プロローグ 彼方にて
そこは窓も扉も無い、一辺20メートルほどもある広々とした立方体状の閉鎖空間。
床も壁も天井も、全面が明るいパールホワイト一色で統一され、光源らしきものは見当たらないのに、どういう仕組みなのか人が活動するのに十分な明るさが保たれている。
まるで、その空間内に適度な光量が閉じ込められているかのようで、照明器具の類いを必要としない構造になっているらしい。
その空間の中央よりも幾分片寄った位置に、キラキラと輝く一個のオブジェがある。
床に置かれた歪な四角形をした薄い土台と、その四角形の頂点に当たる位置で垂直に立つ高さ4メートルほど、太さ20センチほどの円い支柱。
四角形1辺の長さは最大で1.5メートル、最小で1メートルといったところか。
隣り合った支柱と支柱の間には“梯子の踏ざん”のように細めの円柱が多数渡されているが、配置されている其々の間隔はバラバラ、角度も水平ではないので、梯子ではなく立体的に作られた “阿弥陀籤” のように見える。
ところで、このオブジェ、遠目では意味不明な電飾付き前衛芸術にしか見えないのだが、近くに寄って円柱の構造を注視してみると、それが極細の光学繊維を多数束ねて作られたモノであることが分かる。
そして、1本1本の光学繊維の中では、白い粒上の光が休みなく高速で走り続けているため、離れた位置からはキラキラと輝いて見えるのである。
オブジェを囲んで白衣を着た3人の人物が立っている。
彼らが、このオブジェの制作に携わった者たちであることは容易に推察できるが、その装いがアーティストではなく、理系の研究者然としていることから、オブジェが何らかの科学的な意図を以って、我々には到底及びもつかない未知のテクノロジーで制作された代物であることは間違いない。
そして、彼らが見つめる光学繊維の束とその中を走る光の粒には重要な意味があり、このオブジェが想像を絶する機能を有した装置であることも想像に難くない。
さて、オブジェを囲む3人、おそらく科学者? だが、彼らは現在、この装置を用いてのオペレーションを実行中らしい。
3人のうちの一人は、短く切りそろえた黒髪に黒い瞳、浅黒い顔色をした30歳代後半のヒスパニック系アメリカ人男性。
もう一人は、青い瞳にセミロングのブロンドヘア、透けるような白い肌が特徴の40歳代半ばのスラブ系ロシア人女性。
そして、3人目は彼らの中でもリーダー格であるらしい日本人男性だが、奇妙なことに彼だけは外見的特徴が、まるで掴めない。
そこに立って存在しているにも関わらず、視覚的にはピントの呆けたカメラで撮影した映像を見ているかのよう、感覚的には存在感が希薄であり、その年齢や容姿が全く掴めず、手を出して触れられる状態にあるのかさえも定かではない。
この3人、極度の緊張状態にあるらしい。
彼らが発散する、肌がヒリつくほどに深刻で殺伐とした空気が閉鎖空間内には充満しており、無関係な人間がこの空間を訪れたならば、言いようのない圧迫感と息苦しさを覚えるだろう。
そんな緊張状態と共に、暫くの間続いていたと思われるこの場の静寂を破ったのは、アメリカ人男性が放った深刻な言葉だった。
「只今の時点で、時間改変の波動は2030年を超えました。既に2029年までの歴史は一変してしまったようです。」
「波動が現在に到達するまでの猶予は? 」
ロシア人女性が投げかけた問いに、
「波動が我々の時間平面に到達するまで、通常時間速度に置き換えて約41時間。」
些か苦し気な口調で答え返すアメリカ人男性。
「先生! もう時間がありません! このままでは私たちの敗北です! 」
「私たちは負けるわけにはいかないんです! 今直ぐ対策に動きましょう! 先生! 」
アメリカ人男性とロシア人女性が口を揃えて先生と呼んだリーダー各の日本人男性。
彼は、一つ大きな溜息をついてから口を開いた。
「つまり、私の存在が完全に消滅するまで、あと2日も無いということだ。もう既にかなりの影響が出ているがね。」
彼は自分の顔を指さしながら、おそらく苦笑を交えて話しているのだと思われるが、その表情は暈やけていて全く掴みようが無い。
声の調子から察するに、この日本人男性、少なくとも60歳以下ということはないだろうということだけは分かる。
「つまり、197X年に行われた干渉によって、私の存在は失われ、私と共にあった本研究とその成果の全てが、41時間後には歴史から抹消されるということなのだな。
そして、君たちも私と出会うこと無く、全く違った人生を歩むことになるわけだ。
君たちのような優秀で魅力的な研究者との出会いが失われてしまうということについては、研究が失われること以上に残念だ。心の底から、本当に残念に思う。」
淡々と口にしたセリフ。
それは部下であり、教え子でもある二人への別れの言葉のようであった。
「先生! 何度も言いますが、まだ諦めるのは早いんです! 我々の干渉可能領域内に幾つかの接触可能な Singular Point があるんです! 」
「そうです! 既に各 Point の座標計算は終えていて、全てにアンカーを打ち込みました。いつでも双方向による Contact が可能にしてあります! 」
アメリカ人男性とロシア人女性の進言だが、彼らのリーダーはゆっくりと首を左右に振った。
「この研究所内に潜む複数の内通者により、私たちの行動が筒抜けになってしまっているという現状を君たちも理解しているだろう。これから私たちが接触しようとする Point は直ぐに敵の知るところとなり、忽ち対策を取られてしまうに違いない。それを阻むだけの力は、私たちには無いんだよ。」
「いえ、先生! 確かに1段階だけの干渉なら直ぐに感づかれて Point の座標を探り当てられてしまうでしょう。でも、複数の段階を経て、つまり複数の Singular Point を繋げるならばどうです? 敵にも解析する時間が必要になります。」
「そうです。我々が目的を果たすまでの猶予を十分に稼げると思います。技術的には何の問題ありませんし、既に実用し成功した実績もあります。やりましょう、先生! 」
「君たち、それはCommunication と Retroactive の連動か? また、あれをやるのか? 」
渋い顔をするリーダー。
「これまでの運用は、この度のような緊急事態に於いてでは無いし、内通者による情報漏洩も無かった頃の話だ。しかも、移動中の波動を跨いでの Contact が不安定になるのは君たちも知っているだろう。その状況で遠隔操作による Retroactive を行うなど、対象者の負担が大き過ぎる。精神の崩壊、もしかしたら命に係わるような事故を起こす可能性だってある。」
決して首を縦に振ろうとしないリーダーだが、部下二人も説得を諦める様子は無い。
「ところで、君たちは誰にアンカーを打ち込んだというんだ? 」
聞くだけ聞いてやろうと、幾分苦々しさを含んだリーダーの問い掛け。
「ぜひ、ご覧下さい! 」
そう言って、アメリカ人男性が勢いよく差し出したタブレットPCのような機械を覗き込んだリーダーの顔色が変わり、咽たように激しく咳き込んだ。
「さ、再修正か? 改変された時間を、さらに改変しようと言うのか? しかも、君らがアンカーを打ち込んだ相手は・・・! 」
部下二人の顔を交互に見ながら、とても信じられないといった口調のリーダー。
「可能です。問題ありません。60回行ったシミュレーションの結果では、平均70%以上の復元率でした。」
「その70%には、私の誕生も含まれてるらしいな? 」
「はい。それが最優先事項です。」
それを聞いてから部下二人に背中を向け、眉間を親指と人差し指で押さえながら何度も舌打ちし、溜息を吐くリーダー。
「先生・・・ 」
彼らの会話の意味を知識のない素人が理解するのは難しい。
但し、これだけは察することができる。
正邪入り混じった複雑な思いが錯綜する閉鎖空間の中、3人の科学者の前で傲然として立つ4本の光学繊維でできた柱。
その中を走り続ける無数の光の粒が、彼らの目的を遂げるため、彼らの意志によって新たな軌道を描こうとしているのである。