絵に描いた餅月さんは頭隠して胸隠さず
小学生の時、目の前で女の子が倒れた。
ピクピクと痺れた魚のように動いては白目をむいているばかり。
俺は足が動かず、ただ足下の彼女を見下ろすばかりだった。
彼女は大事に至らずに済んだが、俺はその光景が未だに忘れられずにいた。
「──大丈夫か!?」
病室の大部屋。カーテンを強く開けた先にはフガフガと湯飲みから入れ歯を取り出すお婆ちゃんがいた。
「詠太くんコッチコッチ」
「えっ!? あっ、すみません……!!」
カーテンを閉め、手招きのまま一番奥の窓際のベッドへと向かう。慌て浮き足立っていた気持ちは既に落ち着き、元気に笑う彼女を見て俺は笑顔で手を振り返した。
「大丈夫なのか? 急に倒れたって聞いたから」
「うん。部活中に、ね」
「小学の時と同じなのか?」
「うん。そうみたい……ゴメンね、心配かけて」
「いや、由真が無事で安心した」
由真が小学生の時に倒れた時は、原因不明と診断され、経過も特に悪くなく、精密検査でも異常が無かった為そのままだった。
あれから五年経ち、また倒れたと聞いたときは頭が真っ白になった。
「先生はなんだって?」
「んー、これから検査するって。ただ、暫くは入院かも。けっこう大掛かりに検査するみたいだから」
「そっか……。原因、分かるといいな」
「うん」
由真は悲しそうに外に視線を移した。俺もそれにならうように外を見た。遠くの方でツバメの群れが飛んでいた。
「じゃ、また来るよ。プリントとノート、持ってくるから」
「ありがと。読める字でお願いね」
「……お、おう」
1階のロビーで紙コップの自動販売機を見付けた。イチゴミルクが欲しくなり、100円玉を入れた。
(無事で良かったけど……やっぱり心配だ)
ロビーには、俺と同じような見舞客が数多く居て、皆が複雑な顔をしていた。
「うわ……ホットだった」
熱々のイチゴミルクを持て余し、自転車を置いた駐輪場へと歩く。外から由真の居る病室の窓が見えた。
「そう言えば来るとき電柱とぶつかったんだっけ……」
歪んだ前輪。熱々のイチゴミルク。
俺は仕方なく自転車を押して帰った。
「ノート。後プリント二枚。よく分からん奴はお袋さんに渡したから」
「ありがと」
三日後、由真にノートとプリントを届けに行った。
由真はノートに漫画を描いていた。
「時間だけはあるからさ。いっぱい捗りそう」
「昔から漫画描くの好きだったもんな」
「詠太くんも描いてみる?」
「俺は読み専。で、先生はなんだって?」
「今日はMRIと血液検査。明日は……なんだっけ、なんたら検査とかんたら検査」
「おいおい」
「忘れちゃった♪」
「こら」
おどけてみせる由真に拍子を合わせた。一頻り笑った後で、窓の外にツバメの群れが飛んでいるのが見えた。
「明日は数学無いから置いていくよ」
「明日も来るの?」
「ああ」
「ダメー。大変だから週に……2回! いや3回!」
「はいはい」
俺は笑って大部屋を去ったが、ロビーでイチゴミルクを待つ間はとても穏やかとはいかなかった。
二度目の発作。もしかしたら由真にとんでもない病気が見つかるかもしれないと思うだけで、胸がはち切れそうな程苦しい。
冷たいイチゴミルクを持つ手は、心なしか震えているようにも見えた。
「歩いて帰るか……」
名残惜しい。由真の病室の窓を見上げても、虚しさばかりが募るだけだった。
土曜日、俺は面会時間早々に由真の病室へ向かった。
「まだ朝ご飯食べてるってば~」
「ごめんごめん」
カボチャの煮付け、白身魚、それとご飯と里芋の入った味噌汁。由真は物足りなさそうにそれを食べていた。
「……ポテチが食べたい」
ボソッと。それでいてハッキリと聞こえるように、由真は露わに声を発した。
「買ってくるか?」
「ダメだって先生が」
「ダメなのか?」
「何が原因か分かるまで病院食以外口にするなって……」
「おやつ抜きか。それは辛いな」
リュックに入れてきたチョコクッキーの差し入れは、どうやら俺の胃袋に収まる定めのようだ。
寂しげに朝飯を終えると、由真は通路にあった配膳カートへお盆ごと片付け、漫画のノートを取り出した。
「今は何描いてるんだ?」
「んー、ナイショ♪」
「目の前に出しといてそれは──」
と、俺の傍へ、由真のベッドを覗き込むように看護師さんが微笑みながら現れた。
「餅月さん。私、お邪魔虫してもいいかしら?」
「あ、どうぞどうぞ」
少し意地悪そうに、看護師さんが後ろ手に持っていたバインダーを取り出した。
「今日の検査は食後すぐなの。ゴメンね」
「あ、すみません……」
「分かりました。詠太くん、ごめんね。借りてたノート渡しとくね」
「ああ。また来るよ」
由真は看護師さんに連れられ、病室を後にした。
その日はロビーもやや混み合っており、子どもが自販機の前でジュースをねだりごねていたので、そのまま帰ることにした。
日曜の夜。明日に備え鞄の中身を揃えていると、見覚えのあるノートが出て来た。
「由真の漫画ノートだ……あの時間違って持ってきちゃったのか」
これが無いと暇潰しも大変だろうに。悪いことをしたな。
「明日、病室に行くか」
と、昨日の昼間のこともあってか、由真のノートを興味本位でパラパラとめくって見た。始めの方には曲がり角でぶつかる少女漫画みたいな話が描いてあった。
「……前からコツコツ描いてるだけあって上手いな」
覗き見ているような罪悪感があったが、それよりも好奇心の方が勝った。
中程になると、シンデレラのような、貧しい少女の下へ現れる魔法使いになる話が描いてあった。
「ずいぶんと描いたな、これは」
ノートの終盤には、病室で泣く少女の話が描いてあった。思わずページをめくる手が止まった。
「……」
少女はある日発作で倒れ、いくつもの検査の末に難病指定の大病を患っていると宣告される。
少女は泣き続け、そして生まれ変わりたいと強く願った。
そしてある日、少女の願いが天に届いた。
少女は生まれ変わった。
髪は綺麗なウェーブがかかり、胸はIカップ。そして左腕には業務用のラップの芯を身に付け、元気にポーズを決めていた。
「……なんだこれ? 飛躍しすぎにも程があるだろ」
ただ、登場人物の少女の名前には【ゆま】とハッキリ書いてあった。
「由真……」
なんだか盗み見た俺が酷く情けないような、見てはいけない由真の心の叫びを知ってしまい、どうして良いのか分からないまま、ノートを閉じた。
──月曜。クラスは騒然としていた。
「由真ちゃんいつ退院したの!?」
「餅月さん、その腕の……なに?」
「胸は!? 腫れてるの!?」
何度となく空見した由真の席。何故かそこには人集りが出来ていた。
「あ、詠太くんおはよう♪」
「……え?」
俺は驚いた。何故か由真が座っていたのだ。
俺は更に驚いた。由真の右腕には大きなラップの芯が着いていたのだ。
「え?」
理解が追いつかない。
よく見れば胸が凄い膨らんでいて、今にもボタンがはじき飛びそうな程だ。
「詠太くん来て、来て」
呆ける俺をお構いなしに、由真は俺の腕を引いて廊下へと連れ出した。
「お、おい! その姿はいったい……!?」
昨日読んだ由真の漫画を思い出した。うっかり言いそうになってしまい、慌てて口をつぐんだ。
「へへ、実はねぇ……」
聞けば病室で眠った時に夢を見たそうだ。
病室で眠る自分を見下ろし、そして病院をすり抜け天へと昇っていく。そして目が覚めたときにはこの姿だったと言うのだ。
「マジかよ……」
「そ♪」
嬉しそうにクルリとその場で回る由真。
マジであの漫画のキャラに生まれ変わったと言うのか……? にわかには信じられない出来事だけど……。
「ね、ね。学校抜け出して遊びに行かない?」
「マズいって」
まるでねだるように、由真が左手で俺の袖を掴んで離さない。
「折角生まれ変わったんだからさ」
「分かった分かった……! ただ今日は何の準備もしてないから、明日な!?」
「オッケー♪」
俺の返事に気を良くした由真は、走って廊下の奥へと行った。
「どこ行くんだ!?」
「ナイショ♪」
そのまま由真は教室へ戻る事は無かった。
一連の出来事をまるで不思議に思った俺は、帰りに病院へと向かった。
「個室に移動?」
「ええ。ただ昨日から面会出来ないみたいだから、ごめんなさいね。要件なら伝えておくよ?」
「いえ、大丈夫です……」
ナースステーションで由真が個室に移動した事を知った。
由真が居るであろう個室の扉には『面会謝絶』の札がかけてあった。中は電気がついていて、人は居るようだったが、由真の様子までは分からなかった。
「あ、あの……餅月由真はそんなに具合が悪いんですか?」
通りすがりの看護師さんに、声をかけた。
看護師さんは扉の壁にある名札を見て、そっと静かにロビーへ行くよう指で合図を出した。
「良くもなく悪くもなく、かな」
「じゃあ何で……」
面会謝絶の札について問いかけようとすると、看護師さんは申し訳なさそうな顔をした。
「守秘義務があるから」
淡と言い切るように、寂しそうに声を出した。
そしてすぐにナースステーションへと歩き出した。
「なんなんだ……」
イチゴミルクを待つ間、ずっと良く分からない感情との付き合い方を思案し続けた。
しかしそれは自宅前に到着しても、答えらしい物は出やしなかった。
「由真の家に行くか……」
自転車をこぎ出し、由真の家へ向かった。
インターフォンを押す指が、ボタンに触れた瞬間。家の中から何かが聞こえた。
「……ぅ、ぅ……!!」
それは由真のお袋さんが泣く声だった。
夕時の蝉の声の合間合間に、すすり泣くような声が聞こえてくる。
とても由真について聞くような状況とは思えず、押し込もうとしていた指先を引っ込め、自宅に向かって自転車をこぎ出した。
夜。俺は由真の漫画ノートを取り出した。
あの話には続きがあった。
「……」
静かなる部屋に、ページをめくる音だけが染み渡ってゆく。
生まれ変わった少女は、遊園地へ行ったり、ファミレスで好きな物を食べまくったり、ずっと気になっていた映画を観て、そして夜に歩道橋の上から滑り落ちるようにして、その命を絶った。
「なんだよこれ……」
俺は戸惑いと不安で手が震えて止まらなかった。
「なんなんだよこれ!!」
震えを止めることが出来なかった。
「どういう事だよこれは!!」
夜の窓ガラスに自分の姿が映り、そこで初めて俺は自分が怒りに震えている事を知った。
「……これで終わりかよ」
その後のページには何も描かれてはいなかった。
俺はノートを閉じ、体を投げ出すようにベッドへ倒れ込んだ。
気が付けばそのまま朝になっていた。
「……見えてんぞ」
「おろ? 見つかっちった♪」
火曜、家の前で物陰に隠れている由真を見つけた。器用に隠れたつもりでも、デカい胸がハッキリと存在を主張していた。
由真は相変わらず右腕に巨大なラップの芯をはめていて、何のつもりかは知らないが大層気に入っている感じが見て取れた。
「ねーねー。どこ行く?」
「行くの前提なのな」
「昨日約束したじゃん?」
「まあ、そう……だけどさ」
あの漫画のラストが頭の中でチラつき、とてもそんな気分にはなれなかった。
「まあ、行かないなら一人で遊びに行こうかな~♪」
「おいおい」
俺は仕方なく由真とサボりを決意した。
「それ、取れないのか?」
右手に深々とはめられたラップの芯を指差す。通りかかる人の多くがそれに注目してやりにくい。
「取れなくなっちゃって……へへ」
「何やってんだよ」
「ううん。いいのいいの」
「俺が良くないっての」
無理矢理外そうとする俺の手をかわし、由真が朝のファミレスへと駆け込んだ。
24時間営業の、それも私服姿の俺達を怪しむ事も無く、店員はいつもの笑顔で俺達を席へと案内を始める。
「病院食以外食べちゃダメじゃなかったのか?」
「ううん。もう大丈夫」
そう言って、由真はタラコスパゲッティとピザを注文した。
「朝から良く食えるな」
「うん♪」
朝食を終えていた俺は由真のを一口貰い、その旨さを褒めた。
「へへ、この映画ずっと気になってたんだ」
その後映画も観た。
「アーム激弱っ! こんなもん取れるかい!」
ゲーセンでも遊んだ。
「あれいいなー」
「いち、じゅう、ひゃく、せん……三十万!?」
「買ってって言ったらどーする?」
「買えるかっ!!」
冷やかしでジュエリー店にも行った。
「あ……もうこんな暗い」
そして気が付けば夜になっていた。
「あー、楽しかった」
「ああ」
俺達は駅通りの歩道をゆっくりと歩いている。
あの漫画ではこの後……ゆまは歩道橋から落ちて死んだ。
「さて、この後どうしようか?」
「……」
笑いながら、その足が歩道橋の階段を踏み出した。
俺はいつでも止められるように、すぐそばに居る。
「お泊まりでもしてみる?」
「流石にそれは……」
由真がクスクス笑いながら階段を上ってゆく。
そしてゆっくりと、歩道橋の真ん中へ──。
「ね、あのさ……」
何か、覚悟を決め損ねるような、悲しそうな顔がこちらへ向けられた。
「もし──……ぅ」
「──危ねぇ!!」
由真の体が突然、力無く倒れ始め、俺は慌てて手を伸ばし支えに入った。抱き寄せるようにして受け止め、ぐったりとする由真の様子を見た。
「おい! しっかりしろ!!」
「……ぅ、ぁ」
由真の顔にまるで血の気が無い。
倒れた拍子に取れたラップの芯。それまで隠れていた右手の手首には、包帯が巻いてあった。
「由真!! 由真!!」
ゆっくりと、由真の虚ろな目が俺を見た。
「死な……せて、よ……最後くらい……さ」
「アホか!! 今救急車呼ぶからな!!」
「やめ……て」
「ぜってぇ死なせねぇからな!! 最後はハッピーエンドにしてやる!! 俺があの漫画の最後を変えてやるからな!!」
「……フフ」
最後に薄ら笑いを浮かべ、由真は目を閉じてしまった。
「由真ッッ!!!!」
救急車に乗り込み、由真と一緒に病院へ。後から由真の両親もやって来て、事の経緯を聞いた。
由真は難病指定にも入るほど、難しい病気を抱えていた。
手術しても治る見込みは二割以下。
手術しなければいつ死んでもおかしくない。そう言われたらしい。
手術前に、三日間だけ自由を貰った由真は、生まれかわったと偽って俺の前に姿を見せた。
どうやら由真は病で死ぬくらいなら、と自殺を決意していたようだ。
だが、病はそれすらも許してはくれなかった。
「──先生!」
「手は尽くしました。後は……彼女次第です」
夜明け、個室へ運ばれた由真は、それ以降面会謝絶となり俺も会うことは出来なくなった。
学校をサボった俺は、少しだけ怒られた。
「……」
部屋で一人、静かな時間を過ごす。
土曜日にもかかわらず、俺の予定は特には無い。
由真のノート。その最後を変えるなら、今しかない。
俺は机に向かい、そっとペンを走らせた。
「詠太! 由真ちゃん目が覚めたって!!」
丁度最後を書き換えた頃、吉報が入った。
俺は泣きながら自転車を飛ばした。
「ごめんなさいね、検査とか色々とあるから」
「で、ですよね」
泥んこの草まみれで病院に着くと、看護婦さんに笑われた。
どうやらすぐには会えないらしい。
母よ、そういう事は先に聞いて欲しいぞ。
「何か伝言があれば伝えるけど?」
「じゃあ、これを」
俺は由真のノートを看護婦さんに託した。
「──よっ!」
大部屋の一番奥、見慣れた光景の先に由真は居た。
「キャッ!」
「あ、悪ぃ!」
カーテンを開けると、由真が丁度着替えている所だった。これは完全に俺が悪い。
Iカップとラップの芯は幻として消えたが、それはそれでいい。
「もう一人で着替えられるくらい良いのか?」
「目が覚めたら二週間経ってましたからね。軽く浦島太郎な気分ですよ」
「そりゃそうだ」
由真が倒れてから、また会えるまで一ヶ月近く掛かってしまった。
すっかり由真の具合も良くなり、主治医の先生も本気で驚いているようだ。
「ポテチ」
「ん?」
「ポテチ食べたい」
「良いのか?」
「まだダメだってさ」
悔しそうな由真の顔に、俺は溜まりに溜まったノートやプリントを突きつけてやる。
「見たくない」
「置いてかれるぞ」
「それは困る……」
「勉強も頑張らないとな」
笑う俺に、由真がはにかんだ。
そして、例のノートを引き出しから取り出すと、そっと後ろのページを開いた。
「それはそうとして……よくも最後を書き換えたわね?」
「いや、ほら……だって」
「結構上手に描けてたのにズブの素人がエイリアンみたいな最後を……!」
「いやいやいや、俺これ描くのにレッスン本まで買ったんだよ!? 褒めてよ褒めてよ!」
「……フフッ」
ノートに目を落とした由真が、そっと笑みをこぼした。
「フフフッ」
「な、なんだよ」
「三十万で満足する私じゃないからね?」
「ゲッ……!」
「本当のハッピーエンドは、これから見せてくれるんでしょ?」
「……ああ!」
歩道橋から飛び降りる夢を見た少女は、ある少年からプロボーズを受けハッピーエンドを迎えたのだが……由真はどうやらそれ以上をお望みのようだ。
「端から端まで宝石をガーッと!」
「強盗か!」
俺達の物語は、これからが本番だ。