、精一杯尽くしてくれている。それなのにあのまがまがしい顔、いったいどういう訳なのか。もしや、日ごろの姿は奉公人として我慢に我慢を重ねた成果であり、実は大層自分のことが嫌いなのではないのか。それが二人きりのときはあふれ出るように表に出てきてしまうのではないか。そう思ってお滝は提案してみたことがある。
「ねえ、弥一」
「はい、お嬢さん」
深々と刻まれた笑いしわから顔を背けながら、お滝は言う。
「あの……無理しなくてもいいのよ」
「何がでしょう」
「私のお守なんて、面倒でしょう。やりたいことはたくさんあるだろうし」
遠まわしな兄や役免除の言葉だった。
頭の回転の速い弥一は、すぐさま顔色を変えた。しわを全部ひっこめて、元々の整った顔立ちに戻る。そうすると、弥一から冷え冷えとした空気が流れてくるようだった。
「お嬢さん、おれがお側にいては迷惑でしょうか」
「え、いや、その……そんなことはないの」
迷惑というか、ただ怖いのだけれど。そんなことが言えるはずがない。ましてや、真剣なまなざしで真正面から向かってくる人間に対して、非情になれるお滝ではなかった。
「ただ、弥助みたく働きたいんじゃないかと思って」
なんとか答えると、弥一はあっという間に、不吉な笑いしわを復活させた。冷気はひっこんだが、今度は妙に生温く落ち着かない気持ちになる。
「ありがとうございます。でも、おれはこうしてお嬢さんのお側にいるのがいいんです。親父たちも同じようにして奉公を積んだんですから。お優しい心遣い、本当にありがとうございます」
深く深く頭を下げた後、弥一はそれまで以上にお滝一筋に尽くしてくる。その態度に嘘はない。
問題は、笑顔だけ。いい加減慣れてもよさそうなものだが、どういうわけか一向になれることができないでいる。
「お嬢さん、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、弥一」
弥助と同じ、耳に障らない静かな声とともに、弥一は部屋へ入った。手にはお茶とお菓子が入っているだろう包みがのったお盆。
「今日のおやつは、ちょっと変わっているんですよ」
お千佳と別れたのはほんの少し前。ならば、と砂一粒ほどの期待を持って、弥一を見る。が、そこにはやはり、慣れることのできない不吉な深いしわがあった。これで声と態度がとことん優しくなかったら、親に泣きついてでも弥一を守役にしなかっただろう。
「どうぞ、開けてみてください」
弥一は両の手に納まる小さな包みをお滝に差し出した。包みには木戸屋、と聞き慣れない店の名が書かれている。
「どこがどう変わっているの?」
「見ていただければ……」
ニコニコ、と形容するには障りがある弥一の眼差しだが、真心と深い理解の目を以て対峙することを覚えたお滝は、弥一が自分の反応に期待をしていることを感じ取った。
どれどれ、と好奇心をのぞかせたお滝は、ゆっくりと包みを開く。
「わァ、かわいい!」
中には、小さなお饅頭が五つも入っていた。親指と人差し指で輪を作ったほどの大きさである。
「こんなの、初めて見た」
「お客さんから聞いたんです。新しくお菓子屋さんができた、と。そこで一番人気がそれなんです」
お嬢さんが喜ぶと思って、とは弥一は言わない。弥一はお滝のためになることしかしない、と心に決めているのだから、そう思っているのは当然のことなのだ。恩着せがましく言うほうがおかしい。
お滝は弥一の心がすっかりわかっていたから、お礼のかわりに饅頭を賞賛する。
「食べるのがもったいないわ……でも食べちゃう。あんこが甘すぎなくて、とってもおいしい。あ、こっちは中が違う。白あんだ。こっちは栗が入ってる!」
咲き誇る花もかすむほどの、本当の美しい笑顔を前に、弥一のしわは一層深くなる。その姿は、悪鬼の親玉と囚われたお姫様にしか見えない。
「また、買ってきますね」
お願いね、と言いながら、お滝はまんじゅうに手をのばす。
多分、このほのぼのとした、かつちょっとした恐れの伴う関係はずっと続いていくのだろう。お千佳には悪いが、いくら乙女たちから想いを寄せられようが、弥一はまだまだ若い奉公人でしかなく、所帯を持つのもまだまだ先だ。何より弥一自信がお滝の守役を続けることを望んでいる。
だから、このままずっと。
お滝はまったく気づいていなかった。
自分だけに向けられている笑顔に恐怖はあるものの、けして嫌悪感は持っていないことに。
弥一ができずとも、家つきの自分はとっくに所帯をもつことができるということに。