1990年11月27日、火曜日 23:10~
正直言って、私はイガラシ氏の自宅がギガマウスに襲われている映像を観ていないので推測するしかないのだが、電車の分厚い窓ガラスを突き破ったり、消防車の放水を物ともせずにバリケードを突破したほどの勢いで襲い掛かられたなら、アパートのドアや窓ガラスなどひとたまりも無いだろう。
ギガマウス個々は貧弱でも、数十匹で津波のように押し寄せたなら木造家屋ぐらいは押し倒せるほどのパワーを持っている。
だから、イガラシ氏が自宅が襲われている映像を確かに観たと言うならば、既に手遅れであり、冷たいようだが彼の奥さんの生存は絶望的と考えていた。
しかし、それは絶対に口にはできない。
であれば、私にできるのは時間稼ぎだけだ。
「だから、その作戦を一緒に考えましょう! まずは、イガラシさんの家までの地図を描いて下さい。アパートの周辺に何があるのかも教えて下さい。安全にイガラシさんの家に辿り着くためのルートを・・・ 」
作戦を一緒に考えるという流れにイガラシ氏を乗せようと思ったのだが、甘かった。
「まて、まて、あんた何言ってる? 作戦無いのかよ? キョーコが危ないってのに、これから呑気に作戦なんて考えてる場合かよっ! 」
イガラシ氏は、一時的に抑えていた感情を再び爆発させた。
(ヤバイ! )
その右手にはアイスピックは握ったままである。
激情に駆られたままのイガラシ氏を暴れさせたら、故意でなくとも勢いでアキラを傷つけてしまいかねない。
私は咄嗟に方針を変えた!
「いい加減にしろよ、てめぇ! キョーコ、キョーコって、我儘ばっか言ってんじゃねーぞ! オッサン! 」
私に注意を向けようと意図的に発した罵声。
思惑どおり、イガラシ氏は即座に反応した。
意識が私に向けられ、激しい怒りを剥き出しにした。
そのおかげで手元の注意が疎かになり、アイスピックがアキラの喉元から30センチ以上離れた。
(もう、強硬策しか無い! )
穏やかに解決しようと思ったが、既にイガラシ氏は話し合える状態に無く、全くの恐慌状態にある。
私とイガラシ氏の間は1.5メートル。
(ぶっ飛ばす! )
そう決めた次の瞬間、私の左手がイガラシ氏に向かって伸びていた。
どうでも良いことだが、私は日常生活での利き手は右だが、子どもの頃に左利きを矯正された結果なので、握力は左の方が強いし、スポーツや喧嘩では未だに左手が先行する。
だから、向かい合ったイガラシ氏の右手まで最短距離で掴み掛かることができるし、最初にアイスピックを封じてしまえば、あとは25歳の腕力で、アラフォーのオッサンを殴り倒せば良いと思った。
だが、なかなか思いどおりにはいかないもので、私の動きに慌てたイガラシ氏がアイスピックでガードしようとしたため、その先端が真っ直ぐに突き出された私の前腕部に刺さってしまった。
(しまった! )
と思った時には既に遅く、衝突した互いの勢いは急には止められず、アイスピックは私の左腕に突き刺さったまま数センチを移動して、シャツと肉を一緒に切り裂いてしまった。
「キャーッ! 」
けっこう派手に飛び散った血で、真っ先に悲鳴をあげたのは私ではなくアキラだった。
この一瞬の攻防の隙にイガラシ氏の手から逃れたアキラは、いつの間にか私の隣で傷ついた左腕に止血をしようと、自分のハンカチを取り出してキツク巻き付ける作業に取り掛かっていた。
(こういうのも、“目にも留まらぬ早業”ていうのか? )
アキラの俊敏さに感心しながらも、イガラシ氏の次の動きを警戒するのを止めるわけにはいかない。
とりあえず、左腕の負傷は辛いが、人質を取られるという最悪の事態の一つからは脱することができた。
しかし、二つ目の事態は未だ続いている。
「す、すまん! こんなつもりじゃ、悪かったよ、でも、でも、俺のせいじゃないし! 」
ブツブツと謝罪を呟くイガラシ氏は、すっかり気が動転してしまったようだった。
ハッキリ言って、私の負傷は事故のようなモノなのでイガラシ氏を責めるつもりは全く無いのだが、意図せずに傷つけてしまった側としては狼狽えるのは当然かもしれない。
私の左腕から流れる血とアイスピックの先端を濡らす血を交互に見つめながら暫し呆然としていたイガラシ氏だったが、
「お、お前が俺を止めなきゃ、こんなことにはならなかったんだ! 俺のせいじゃない! だから、だから、絶対に謝らんぞ! もう俺は行く! 行く! 行くから良いんだ! 」
青褪めた顔色と定まらない視線で独り言を呟きながら、正面入り口のドアに向かってジリジリと後退りを始めていた。
(元々メンタルが不安定な人なのか? それとも人を刺したショックと罪悪感で、おかしくなったのか? )
イガラシ氏を何とかしてドアから引き離したいと思ったが、彼の手にはアイスピックが握られたままであり、次に手出ししたなら本気で刺しに来そうで近づけない。
既にイガラシ氏はドアに背を預けている。
そのまま後ろ手でロックを外せば、ドアが開いてしまう。
「やめろ! 」
叫んだが間に合わなかった。
カタン!
ドアのロックが外れる音!
内開きの木製ドアがイガラシ氏の手によって開けられ、その向こう側に半分ほど降りたシャッターの裏側が見えた。
止める間もなくシャッターの下を潜って飛び出してしまったイガラシ氏だが、その行く手は忽ち遮られてしまった。
ジャッ! ジッ! ジャーッ!
別に待ち受けていたわけでもないはずの数体のギガマウスが、突然現れた獲物に戸惑うことなく一斉に飛び掛かったのである。
「離せ! この野郎っ! ウワッ! ギャーッ! 」
鈍い悲鳴が聴こえ、イガラシ氏がアイスピックで応戦しようとする様子がホンの一瞬だけ見えたが、あっという間にギガマウスたちの真っ白な身体が次々に覆い被さってしまい、その姿は消えた。
もはや彼に対して、私たちにしてやれる事は無くなった。
(ショックを受けてる場合じゃない! )
とにかく開きっぱなしのドアを絞めなければならない。
安全の確保が何よりも最優先である。
止血途中の左手も、今は気にしている場合ではない。
私は床に血を零しながらドアに飛びついた。
「くっ! 」
目標を店内に切り替えた数体のギガマウスが、閉じかけたドアを押し戻そうと体当たりを仕掛けてきた。
ドアが破られてしまったら逃げ場の無い店内で私とアキラはギガマウスの餌食である。
物理的には数で勝るギガマウスが有利だが、火事場の馬鹿力とかいうやつを絞り尽くして二人対大勢の力比べに押し勝つしかない。
「死んでたまるかーっ! 」
もう後が無いぞとの必死の気合が、ギガマウスたちを徐々に押し返しつつあった。
ドアの隙間は徐々に狭まっていて、残すところ約30センチ!
「アラっ・・・ヤっシキ・・・さん、よっ、横っ! 」
私の下に潜り込み、華奢な身体をドアに預けて踏ん張っていたアキラが途切れ途切れの警告を発した。
ドアに全体重を預け、頭の天辺をドアに押し付けて踏ん張っていたので床しか見えていなかった私だが、何とか首を捻ってアキラに警告された方向に顔を向けた。
すると、
「うぉっ! やっべぇーっ! 」
目線の先、僅か10センチほどの距離に、ジタバタともがく真っ白なギガマウスの頭頂部が半分以上も見えていた。
残された僅かな隙間に一匹のギガマウスがシンバルを合わせたような平べったい頭を無理矢理差し込んできていたのである。
(こいつがいたら、ドアが閉めらんねぇ! )
ドアの隙間に挟まっているのは、幸い1匹だけだったが、こいつを何とかしなければドアは閉じられず、ロックもできない。
「アキラ! 」
アキラは私の真下にいて、背中をドアに預けて、全身を突っ張り棒にして健気に踏ん張っている。
私の呼び掛けに対して、とても返事をするだけの余裕は無いようで、苦し気に顔と視線を上げるだけで応えた。
「ドアは俺が抑えとくから、武器になるモノを探してくれ! 突いたり刺したり殴ったりできる、できれば長モノが欲しい! 」
アキラは、「一人で大丈夫だろうか? 」と、不安そうな目で問い掛けてきた。
「大丈夫! まかせろっ! 」
精一杯強がって見せた私に、アキラが頷き、一呼吸おいてドアから離れた。