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レット・イット・ブリード

作者: 高山英

 血は流れたのか。隠れているものは何か。血とは何だろう。

********************

「どんな音楽かなんて知らないわ」

 彼女はそもそも興味がないという素振りで言った。

 その日は日曜日。僕は音楽を聞きながら、昼下がりに東へ向かう空いた東西線の中にいた。

 その日は朝から、中野の商店街横にある、いつもの小さなオフィスに午前中だけの出勤があり、遅い昼食を考えながらの帰宅の途中であった。

 昼下がりの電車は、ロングシートの両端と一人か二人が座る程度の客足で、窓の外も明るく、僕の仕事終わりの気持ちと同様、のんびりした雰囲気が漂っていた。

 東へ向かう休日の東西線は、駅に到着するたびに乗客が減り、一段とまばらになっていった。

 気がついたのは、葛西駅あたりだったろうか。ふと手に持ったモバイルから顔を上げると、黒縁の丸眼鏡をかけたショートカットの女性が僕の正面に座っていた。

 その女性は小振りなリュックサックを腹に抱え、両手で黄色の大きなビニール袋を持っていた。

 半袖の白いTシャツを着たその女性の所作は、その袋を持ちづらそうにも、大事そうにも見え、袋を持ち替えるたびに立つ、シャパシャパという小さな音がその所作の意味を分かりづらくしていた。

 黄色い袋には「DISK UNITED」のロゴがあしらわれていた。御茶ノ水にあるその店は、店内にレコードやCDなどが所狭しと並ぶ中古の音楽店であり、その袋の大きさから、彼女が中古のLPレコードを持ち歩いていたことは容易に想像ができた。

 「DISK UNITED」は僕が社会人になりたての頃によく通った店で、学生時代にはなかった毎月決まった額の収入の使い先となっていた。その黄色い袋を見ていると、その頃の懐かしい思い出が蘇った(最後にその店に行ったのはいつだろう)。

 電車は行徳駅で停止すると、また二名ほどの乗客が降りていき、車内アナウンスでは、次の妙典駅で快速の通過待ちをすることを告げていた。

**********************

 「そのレコードが好きなの?」

その袋の中身がローリングストーンズの「レット・イット・ブリード」であることに気付いた僕が彼女に掛けた第一声だった。

 「どんな音楽かなんて知らないわ。お父さんが持っていたLPレコードが通りがかりの店のショーウィンドウに飾ってあったから買ってみただけ。多分このレコードを聞くことはないかもしれないわ。だいたいレコードプレーヤーを持ってないし。可愛いジャケットだし、懐かしかったから、自分の部屋に飾ってみようかなって。このレコードを知ってるなら、どんなのか教えて欲しいわ」彼女は突然、僕に声をかけられたことは気にしない様子で、何かの知り合いであるようなきっぱりとした態度で答えた。

 「ちょうどその音楽を、このウォークマンで聞いていたところなんだ。僕が聞いていたのは、ボブ・ラディックがリマスタリングしたCDを取り込んだもので、LPの音とは違うけど」僕は胸ポケットに入っていたSONY製のウォークマンに表示されている同じジャケットの画像をちらりと見せた。

 「このケーキのアルバムジャケットと中身はだいぶ違うね。全然可愛くないし、ポップでもない。最近のロックとも違って古いものだから、ロックといっても君が想像するものより暗くて、チープに聞こえるかもしれないね。「レット・イット・ブリード」というタイトルには合っていると思うけど」

 「…そうなのね。お父さんが持ってたからポップミュージックかと思ったけど、違うのね。ポップミュージックが「レット・イット・ブリード」なんて洒落てるなと思ったんだけど」

 20代に見える彼女にその音が想像出来たとは思えなかったが、思わず声を掛けてしまった割に、会話が成り立ったことに僕は満足感を感じていた。

 「でも不思議。うちのお父さんは古いロックはあまり聞いていなかったの。レコードプレーヤーとLPレコードはもちろんあったけど、ほとんど普段はトートーとか、ワムとか、キラキラしたのを聞いてた」僕はTOTOがトトであることを訂正しなかった。

 それから数ヶ月、連絡先を交換した僕らは事あるごとに音楽についての近況報告の連絡をし合っていたが、「レット・イット・ブリード」だけでは二人の関係は縮まることはなく、ぎこちないまま、時が過ぎた。

************************

 「ねぇ、お父さん」

 彼女は久しぶりに帰った実家のソファーで雑誌を読む父に声をかけた。彼女は眼鏡をかけていない。家の中では眼鏡を外すのが彼女の習慣だった。

 「やっぱり館山は私の市川の部屋からだと遠いわね。マイカーでもあれば、もう少し楽に来れるのだろうけど、電車だと乗り換えもあるし、時間もかかるわ」

 とは言いながらも、彼女は、この実家のリビングが好きだった。自分の住む2LDKの賃貸アパートもこじんまりして好きだったが、天井も高く、スペースのあるこのリビングには負けるのだった。

 父は大学卒業後に入社した会社を定年まで勤め上げ、その後、契約社員として会社に残っていたが、二ヶ月前に雇用延長をやめ、自宅で過ごし始めていた。その日は父が、久しぶりに妻なしで過ごす時間を堪能する日であったため、急に帰ってきた娘に戸惑いながらも娘を邪魔扱いすることもなく、とはいえ、いつもの通り、雑誌から目を離さず、彼女の話を聞いていた。

 「そういえばね。この間、と言っても、だいぶ経つけど、「レット・イット・ブリード」っていうレコードを手に入れたの」

 父は一瞬、目の端を吊り上げたが、そのまま気にも留めない様子で空返事をした。

 「「DISK UNITED」って知ってる?店の前を通りかかったら、お父さんの二階の書棚の横にあったレコードが飾ってあったから買ってみたの。可愛いくて懐かしいなあ、と思って。まだ封は開けてないんだけど」父はそのまま返事もせずに雑誌を読んでいた。沈黙が続いた後、彼女は言った。

 「お父さん、私、何かしたかしら?いつものお父さんじゃないみたい。何か気になる事があるなら言ってよ」彼女はイライラしながらも、良からぬ雰囲気にちょっとした怯えも感じていた。

 「あのな、お父さんは「レット・イット・ブリード」が好きじゃないんだ。一曲目の「ギミ・シェルター」のイントロだけでも嫌なんだ」

 「一曲目はタイトル曲じゃなかったかしら」

 「あのレコードジャケットに書いてある曲順は、収録順ではないんだ」父は裏ジャケットに記載のある曲名について話した。裏ジャケットでは、表面に描かれていたケーキが落ちて崩れている。

 「お父さん、何を怒っているの。何か気に触ることがあるなら言ってよ」

 しばらく父は考え事をした後、思い口を開いた。その語り口は重くゆっくりしたものだった。

**********************

 父が「レット・イット・ブリード」を手に入れたのは1976年頃だった。父はすでに学生ではなく、社会人として懸命にかつ、それでいて心穏やかに生活をしていた(しかしながら、どこな物足りなさがあったかもしれないというのも否定できない)。ある休日、下北沢の街を歩いていたところ、レコードショップに飾ってある可愛いアルバムジャケットに惹かれ、そのレコードを購入した。

 その日は晴れて気候も穏やかで、何か心機一転したいような気分でもあり、目新しいものがあれば飛びつきたい気分だった。音楽を自分で買うなど久しぶりのことであり、学生時代にサイケデリックな音楽が流行り始めてからは、ロックを聞かなくなっていた。学生の頃、ラジオからは、ビートルズやバーズなどの曲と一緒に、ローリング・ストーンズの曲も流れていたはずだが、このアルバムの曲が流れていたかどうか、記憶は定かではなかった。

 「一曲目に針を落としたら、不穏なアルペジオが聴こえてきてね。どこか血の匂いがするようで、それだけで、もう嫌だったんだ」

 父によれば、1969年の学生運動真っ盛りの中、父は大学に行くことはなく、アルバイトをして過ごしていた。そこでは男女関係なく、不可思議な出会いがあり、そこでは社会倫理的に心苦しいことも行った。

 「若気の至りで済むようなことではなかったと思っているんだ」父は伏し目がちに言った。

 「このアルバムはちょうどその頃に発売されたもので、ここに含まれている音がその頃を思い出させるんだ」同じ理由で、彼は映画「タクシー・ドライバー」も観ていない。

「そんな訳で「レット・イット・ブリード」については、お前に話が出来ないんだ」

*********************

 彼女と連絡を取り合わなくなってから一年近く経った頃、彼女から連絡が来た。着信と共に表示された名前を見ても、顔を思い出すのに少し時間がかかった。彼女は久しぶりに父に会ったとのことであった。彼女は父から聞いた「レット・イット・ブリード」の話を聞かせてくれた。

 「お父さんはお母さんに出会ってからは、お母さんの好きなキラキラした80年代ロックを好んで聴くようになったそうなの。お父さんが「レット・イット・ブリード」と口にする時のどこか視線を逸らすような仕草が凄く、気になったわ。でも、80年代のトートーの話をする時のキラキラした目を見ると、「レット・イット・ブリード」のことは触れないことにした方が良さそうだったわ」

**********************

 彼女も父と同様、「レット・イット・ブリード」を聴くことも、部屋に飾ることもなく、「レット・イット・ブリード」は今も書棚の端に立て掛けたままであろう。

 彼女の父の思い出とは何だろうか。

「レット・イット・ブリード」は血の匂いがするだろうか。 

 彼女の話を聞いて以来、僕はこのアルバムを聴くときに、いつも思う。

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