水の音
〜登場人物〜
金森:高校2年生の女子、帰宅部。日直当番。
〜お題〜
ワンピース、蛇口、教室
放課後の教室というのは不気味だ。人の出入りが多い昼間と比べて静かで暗いから、その反動も大きいのだと思う。少しの物音でもよく響くし、あるいは自分が発する以外の音が廊下の方から聞こえれば、誰でも一瞬くらいは驚いてしまうだろう。
どこからか聞こえてきたカラスの鳴き声に驚いて窓へと目を向ければ、夜の帳を下ろしつつある空を背景に、ベランダに1羽の黒いシルエットが留まっていた。
私はごくん、と唾を呑んで。すぐに意識を、机の上に広げられている学級日誌へと集中させる。今日、私は日直だった。日直当番は日替わりで2人体制なのだけど、今回のパートナーはもう部活に行ってしまった。その子は時間にうるさい運動部に所属しているから、あえて気を遣って「残りの仕事やっておくよ」と言っておいた。その子は「ありがとう、ごめんね」と丁寧にお礼を言って、愛用のスポーツバッグを手に取るとさっさと教室をでていってしまった。
本当に忙しいのだと思う。9月に入ったらほとんどの3年生は引退するわけだし、そしたら夏のあいだに力をつけてきた1年生たちが出番を増やしていく。2年生もうかうかしていられないのだろう。
私はといえば、放課後に日誌を書けるだけの時間があるということは、言わずもがな帰宅部である。家に帰ったところで、せいぜい親が帰ってくるまでに宿題をするか、食器洗いや干してある洗濯物を取り込むくらいしかやることがないため、自由時間を満喫できるのだ。とはいえ、のんびりしているわけにもいかない。さっきも言ったけど、放課後の教室は不気味なのだ。さっさと日誌書いて、私も早くこんな場所出たい。
「本日の感想」欄を無事に埋めてから、私は早々に荷物をまとめて席から立ち上がる。鞄を肩にかけ、学級日誌を片手に持ち、最後に窓が閉まっていることと電気が消えたことを確認してから、足早に教室を出た。廊下を歩くと自分の足音がはっきりと響いた。
日誌は書き終えたら職員室にある担任のデスクに置く決まりだ。私のクラスの担任は運動部だから、おそらくこの時間は職員室を留守にしていると思う。教室のある東棟3階から渡り廊下を歩いて西棟1階にある職員室まで行くのは、かなりの距離だ。廊下を歩いていると、どこかで吹奏楽部が楽器を鳴らす音や、放送部の発声練習が聞こえた。そうか、この時期は文化系の部活も忙しいのかと頭のどこかで考える。文化祭は来月からだ。
渡り廊下を歩いていたとき、どこかで水が流れる音が聞こえた。トイレの流水音ではない。水道の音だ。誰かが水道を使っているのかもしれない。それにしても、たったそれだけの音でもここまで響くんだと思いながら、私はますます歩くスピードを速めてたどり着いた西棟の、すぐ近くにあった階段を降りて行った。
水道の音はますます近づいてくる。2階の水道からのものかもしれない。無意識にも水道の音に集中してしまったせいか、自然と階段を降りる足音を小さくして、息もひそめてしまう。
階段の天井が死角になってその先の廊下にある水道はまだ見えなかった。でも、あと少しで見えてしまうだろう。私はごくん、とまた唾を呑んで。階段を降り2階へとたどり着いた。
そこから見えたのは、人の姿が全く見当たらない流し台だった。たくさんある蛇口の1つからジャージャーと水が絶え間なく流れていた。
何かいるのではないかと思っていた手前、ちょっと拍子抜けしてしまう。気づかぬうちに止めていた息をゆっくりと吐きだし、私は流し台へと近づいていく。全く、誰の仕業だ。きっと誰かが使ったまま、水を止めるのを忘れてしまったのだろう。通りかかってしまった手前、見過ごすこともできずに私は蛇口を止めた。そのときだった。
廊下の奥から一瞬わずかに、物音がしたのだ。
足音だけでも充分に響くくらい静かだというのに、気付くのが遅れてしまいそうになるくらいの、小さな音だった。
背筋に寒気が走り、私は身震いしてしまう。再び呼吸を止め、逸る心臓の音をうるさく感じながら、私は恐る恐る音の出所へと目を向けた。
すっかり西日が落ちてしまった、暗い廊下の向こう。
髪の長い、白いワンピースを着た女性が1人。そこにいた。
ヒッ、とあげそうになった声は喉の奥でつかえてしまい、思わず後ずさろうとしたところで。情けなくも足がもつれて私は廊下に派手に転んでしまう。手にしていた鞄と日誌が音をたてて落ちてもなお、それにかまっている余裕もないほど私はワンピースを着た女性に目が釘付けになっていた。
その女性は物音に気付くと、首をわずかにあげた。髪の長さも普通じゃない。後ろの髪は腰のあたりまで長く、前髪も、まるでカーテンのように胸のあたりにまで届いている。足は履物などなく、素足だ。その人は真っすぐ、静かにこちらに向かってきた。
私の足と手は、まるで地面に貼り付けられたかのように動かなかった。ワンピースの女性はあっという間に私との距離を詰めると、私の足をぐっと強くつかんできた。この世の者とは思えないくらい、冷たい手だった。
「いやっ、いやっ、来ないでぇっ!」
私はとっさに縮こまって、あまりの恐怖に裏返った声のまま大きく叫んだ。
「ちょっと、何言ってんの!」
が、直後。叱りつけるような声に私はすぐさま我に返った。しかも聞き覚えのある声に驚いて顔をあげると、ワンピースの女性は長すぎる前髪を手でぐいっとたくしあげて、私のことを同じように驚いた顔で見ていた。
よく見れば、その子は同じクラスの吉田さんである。
「金森さん、大丈夫? 急に倒れたから、どうしたのかと思って」
「よ、よしださん? な、何そのかっこ……」
いまだ震える声でそう問いかけると、彼女は髪をとっぱらった。吉田さんは地毛が明るい茶色だ。どうやら今のはウィッグだったらしく、それを片手でつかんで私の目の前に持ち上げて見せた。
「ああ、これね。ほら私、演劇部でしょ? 今年の文化祭の演目はホラーやるっていうから、そのカッコしてるの。私は呪いを振りまく女幽霊の役」
「なんで、手。冷たいの」
足から離れた手は、よく見ると少し濡れていた。どうやら、ちゃんと生きている人間の手だったらしい。そのことにようやく気づいて安堵した。
「役作りの一環よ。幽霊の手って基本冷たいでしょ? だから水に浸して手を冷たくしてたってわけ。一応、井戸からでてきたっていう設定もあるから」
全く、どこの貞〇だ。めちゃくちゃ人騒がせじゃないか。蓋を開ければたいしたことではないと知るや、恐怖のあまり悲鳴をあげてしまった手前、羞恥とそれに伴う怒りが私のなかで湧いてきた。
私は吉田さんを恨みがましくにらむと、吉田さんも気がついたのか、苦笑いを浮かべて手を挙げた。
「ごめん、ごめん。まさかそんなにビビられるとは思わなくってさ」
まさか水道の水が出しっぱだったのも、吉田さんの仕業?
私はますます怒りに震えながら、流し台を支えにして立ち上がった。
「水道の水、出しっぱだったんだからね!」
怒りをぶつけるように吉田さんに抗議すると、彼女はきょとんとした顔を私に向けた。
変だな、とその口がつぶやく。
「水なら、さっきバケツのを汲んだときに締めたはずなんだけど」
「え……?」
その言葉を受けて、あっという間に血の気が引いた。
まさか、そんな……。
「あっ、いや。まさかね。もしかしたら私が締め忘れただけかも。うん、ごめんごめん。金森さん、私の勘違いだよ! うん!」
これ以上私を怖がらせないためか、慌てて吉田さんが言い繕ってきたけれど、もはやそんな言葉、私の耳には入っていなかった。
じゃあ、この水は誰が出しっぱにしたの? まさか本当に幽霊の仕業だったんじゃ。
再び湧きあがって来た恐怖を押し殺すように、私は散らばっていた荷物を回収すると吉田さんへの挨拶もそこそこに、大急ぎで職員室へと向かった。
もう後ろは振り返らなかった。