2027年11月26日、金曜日 06:30~
「なっ? はぁっ? 」
驚いて立ち上がった拍子に、傾いたマグカップから零れたコーヒーがデニムの膝を濡らしたが、自分一人しかいないはずの室内で、いきなり得体の知れない他人の声がしたのだから、そんなことを気にしている場合ではない。
「だ、誰っ!」
密かに研究室に入り込んで、大切な朝のひと時を邪魔する不届き者の姿を確かめようと辺りを見回した。
ところが、
(誰もいない? )
数秒待ってから、
「おいっ! 」
と、声に幾分凄味をきかせて呼び掛けてみた。
「・・・」
再び数秒の間を置いたが、何の反応も無い。
もっとも、不審者や泥棒の類いなら返事をするわけがないし、よくよく考えてみれば、ここは人一人が隠れられるスペースも無いほどに狭い研究室の中である。
ソファの裏側やテーブルの下にも人が潜めるような余裕はない。
(幽霊? )
こんな時に、誰もが真っ先に頭を過る言葉だが、
(いやいや、それは無いって。)
私はそんなモノを信じてはいない。
(誰かの悪戯? )
お調子者の学生が私を驚かせようとして、タイマー付きの音声デバイスを仕掛けたのかもしれない。
そんなことをしそうな馬鹿な学生には複数の心当たりがある。
そこで、手近にあるクッション、応接テーブル、ソファの下などを確かめていたら、
『・・・ア・タ・・・・イタ・・・カ・・・ 』
再び先ほどと同じ声が、今度は、近いどころか耳元で聴こえた。
「なーっ! 何っ! 誰っ!? 」
驚いた私は、手にクッションを握りしめたまま、ソファと応接テーブルの間の床で無様に尻餅をついてしまった。
そこへ、殆ど間を置かず3度目の声。
どうやら、それは私への問い掛けらしかった。
『キミハ・・・イキタイカ? ・・・イキテイタイカ? 』
今度は耳元ではなく、少し離れたところから、部屋全体に届くほど、ハッキリと聞き取れるボリュームで聴こえた。
声の主の気配は確かに室内にある。
だが、見える姿を持つモノは何もいない。
その声は何も無い室内の中空から聴こえていたのだ。
(考えたくはないんだけど、これってマジ幽霊? )
そういうモノの類であるとは意地でも思いたくないのだが、そうでないとしたならば、この状況はわけが分からない。
(幽霊なら、どうせ半年後にはそっちに行くんだから、日を改めて声を掛けてくれないもんかな? )
異常事態の中で、そんな呆けたことを考えていられたのは、幸いというべきなのか何なのか、こういう事態に遭遇したら、まずは身の危険や恐怖を感じそうなものだが、不思議とそれが無かったことにある。
これには全く根拠は無いのだが、その声の主が私に対して害意を持っていないことと、私に直接手を出せなさそうなことだけは直感できていた。
『・・・イキタイカ? ・・・イキテイタイトオモワナイカ? 』
少し声のトーンが変わったが、同じ内容の問い掛け。
今度もハッキリと聞き取れるボリュームであり、これが2度続いたことで、声のディテールが掴めた。
(生な音声じゃないぞ。)
よく聞けば、微かなノイズが混じっていて、無線機のような機械的なフィルターを通した声のようである。
それが、どういう仕掛けで中空から聴こえてくるのかは分からないが、どうやら超常的な現象ではなさそうだということが分かったので、少しだけ落ち着いた。
(ところで、)
声の主の正体を確かめることも大事だが、
(こいつの話って、昨日の余命宣告に絡んでるんだよな? )
病院関係者以外は未だ誰も知らないはずなのに、この声の主はそれを知った上で問い掛けているようである。
本人でさえ告知されてから未だ一日も経っていない、生き死にに関わる重大な個人情報を、いったい何処で手に入れたというのか?
(悪戯だとしたら、ずいぶん悪趣味だろう! いったい誰なんだこいつ? )
何処ぞで違法に仕入れた個人情報を使って、手の込んだ仕掛けを用意して、悪戯を仕掛けてくるような奴。
(ストーカー? 変質者? サイコパス? )
さすがに薄気味が悪く思った。
さらには、余命宣告された者に対する問い掛けの内容が馬鹿げている。
(イキタイカ? だって? )
私でなければ、死の恐怖に震える普通の感受性を持つ者ならば、おそらく激怒してしまうに違いない悪質な問い掛けである。
それに、こんな質問をされたら自殺願望者でもない限り答えは決まっている。
「そんなの生きたいに決まって・・・?! 」
口にしかけた言葉だが、途中で飲み込んだ。
それと同時に右のこめかみの辺りに、一瞬刺すような強い痛みが走った。
言葉を飲み込んだのは、そのまま続けたら、まるでお芝居の台本に書かれた陳腐な命乞いになりそうだったからであり、これを最後まで言い切ってしまったら軽薄この上ない台詞に聴こえてしまいそうで咄嗟に思い留まったのだが、それと同時に生じた痛みは迂闊な言葉を発しようとした私への警告のように感じられた。
(それじゃあ、何て答えるべきなんだよ? )
分からなかった。
言葉に詰まってしまった。
昨日から飛び飛びではあったが、一応自分自身の余命について思いを巡らせてみてはいたが、そうした中で、「生きていたい」とか、「誰か助けて」などの切実な感情の籠った言葉は全く出てきていなかった。
(生への執着が薄すぎるのか? 生きることへの関心が薄いのか? )
癌でなければ半年より先も当り前のように生き続けているだろうが、いきなり半年後に終点を設けられてしまった現実を前にして、
「限られた期間内で周囲に迷惑を掛けず、自分を適切に終わらせるには、どうしたら良いだろうか? 」
などと、その段取りばかり考えている。
だから、『生きたいか? 』と聞かれて、「生きたいです! 」と答えるのが、私の本心になるのかどうか分からなくなり、首を傾げてしまった。
(自分のことなのに、なぜ私はハッキリと答えられないんだ? 私の本心はいったい何処にあるんだ? )
声の主が何処の何者かは知らないが、おかげで私は朝っぱらから自らの離人性とか変人的性質などを自覚させられ、これに向き合わされてしまったようだ。
『コノママシンデモイイノカ? ソレガホンシンナノカ? ソウスルベキダトオモウノカ? ココロガクルシクハナイノカ? マチガッテイルトオモワナイノカ? 』
少しニュアンスを変えながら、尚も声の主は私の心にザクザクと突き刺さるような問いを連続して投げ掛けてくる。
こんな得体の知れない相手と真面目に問答するのも馬鹿々々しいのだが、考え無しで口から垂れ流すテンプレのような台詞は、自分が納得できていない以上、絶対に口にしたくはない。
(まともな答えを考えて返したい! )
これでは相手の思う壺に嵌まってしまっているようなものだが、この異常事態に中にあって、些か平静さを失いつつある私に、それを考える余裕は無かった。
『カンタンニシヲウケイレラレルノカ? イマガイクベキトキナノカ? 』
それにしても、短い言葉の羅列ではあるが、いちいち人の心の動揺を狙った意地の悪い問い掛けが続く。
これら一連の問い掛けには、私に死への怖れや嘆きのような感情を呼び覚まそうとする意図が感じられるが、
『コウカイハナイノカ? コレハ、ホントウニオマエノジンセイナノカ? 』
(こいつ、私が感情的になって無様に泣き出すようにでも仕向けているのか・・・ )
何度問い掛けられようが、そういう類の感情が湧き上がってくることはない。
(まったく、無駄なことを・・・ )
決して私の精神構造が人として正常であるとは言わないが、相手を黙らせるためには、それを示してやらなければならない。
そう思って口を開きかけた時、またもや右のこめかみがキリキリと傷んだ。
(いっ、痛ぅっ・・・! )
先ほどは一瞬だけだった痛みが、今度は収まらない。
まるで鋭い針の先端をジワジワと刺し込まれるような激しい痛みが離れない。
右手で痛むこめかみを押さえながら、ふと気づいた。
今、全く意図せずして、別種な感情、別種の意思が、私の心の奥底で疼き始めている。
それまで私の無意識化で封印されていた何かが、繰り返される問い掛けによって鍵を抉じ開けられ、表に出ようともがいている。
(この痛みって、封印が抉じ開けられる痛み? )
いったい何が表に出てこようとしているのか?
実態は掴めないのだが、その正体を知ろうとする行為は、どうやら私にとって凄まじい重圧であるらしい。
いつの間にか額や背中に冷や汗が噴き出し、握りしめた手のひらも汗でびっしょりになりながら微かに震えている。
まったく収まろうとしないこめかみの痛みと共に、心臓が激しく警鐘を打ち鳴らし、全身に鳥肌まで立っていた。
これらは全て、封印が開き切って、その中にあるモノの正体を知ったとき、私は精神が壊れるほどに辛く苦しい目に合うかもしれないとの得体の知れない予感に因るものであるらしい。
(これまで封印されていたなら、封印しなければならない理由があったはず。それを開放することは私にとって自殺行為になるかもしれないし、これ以上、封印の扉が開かないように、こんな問答はさっさと終わらせてしまえばいい! )
時間の猶予を与えれば、いずれ封印の扉は完全に開き切って、私の心を疼かせる原因、その正体が姿を表すかもしれない。
そうなることに怖れを抱き、予感された苦しみから逃れたい、目を背けてしまいたいと思う自分がいる。
だが、これと並行して、
(一連の問い掛けに反応して封印が解かれるのなら、私が求める答えは、封印の中にこそあるんじゃないのか? )
と期待し、それが姿を現すのを待ちたいと思う自分もいた。
このまま、無手で問答を続けていたところで、テンプレではない、私が納得できる答えを言葉にして返せそうにはない。
声の主が、自分の意に沿う答えを得るために、私を精神的に追い詰めて心の封印を解こうとしているのならば、その目的が何なのかを知るためにも正体を掴むべきではないかと思うところもある。
だが、封印の扉が開いていくに連れ、その答えに伴われるであろう苦痛の大きさも徐々に伝わってきていて、そのおかげでジレンマが生まれる。
(それは、決して知るべきではないこと、知ってはいけないことなのかもしれないじゃないか。もし、それを知ったなら、私は猛烈な後悔と怒りと悲しみに苛まれ、正常な精神状態を維持できなくなるかもしれないんだぞ。)
そうなることを怖れる気持ちが、答えから目を背けて、元どおりに封印し続けるべく扉を閉じようとしていた。
『オモイダサナケレバナラナイコトハナイカ? ワスレテイルコトハナイカ? ダイジナコトヲ、オモイダスベキデハナイカ? オモイダサナケレバ、シニキレナイトハオモワナイカ? 』
私の心の葛藤に業を煮やしたのか、さらに重ねる問い掛けが、心の中へ強引に手を突っ込んできて、封印の中にあるモノを強引に掴み出そうとする。
(いったい、こいつは私に何を思い出させようとしているんだ? 私は何か大事なことを忘れているのか? )
声の主の思惑など知ったことではないが、浮かんだ疑問は解決したい。
そして、自分が納得できる明確な答えを見つけたい。
(そのためには、封印されていたモノの正体を知らなければならない! )
知ることに対する恐怖がある。
こめかみはキリキリと痛み続けている。
だが、それが何に起因しているのか知りたいという気持ちはある。
精神が壊されたとしても知りたい、知らなければならない。
既に気持ちは、その方向に傾いている。
あと少し、もう少しで、封印の扉は全て開く。
それなのに、
『イキタイノナラ、イキレバイイ! キミハイキナケレバナラナイ! 』
問い掛けではなく、強く言い放たれ、言い切られた一言。
それっきり、だった。
それっきり、声の主は去ってしまった。
まるで、時間切れにより途中で切断された通信のような、唐突な終わり方だった。
「生きればいいって? こっちは癌で余命半年なんだよ! もう決まってんだよ! 」
思わずカッとなって怒鳴ってやったのだが、その声が届く相手はいない。
初めの不明瞭な声が聴こえてから8分ほど経っていたが、結局、声の主が去ってしまったと同時に封印は再び閉ざされてしまったようで、せっかく、その気になりかけていたのに私が求めていた答えは得られずに終わってしまった。
「これでお終いかよ! ふざけるな! 」
元の静寂に戻った研究室。
私の耳に聴こえるのは、感情の高ぶりと共に荒くなった呼吸と、激しく脈打つ心臓の音。
(なんてこった! )
少し間をおいてから、私は、床に尻餅をついたままでいた姿勢から、這い上がるようにしてソファに攀じ登った。
いつの間にか、こめかみの痛みは消えていたが、その代わりに、
(うぉっ! 腰痛てぇ・・・)
身体の固くなった年寄りには辛い姿勢で長くい過ぎたようである。
「まいったなぁ、あいたたたぁ~っと、うぉっこらせーっ! 」
無様な呻き声と共に立ち上がり、ソファに座りなおした。
それからの時間、私は得体の知れない声の主によって解かれようとしていた封印の奥には何があったのか? 考え続けていたらしい。
始業のチャイムで我に返ったとき、真空断熱のマグカップの中にあったコーヒーはすっかり冷めていた。
そう言えば、声の主が去った後に、何故だか警備員を呼ぼうとか、警察に連絡しなければなどとは全く思わなかった。
そういう考えが、頭から抜け落ちてしまっていた。
得体の知れない声の主が何者だったのか?
その正体を探ろうとすべきだったのかもしれないが、そちら関係の思考はすっかり脇へ寄せられてしまっていた。
後に思えば、これは実に不自然なことだったのだが。