1990年11月27日、火曜日 23:00~
「ちょっと待てよ! おい! 洒落になんねーぞ! 」
ギガマウスによる無差別な殺戮映像を見せられ、漸く現状を理解し始めていたイガラシ氏だったが、住宅街の様子を捉えた映像の途中でいきなり、テレビに片手を掛けて荒々しく叫んだ。
「いきなり、どうしたんですか? 」
イガラシ氏の顔色が真っ青である。
テレビに掛けた手が小刻みに震えている。
「俺ん家だ! 」
「え? 」
「俺ん家なんだよ! 」
テレビではヘリからの中継映像が続いていたが、今は多摩川橋梁を離れて日野市街地上空に移動し、各所に散らばるギガマウスの映像を捉えていた。
「なんてこった! 俺ん家に化物が群がってやがる! 」
中継映像の中にイガラシ氏の自宅アパートの現状が映っていたらしい。
「家? ホントに? 」
こんなゴーストだらけの低解像度映像なのに、イガラシ氏やアキラもだが、どうやって細かな情報を見分けられているのか不思議に思った。
というよりも、1990年で暮らす人々と比べて高解像度映像に慣れすぎた私は、目が鈍ってしまっているのかもしれない。
と、そんなことをノンビリ感心している場合ではないようだ。
「こうしちゃいられない! 」
イガラシ氏はカウンターから飛び出すと、そのままBARの正面入り口に向かいドアのロックを外そうとしている。
「何をしてるんですか! 外に出たら化物の餌ですよ! 」
慌ててイガラシ氏の腕を掴んでドアから引き離すと、すかさずアキラが正面入り口に回り込んで外れ掛けたドアロックを元に戻した。
「放せ! 放せって言ってんだよ! 」
私の手を乱暴に振りほどいて再びドアを開けに行こうとする。
「テレビを見たでしょう! 外に出るなんて無茶ですって! 」
私の制止を全く聞こうとしないイガラシ氏を羽交い絞めにして、そのままボックス席のソファに押し倒して抑えつけたのだが、それでも暴れるのを止めない。
「放せ! 助けなきゃ! キョーコを助けなきゃ! 」
「キョーコ? 」
「俺の女だよっ! 独りで家にいるんだ! 腹に俺の子どもがいるんだよ! いいから放せって言ってんだろ! 」
その剣幕に、一瞬、気迫負けしそうになった。
イガラシ氏の気持ちは分かる。
分かるのだが、今、一人で外に出るなど自殺行為である。
「あの化物が押しかけ来てんのは裏口だろ! 正面からなら大丈夫だって! 行かしてくれよっ! 」
泣きながら暴れるイガラシ氏を押さえつけながら、正面のドアを背にして立っているアキラを振り返った。
「ダメ! こっちもいる。」
BARの正面入り口は分厚そうな木製ドア。
たぶん外側にはシャッターも付いているだろう。
店舗の性質上、防音性には優れているので中の音は容易に外に漏れはしないと思うが、外の様子を窺うには不便で、アキラは耳をドアに押し付け、頑張って外の物音を聞き取ろうとしていた。
「あのジャラジャラって鳴き声が聴こえる! 」
アキラは首を振って、正面から出るのも不可能だと告げるのだが、
「ば、化物ぶっ飛ばしてやる! ぶっ飛ばして突っ走れば、俺ん家までは10分も掛かんないんだよ! 」
「街中を10分も走り続けられるわけないだろ! あっという間に取り囲まれるぞ! 」
イガラシ氏は頭に血が上ってしまっており、これ以上、押し問答を続けても埒が明きそうにない。
後々、どんなに恨まれようが縛り上げてでも外に出るのは阻止しなければならない。
そこで、紐やロープの代わりになるようなモノは無いかと店内を見回していたのだが、それが隙になってしまった。
「んがーっ! 」
イガラシ氏が放った全力で、私は向かい側のソファまで跳ね飛ばされてしまった。
再度イガラシ氏の行動を阻止すべく、ジタバタしながらソファから起き上がろうとしたのだが、
「止まれ! 動くな! 」
イガラシ氏の腕の中にはアキラがいた。
彼の行く手を阻もうとして捕らえられてしまったらしい。
イガラシ氏はアキラの首を左手で抱え込み、右手でカウンターに洗い晒しで置かれていたアイスピックを取り上げて、その鋭い先端を喉元に向けていた。
「い、言うこと聞かないと、こいつを刺すぞ! 」
「何やってんですか! いい加減にして下さい! 」
もはや、イガラシ氏は冷静さを失ってしまっており、その行動は正常とは言えない。
「頼むよ、行かせてくれよ! キョーコが、キョーコが死んじまう! 」
泣きながら妻を助けに行かせてくれと訴える姿に同情はするが、イガラシ氏が取ろうとしている行動は決して容認できない。
今、外に出たら間違いなく無駄死にであり、表でギガマウスが待ち受けている状況でドアを開けられたなら、私もアキラも巻き添えにされてしまう。
だが、感情が激した状態にある彼の行動を阻もうとしたり、彼の意に反する警告でもしようものなら、反射的にアキラを刺しかねない。
「アキラ! じっとしてろ。動くなよ。」
「大丈夫。」
健気に応えるアキラだったが、顔色が真っ白である。
力の加減を失ったイガラシ氏に首を抱えられ、何とかつま先立ちで耐えているが、そんな首吊り状態のままでは気を失ってしまうかもしれない。
「イガラシさん、落ち着きましょう。」
私は1.5メートルほどの距離を保ちながら、両手をホールドアップの構えにして、まずはイガラシ氏に冷静さを取り戻させようと努めて穏やかに話しかけた。
「キョーコが一人でいるんだぞ! 俺んちはアパートの一階だから、ドアや窓破られたらお終いなんだよ。キョーコは腹が大きいから、一人でドアや窓を塞ぐなんてできないし、化物に襲われたら逃げることもできないし、だから、助けなきゃなんねぇんだよ。」
「分かりました。でも、今、あなたが勢いで飛び出して行っても、アパートに着く前に化物に殺されちゃいます。そしたら、奥さんを助ける人、いなくなっちゃいます。」
「じゃあ、どうすりゃ良いんだよ! 」
「考えましょう。一緒に考えますよ。良い方法が見つかったら、手伝いますし。」
「ホントにか? 」
アイスピックがアキラの喉元から少し離された。
素早く突っ込めば叩き落せそうな気はしたが、万が一失敗したら取り返しがつかない。
強硬策を取るのは止めにした。
イガラシ氏は、決して悪気でこんなことをしているのではないのだから、こちらが穏やかに話し掛けている限りアキラに危害は加えないだろう。
だから、彼の耳をこちらの話に傾けさせ、外に出ることを思い留まらせ、自発的にアイスピックを手放すよう仕向けなければならない。
それには、できるだけイガラシ氏の目的に協力的な姿勢を見せなければならない。
一緒に行動する仲間のような意識を持たせなければならない。
「なあ、一緒に行ってくれるのか? キョーコを助けに? 」
「行きますよ。一緒に作戦を考えましょう。」
今にも泣きながら縋りついてきそうなイガラシ氏だが、未だ右手のアイスピックを放そうとはしない。
手放したら、私が襲い掛かってくるかもと警戒しているらしい。
「作戦って、どんなよ? 」
こちらが切り出した協力姿勢について、その真偽を探るような聞き方である。
ここでイガラシ氏を納得させられるような提案ができたら良いのだが、そんな都合良く頭が回るわけではない。
化物だらけの街を無事に突っ切れる作戦などがあったなら、こうして地下のBARに立て籠もる必要など無いわけで、今、一番現実的と言える作戦は、このBARから一歩も外へ出ず、この騒動が収まって安全が確認され、警察なり、自衛隊なりが救助に来てくれるのを只管待ち続けることなのである。
だが、そんなことを提案したなら、イガラシ氏は間違いなくブチ切れるだろう。
(困った。)