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世界のつくりを説明する試み  作者: もりを
生命編
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22・生体、って

22・生体、って


原点に戻って、生体とはなんなのか?というところから考えてみる。


現代的な定義によると、脳死した肉体は生きてない、とされる。


大雑把な相関関係では、大脳は考えを、小脳は運動を司るので、これらが機能しなくなると、ぼくは「ぼくの世界」というアイデンティティと、そこでの活動とを失う。


ところがそんな状態に陥っても、脳の一部(脳幹のへん)の機能が残ってると、ぼくの心臓は自律機械としての鼓動をやめない。


心臓は、ぼくの意思から独立した活動部位なんだ。


フルオートマチックモードの心筋が動くと、血液が肉体内を勝手にめぐってくれる。


血液がめぐると、肺から取り込まれた酸素(この臓器の活動は意思から独立してないので、無理矢理に気道から空気を送り込む作業、すなわち、外的な力による酸素吸入が必要だ)がめぐってくれる。


酸素がめぐると、細胞に栄養が行き渡るので、ミトコンドリアがエネルギーをつくって全身に活力を展開させ、要するにぼくは瑞々しく生きたままの姿でいられる。


なのに、その肉体は生きてはいない、とされるんである。


脳内組織の通電こそがぼくそのものなんであり、それなしに活動するボディはもはや何者でもなく、自律駆動する物体、と言える。


ただ、細胞ひとつを生命体と考えると・・・殊に細胞内器官として組み込まれてるミトコンドリアなどは、もともと独立した生命体だったことから、大きなぼくが脳死をしても、別の形でぼく(の一部)は生きてる、ということになる。


が、もはやそのぼくは、ぼくではない他者だ。


いったい、細胞がたくさん集まってできたぼくとは、どの部分、そしてどのプロセスから先が、生命を宿した存在と言えるんだろう?


つづく

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