第二話
お千佳を送り出したあと自分の部屋に戻ったお滝は、ようやくほっと息をついた。本当はさりげなく離れて弥一と二人にしてあげようかと思ったのだが、思いのほかお千佳の力が強く、握られた袖を離すことができなかったのだ。
「今日のお琴のお稽古はどうでした」
「うん。まぁまぁ」
「お嬢さんのまぁまぁなら、人並み以上に優秀なことでしょう」
お世辞とは思えない、心底そう思っている、という弥一の言葉の調子にお滝は苦笑した。
「それより、お千佳ちゃんがあの櫛気に入ってくれてよかったね」
「ええ。お嬢さんのお友達ですから、気合いを入れましたよ」
にっこりと『笑う』弥一に、お滝は苦笑の色を強くした。
今や小野屋の名物手代となっている弥一は、祖父・清吉に仕えた弥助の孫だ。弥助は清吉が嫁を迎えてしばらくしてから所帯をもったが、子ができるのは弥助のほうが早かった。清吉にとって弥助が兄やであったように、彼らの息子たちも使用人の枠組みを超えたつきあいをしていた。そのため当然のように引き合わされた弥一とお滝。まだ若い二人だが、かたや評判の小町娘、かたや働き者の色男、と看板が二枚たったようなもので、小野屋の人々はこの組み合わせを諸手を挙げて大歓迎している。
しかし、お滝だけは弥一のどうしようもない欠点を知っており、それは長年お滝を悩ませてきたのだった。
お滝は弥一と顔を合わせるたびに、初めて会ったときのことを思い出す。
五つ年上の兄やと出会いは、お滝が三つのときの初春だった。あいにくの曇り空で、冬の寒さが舞い戻ってきたような日より。ニコニコ顔の祖父を見ても、なぜかお滝の胸騒ぎは治まらなかった。今思うと、それは子ども特有の鋭い勘働きだったのではないか。幼いお滝は火鉢のそばで祖父にくっついて震えていた。
いつも通り、静かに「旦那様」と呼びかけた弥助の影が障子に写った。その後ろにもう一つ小さな影がついている。
音もなく部屋に滑り込んできた二人は、並んで膝を正して座った。弥助の隣にいるのが、自分より少しばかり上の少年であることはすぐわかった。だが顔はしっかと伏せていてわからない。
「お嬢様、今日からお側に仕えさせていただきます、せがれの弥一でございます」
祖父に背中を押され、お滝は兄やとなる人物をおずおずと覗き込んだ。それに合わせるように、少年・弥一が顔をあげる。
「あ……」
思わず声をあげてしまった。予想もしないものが目の前にあったからである。
本当はすっとしているであろう鼻筋は、まるで悪臭に耐えかねているように曲げられていた。細められた目の間からもしわが走って、眉間とつながっている。唇はひきつり、誰かが両端を無理に引っ張っているようだった。少年の顔は、地獄の鬼よりすさまじかった。
恐ろしいことでもあったのか、不吉なことでもあったのか。おろおろするお滝をよそに、弥一は澄んだ声であいさつをした。
「弥一と申します。よろしくお願いいたします、お嬢様」
しわが一段と深くなっているというのに、行儀よく頭を下げる弥一を見て、お滝はようやく気づいた。
世の中には、笑顔が凶相となる人がいるということに―――。
これが精一杯の笑顔なのか、とお滝は最初弥一に同情したものだった。これでは誰に笑顔を向けても怖がられてしまうだろう、と。
だがそれはお滝の取り越し苦労だった。というのは、なぜか店に出た弥一の笑顔は完璧といってもいいほど美しいものだったからだ。整いすぎた顔立ちは冷ややかに目に映るものだが、弥一はそれに適度な温度を与える術を心得ているようだった。幼い子とはしゃがんで視線を合わせ、年寄りには手を貸してやり、女には軽く微笑んでみせる。その上如才ない働きぶりで、男衆からも嫉妬されることなく、小野屋になくてはならない存在となっている。お滝の心配事とはまったく逆だ。その笑顔を自分だけに向けて欲しくて、弥一のたもとには恋文がたまり、人だかりは日に日に増えていくのだった。
そうして、反対にお滝の悩みは増えていく。
二話目です。どうぞ、最後までおつきあいください。
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