1990年11月28日、水曜日 02:05~
真夜中のサイクリングは、出発して10分ほど経ってから、空気の抜けた前輪タイヤがバタバタと地面を叩く音と共に終了した。
街中の燃えるゴミと燃えないゴミを一緒くたにしてばら撒いたような、荒れ放題に荒れた甲州街道を、不意に現れては進路を遮るギガマウスを間一髪で避けながら走っているうちに割れたガラスの破片でも踏んでしまったらしい。
BARのあった雑居ビルを脱出してから、初めは甲州街道を走っていたが、ギガマウスや事故車両や崩れたバリケードを避けながら路地を入ってクネクネと曲がっているうちに、自分たちが何処をどの方向に走っているのか分からなくなってしまったが、幸い危険地帯は無事に通り過ぎたようで、後を追いかけてくる化物たちの姿は見えなくなった。
後戻りしてはいないはずだし、向かう方向からはパトカーや救急車のサイレンの音が聴こえてくるし、目の前に中央自動車道の高架が見えるので八王子方面に進んでいることだけは間違いなさそうである。
「パンクですか? 」
10メートルほど先行していたアキラがUターンして戻ってきたので、
「ここらで一休みしていこうか。」
と、声を掛けた。
これにて状況終了。
そう考えても大丈夫と判断した。
お誂え向きに自動販売機もある。
「何か飲む? 奢るぞ。」
自転車をガードレールに立て掛けるや、精魂尽き果てたように歩道の縁石に座り込んだアキラが、自販機をチラ見して、
「ハイシーグレープ。」
と、弱々しい声で応えた。
もう疲れきってしまって、口を利くのも辛いと言った風に見えた。
「ちょっと待ってろよ。」
アキラが指定した銘柄を「なんだっけそれ? 」と考えながら、ポケットから小銭を一掴み取り出し、シャッターの降りたナントカ商店の前に置かれた自販機の前に立った。
(電話もあったら良かったのに。)
最優先事項として、アキラの実家に娘の無事を知らせてあげたい。
アキラは何も言わないが、今直ぐにでも両親と話したいに決まっている。
彼女の両親も娘の安否が確認できずに心配しているに違いない。
この店先には公衆電話のサインがぶら下がっているので期待したのだが、電話本体が何処にも見当たらない。
おそらくシャッターが下りた店内に置かれているのだろう。
営業時間外ではどうしようもない。
(まあ、良いさ。)
この時代、電話ボックスが沢山あったはずなので、この先で見つけられるだろう。
まずは、自販機で喉を潤せることに感謝することにした。
「おお、全品100円・・・安いじゃん!」
昨年消費税3%が導入されているはずだが、未だ自販機ではギリギリ100円玉だけあれば、事足りる時代だった。
(10円玉をプラスしなければならなくなったのは、いつ頃からだったかな? )
掌に乗せた小銭を確かめていたら、
「お、白銅製の旧500円玉! NIPPON 500 の刻印がある! 」
小銭収集の趣味は無いが、久しぶりに見ると現行(2027年)の500円硬貨よりも格調高く見えて、少しだけ感動して、ついつい見入ってしまった。
(ん? )
背中に視線を感じたので振り返ったら、アキラが変な顔をして私を眺めていた。
特に何も言ってこないが、自販機の価格や500円硬貨を眺めて一人でブツブツ呟きながら喜んでいる様子は、さぞ奇妙に思えただろう。
ひとつ咳ばらいをしてから気を取り直すと、500円硬貨とその他の硬貨をポケットに戻して、自販機には100円玉を2枚入れた。
「ハイシー、グレープ、と、あった。」
何となく名前に聞き憶えはあるが、黒字にブドウのイラストが描かれた缶のラベルには全く見憶えが無い果汁入りの商品を選んでボタンを押した。
商品が落ちてくる音がしたので、次に自分の飲み物を買おうとしたのだが、
チャリン!
釣銭口に100円玉が落ちてきた。
「え、連続して買えないのかよ? 」
思わず口に出してぼやいてしまったら、また背中に視線を感じた。
振り返らず、もう一回咳ばらいをしてから、釣銭口に落ちてきた100円硬貨を入れ直す。
「さてと。」
缶コーヒーでも買おうと思ったのだが、端から端まで見渡して、ブラックは無いし、微糖も無い。
「え、コーヒー甘いのばっかじゃん! 」
また、口に出してしまった。
振り返らなくともアキラがどんな顔をしているのか分かる。
さぞかし変な大人がいると思って、呆れ顔でこっちを見てるんだろう。
「もうウーロン茶で良いや。」
甘いコーヒーなど飲む気にもなれないので、残念ながらコーヒーは諦めることにして、自販機内で唯一の無糖飲料スリム缶を買って、アキラの傍に戻った。
「いただきます。」
よほど乾いていたのだろう。
アキラは受け取って直ぐ缶に口を付けると、ゴクゴクと喉を鳴らしながらハイシーグレープを飲み始めた。
私はアキラから少し距離を取って、
「よっこらせっとぉ。」
と、ガードレールに腰掛けた。
オジイサンみたいだとアキラは笑ったが、実は本当にオジイサンなのだからしょうがない。
「さぁ~てっと。」
さらにオジイサンっぽい掛け声と共にウーロン茶を一気飲みして灰皿代わりを作ってから、ズボンの尻ポケットでクシャクシャになっていた水色パッケージの煙草を取り出した。
子どもがいるので屋内では遠慮していたが、そろそろ良いだろう。
最近(2027年)、職場はもちろん、屋内は殆ど、自宅の換気扇下やベランダでさえも喫煙は一切できなくなってしまったので、正に受動的禁煙状態、1日に1本吸うか吸わないかになってしまったタバコだが、別に禁煙の意思は無い。
ほぼ煙突状態だった25歳当時、タバコは常に100円ライターと共に尻ポケットに常備されていた。
シュボッ! フーッ!
2027年では久しぶりのタバコなので、ついつい立ち眩みするかと思って煙を吸い込みながら身構えていたのだが勘違いだった。
この頃の私には精々数時間ぶりの一服だったようで、普通にニコチンとタールが疲れた身体に心地良く沁みていった。
「そんなに遠くに行かなくっても良いのに? 」
距離を取って喫煙を始めた私を見て、アキラが不思議そうにしている。
「だって、子どものいる傍で吸ったら良くないじゃん。」
それが2027年では常識なのだが、
「うちの父や母は私の前で普通に吸ってますよ。」
そう言われても、なかなか身についた習慣は変えられない。
禁煙できないのなら、せめて周りに気を遣えという煩い世の中で生きていたのだからしょうがない。
「あ、雨。」
アキラが呟いた途端、私の顔にも冷たい雫が一つ、二つと続けて当たった。
その数秒後には、付近の建物や街路樹がパラパラと音を立てるほどの降りに変わった。
「そこで雨宿りしよう。」
自販機が設置されているナントカ商店はシャッターが降りているが、ビニールの庇が張り出しているので、多少の雨なら凌げそうだった。
空になったウーロン茶缶に煙草を放り込み、アキラを立たせて庇の下まで移動した。
それから暫くの間、私もアキラも言葉を発することなく、深夜のアスファルトを濡らす雨粒をボンヤリと眺めていた。
誰かに、「いつまで、こうしているつもりか? 」と、聞かれても答えようが無かった。
雨は当分止みそうにないが、私もアキラも疲れ切った身体を冷たい11月の雨で濡らしたいとは思わなかった。
それに、何となく二人並んで立って雨を眺めている今の時間が掛け替えのないもののように思えてもいた。
「私たち、助かったんですね。」
長い静寂の時間が続いた後、アキラがポツリと呟いた一言が、二人の今の心境を表す全てだったと思う。
私はアキラの肩に手を掛けて抱き寄せると、
「うん。」
と、応えた。
生きている実感を味わうには、それで十分だと思った。
アキラも、それ以上は何も言わず、黙って私に身を寄せていた。




