7 エリ
夕食を食べ終わり外へ向かう。庭から見える月は満月で、なぜだか胸がざわついた。
「満月の日は、精霊が一年で一番魔力を持つんだって」
隣を歩くセルアが教えてくれた。生前わたしは学校に通っていたけれど、精霊のことは未知なことが多くてほとんど習わなかった。きっとこの知識は風の精霊であるセルアのお父様からのものだろう。
身近に精霊がいたら、色々と聞けたのに……。
「エリも魔力がみなぎってたりするの?」
「……そんなに変わらないわよ」
実をいうと、わたしは精霊としての力をいまいち使えないでいた。エスト男爵邸の客室で少し練習をしたのだが、どうしたら魔術的なものが使えるのかがよく分からない。昨日鉄格子を通り抜けられたのも正直記憶がぼんやりとしているのだ。
はっ! と声を上げて空中に向かって手を突き出して特訓していた自分がふと思い出されて急に恥ずかしくなる。つい不愛想な返事になってしまったが、セルアは気にしていないようで「ふうん」と頷いていた。
「幽霊、見つかるといいね」
「わたしは幽霊なんていないと思うけどね。セルアが楽しそうだから一緒に探すわ」
こんな発言をすると楽しそうなセルアに水を差してしまうかもしれないとは思うが、冷静になって考えてみてほしい。わたしは一度死んでいるのである。今となってはどうでも良いけれど、死ぬ瞬間は未練もあった。そのわたしが大人しく精霊として生まれ変わっているのだ。わたしは実体験をもってして幽霊など存在するわけがないと言っているのだ。
庭に出る。
頭上には丸い月がある。月を見ていると、頭がゆっくりと冴えてくる。
――何かの気配を感じる。誰かに見られている。
「それでは、倉庫に行きましょうか」
「うん」
夜入ることを想定されていない倉庫の中は、当然真っ暗である。窓を開け放ち、メイドが火の灯ったランタンを隅に置いて行く。長く伸びた影が壁に投影され、それだけで軽い肝試しのような雰囲気が出来上がっていた。セルアだけでなく家主のメリッサも及び腰である。
カタカタ カタカタカタ
「エリ様、い、いかがですか? 何か感じますの?」
「何か嫌な気配は感じるわ」
「エリ、幽霊なんていないってもう一回言って」
「セルア。怖がらなくても幽霊なんていないわ」
2人が真っ青な顔をする理由は分かる。ついでにメイドも青ざめて固まっている理由も。
カタカタカタ
「じゃあこの音なに!? ねずみ!?」
「せ、セルア様! 我が屋敷に害獣などおりませんわ……!」
メリッサが震えながら反論する。
「じゃあホントにこの音は何!?」
カタカタと何かが震える音は続く。音源はおそらく、暗闇の中だ。
セルアとメリッサは震えながら抱き合っていて楽しそうである。わたしも前は霊的なものは怖かったけれど、今は全然大丈夫だ。むしろ何が怖かったのか分からない。
――たとえ亡霊が出ても、わたしが焼き払ってあげるわよ。
「少し見てくるわ」
床に置いてあるランタンを一つ拾って、そのまま奥に進む。待っていればいいものを、セルア達もゆっくりとついてきた。
何かの気配を感じる。けれどそれはひどく薄っすらとしているのだ。一つずつ扉を開けていく。ガーデンパーティ用のテーブルが置かれている部屋。違う。椅子が置かれている部屋。違う。何か箱がたくさん積まれている部屋。違う。
一階には気配の正体となるものはない。カタカタという音は鳴りやまない。二階への階段を上る。
再び一つ一つ扉を開けていくと、正解の部屋にたどり着いた。気配云々ではなく、木製の小さな箱がカタカタと音を立てて揺れているのだ。「ひぃっ」とセルアの泣きそうな悲鳴が聞こえる。
セルアの誘拐犯には果敢に立ち向かうのに、ただの揺れる箱に怖がるところは少し謎だわ。
セルアとメリッサが恐る恐るといった様子で横に並ぶ。
「ちなみに、ここは3代前のエスト男爵夫人……曾祖母の使用していた家具をしまっている部屋ですわ」
「あ、開けるよ?」
セルアが箱を開ける。箱の中にはいくつもの宝石と一緒に細い鎖が巻かれた美しい銀細工の短剣が入っていた。青い色をした石がいくつか埋められており、儀式にでも使われそうな雰囲気を放っている。そんな、何十年も前のものとは思えないほどに光を放つ剣は意思を持っているかのように震えている。
「剣……?」
一目見て分かる。わたしが感じていた気配。短剣に巻かれていた細い鎖だ。この鎖は、誘拐集団に捕まったときにわたしを拘束していたものと同じものだ。
――気に入らないわ
心の中で誰かが言う。
同感だ。気に入らない。
指を伸ばす。鎖に触れると静電気が走るかのような刺激と共に指が弾かれた。指先が軽く痺れている。
「ぐぬぬ」
無理やり鎖を掴む。手と鎖の間に火花が散り、わずかに煙が出た。
「え、エリ! もう手離して……!」
「大丈夫よセルア! 負けないわよ……!」
キン、と金属が割れる音がする。しかし鎖は完全には壊れておらず、軽いひびが入っただけだ。手に痛みを感じて鎖から離すと、手の平が火傷をしたみたいに赤くなっていた。
「エリ様、大丈夫ですか?」
「そうだよエリ! 手が赤くなってる!」
「まったく高位精霊ともあろう者が情けないのですよ」
「そうですわ。情けな……あら?」
その場の全員が後ろを振り向く。
ランタンの灯りを反射するような艶のある銀髪の少年がそこに立っていた。全員が言葉を失くして彼を見つめる。なるほどこれは霊だと思っても仕方がないかもしれないと思った。どこか人間離れした美貌である。
「こんな日にその程度しか封印が解けないとは……。まったく口ほどにもないとはこのことです」
ただし美しいのは顔だけである。美形の鼻で笑うかのような仕草はとんでもなく癪に障る。海のように心の広いわたしを苛立たせたのだから大したものだわ。
「は? あんた何なのよ」
大口を叩くわりに近づくと飛び上がって逃げるようにセルアとメリッサのいるほうへ逃げていく。
「く、来るななのですよ! お前達は僕の封印を解きに来たのではないのですか!?」
「違うわよ」
気に入らないものがあったから触ろうとしただけよ。
「え!?」
勘違いするんじゃないわ。そんな気持ちで少年を見下ろすと、宝石のような瞳にうるうると涙が溜まる。
「ね、ねえエリ。そんなに強く言わなくてもいいんじゃない?」
「そ……そうですわ。幽霊さんもこうして泣いてらっしゃることですし……ねえ?」
人間の女二人で脇を固め、涙をひっこめた少年は顎をツンと上げて薄く笑う。絵にかいたような腹立たしい態度にわたしの頬は思い切り引きつった。
「あ、ちなみに僕は幽霊じゃないのですよ」
「あら、そうなのですか?」
「ええ。僕はミスフィル。宝剣ミスフィルの精霊なのですよ」
今さらながらにわたしは気が付いた。とんでもなく性格の悪いこの少年――ミスフィルの髪の色は剣に使われている銀と同じ色をしている。
しばらく誰もが何も言えなかった。幽霊探しの末に見つかった精霊。精霊自体はそう珍しい存在というわけではないけれど、さすがに野良猫が迷い込んでいたといった状態とはレベルが違う。さらに人語を操る精霊は少なくとも中位精霊である。セルアもメリッサも、メイドは言うまでもなく余計な事を言って機嫌を損ねることを危惧したのだろう。
――失礼しちゃうわ。このわたしを差し置いて。
「幽霊は見つかったわ。部屋に帰りましょう」
「はい!? 何を言っているのですか!? この由緒正しき精霊である僕を助けないとでも言うのですか!?」
お得意の涙目でこれまで何とかなってきたのかもしれないけれど、わたしには効かないわよ。人間だった時は同情していたかもしれないけれど、不思議なほど心動かされない。
「なんで見返りも無しにわたしがあなたを助けないといけないのよ」
「さっきは途中まで封印を解いたじゃないですか! あとちょっとで封印は全て解けるのですよ!?」
「その鎖が気に入らなかっただけ。今はあんたも気に入らないの」
ミスフィルは恨めしそうにわたしを見たが、一つため息をついて頷いた。
「この鎖が気に入らないことに関しては同意なのですよ。分かりました。それでは精霊としては未覚醒で赤子同然のエリさんを、精霊の先達として導いてあげましょう。……その代わり、きちんと封印は解いていくのですよ」
「いや頼んでないわ」
「解いていくのですよ!!」
なおも断ろうとすると、クイとセルアに袖を引かれる。眉が完全に八の字になってミスフィルに同情しているようだった。……この子が悲しむのはわたしも本意ではない。
「……分かったわよ」
「ふん。最初からそう言えば良いのですよ」
イラ。一発ぶん殴って逃げてしまおうか。そう思った瞬間に心臓が締め付けられるような痛みを感じた。
「……っ」
「エリ様っ、大丈夫ですの!?」
ふらついて壁に手をつく。そうだ。精霊は嘘をつけない。考えただけでこれだけ苦しいなんて。背を丸めて荒い息を吐くわたしの元へミスフィルがゆっくりと近づく。そっと手を伸ばし、手をわたしの額に当てた。ひんやりと冷たくて柔らかな子供の手だ。
「宝剣ミスフィルは、かつて儀式にも使用されていたのですよ。……とんでもなく情けない用途ではありましたが。それが理由かは分かりませんが、僕は人の魂の内側を見ることができます」
ミスフィルの手から、何か目に見えないものが流れ込んでくる感覚がある。トロリとした感覚のそれは何とも言えず嫌な異物感を覚えた。振り払うほどではないけれど全身に鳥肌が立つくらいには嫌だ。
「ふむ。分かったのですよ。精霊としてのお前と、人間としてのお前が分かれています。生まれたての精霊がよくかかる病気のようなものなのです。大抵理由は一つなのですよ。……お前にはまだ名前がないのですね」
じいっとわたしの目を射抜くのは青い瞳だ。作り物のガラス玉のようにも見える。
「わたしの名前はエリよ」
「それは人としてのお前の名前なのです。僕が言っているのは、精霊として生まれたお前の名前のこと。精霊としてのお前の名前は何というのですか?」
精霊としてのわたしの名前。身体中が熱い。燃えてしまいそうな気さえする。ミスフィルから流れ込んでくる気持ち悪い感覚を遥かに超える熱。熱くて死んでしまいそう……!
――熱で死ぬわけがない。だって、わたしは。
どろり。身体の底から熱い何かが溶け出してゆく。
「皆ッ! 逃げるのですよ!」
慌てたようなミスフィルの声が遠くに聞こえた。