1990年11月27日、火曜日 21:25~
「このまま駆け下って行って正面のフェンスを乗り越えて道に出る。そこからは、只管真っ直ぐに日野駅まで走るぞ! 」
日野駅までは、おそらく直線で500メートルぐらい。
そこまで走らなくても、途中で警察なり何なりに出会うだろう。
「はい! 」
アキラは返事をするや否や駆け出していた。
あっという間に斜道を下り、その勢いで自分の背よりも高い金網フェンスに片足を掛けて、あっさり飛び越えてしまった。
子どもは身軽で良いなと思いながら、私も苦労すること無くフェンスを乗り越えたが、こちらは体重があるので、静かにというわけにはいかなかった。
ドシッ!
この着地音、間違いなくギガマウスたちに気付かれただろう。
「止まるな! 走れ! 」
私が道路に出てくるのを待つように速度を緩めていたアキラに指示した。
それに応えようと私の方を振り返ったアキラの表情が一瞬で凍りつくのが分かった。
確かめたくもないが、どうやら私の背後には危機的な状況が迫っているらしい。
(こうなったら走るぞ! 25歳! )
先行するアキラを追い、中央線と住宅街に挟まれた直線道を真っ直ぐに走った。
走りながら気づいた。
住宅街に人の気配がしない。
全員が安全に避難したのなら良いが、道の途中で窓や壁や塀が壊された家屋を幾つか見掛けた。
それが何を意味するのか容易に想像できたが、今は考えないようにして走り続けた。
私には、どうしようもない。
ここで立ち止まったら、私たちの命が無くなってしまう。
「アラヤシキさん! あれ! 」
アキラが嬉しそうな声を上げた。
彼女の視線の先、私たちの進行方向、約100メートル先にフェンスと警察車両を組み合わせて作った即席バリケードが見えたのだ。
その向こう側には数台の真っ赤な消防自動車の姿も見え、そのうちの一台の屋根に乗った消防署員が照明を回して私たちに合図を送っていた。
「止まらずにまっすぐ走れーっ! 振り返らずにまっすぐ走ってこーい! 」
拡声器による指示も聴こえてきた。
「あと少し! 」
「ん! 」
アキラが息切れしている。
堤防の上からバリケードまで、距離的には200から300メートルと短いが、命の危険を背負いながら全力疾走で走り続けるには過酷な距離だった。
私の息も切れ切れになっていた。
それでも何とか頑張って、バリケードの一部になっていたミニパトが移動して作ってくれた隙間に駆け込んだ。
「たっ、助かったぁ! 」
準備運動も何もなく、いきなりの全力疾走は25歳でもキツかった。
12歳にもキツかったらしい。
二人して転がるように地面にへたり込んだ。
それでも、呼吸が落ち着くのに大した時間が掛からなかったのは、さすが25歳というべきだろう。
毛布を抱えて警察官が駆け寄ってきた時には、二人とも立ち上がっていた。
散々走ったので二人とも寒くは無い。
毛布よりも水が欲しいと言ったら、紙コップに汲み置かれた水を渡された。
カルキ臭かったので、たぶん水道水。
1990年にもペットボトルウォーターはあったと記憶していたが、違っただろうか?
「放水開始! 」
私たちがバリケードの内に飛び込んで直ぐに、拡声器の合図が聴こえてきて、後を追ってきていたギガマウスを消防車の放水で撃退する作戦が始まった。
警察官にバリケードから離れているよう指示されたので、私は日野駅側に50メートルほど移動したところにあるアンダーバスの上に掛かった歩道橋の上に登って放水作戦の様子を見ることにした。
アキラは、待機していた救急車の中で休むように勧められていたが、それを断って私の後をついてきた。
最初は取っつき辛そうで難しそうな子どもだと思っていたが、ここまで生死を共にしてきたからか、少しは馴染んできたのかも知れない。
「ところで、アキラの家は? 」
歩道橋の階段を登りながら声を掛けた。
「八王子。」
「ああ、それなら一緒だな・・・たぶん?」
「たぶん? 」
「いや、八王子だよ。間違いなく八王子市。JR駅から徒歩10分?」
25歳当時の私は、大学時代から八王子に住み続けており、大学院が世田谷にあるにも関わらず、片道1.5時間弱掛けて通っていた。
但し、過去が某国の干渉とやらで変わっているかもしれないので、100%の自信は無い。
「最後のとこ、何で疑問形なんですか? 」
との指摘が入ったが、説明のしようがないので笑ってごまかした。
「私の家は八王子インターの方です、今は。」
「今はって? 」
「もう直ぐ引っ越すから、アメリカに。」
そう言って、アキラは溜息を吐いた。
その横顔は、“マンガはあまり読まない” と言った時と同じく寂しげだった。
今更だが、最初にアキラを男子と間違えたのは暗がりの中で、私の目がどうかしていたのかもしれない。
今、私の隣には、思わず見惚れてしまうほどの美女の横顔があった。
ショートカットの似合う小顔、長い睫毛に縁取られた大きな目、スッキリ伸びた鼻筋、淡い桃色をした薄い唇を強く引き結んだ、とても小6には見えない、尚且つノーメイクとは思えない大人顔負けの容姿を持つ美女、いや美少女の横顔である。
背丈や体格が小6女子並なので、そのアンバランスさによって顔立ちの大人っぽさと綺麗さが却って際立って見えるほどだった。
こうまで綺麗過ぎると、少女らしい可愛らしさはあまり感じられなくなるもので、おそらく同年代の男子にとっては怖そうとか冷たそうに見えるかもしれず、近づき難く感じられそうな気がする。
所謂美人過ぎてモテないタイプというやつではないだろうかと、勝手に推測し、勝手に心配してしまった。
その自覚が本人にあるのかどうかは分からないが、容姿に関する全ての評価を拒絶するような少年っぽい装いに身を包んでいるあたり、色々デリケートな問題を抱えているのかも知れない。
これで服装に気をつかえば、芸能関係やモデル事務所のスカウトが放っておかないぐらいの魅力を発揮するに違いないのに、残念ではある。
そんなアキラに、寂し気な横顔を見せられてしまうと、
(突っ込んで話を聞いてやるべきかな? )
私にロリコンの属性は無いが、そう思ってしまうのも止む無しというところ。
だが、今日初めて出会った彼女の家庭の事情を聴かされたとしても、私には何もしてやることはできないので止めておいた。
そんなことをつらつらと考えているうち、いつの間にか呑気に会話を続けている場合では無くなってしまっていたらしい。
私たちが立っている歩道橋の上からは、消防隊員と警察官による混成部隊とギガマウスたちとの攻防の一部が俯瞰できる。
道路上から線路の上まで即席で固めたバリケードを必死で支える警察官たち、唯一の飛び道具として激しい放水をギガマウスたちに浴びせかける消防隊員たち、決死の攻防戦である。
銃器類は用いていないが、おそらく使用許可が出ていないのだろう。
先ほど聴こえた一発は、不意にギガマウスと遭遇した際に起こった暴発事故だったのかも知れない。
それにしても、混成部隊側の旗色が悪い。
数の差が圧倒的過ぎるのである。
(こんなに沢山いたのか? )
津波のように押し寄せるギガマウスの数は、見える範囲だけで軽く100匹は超えており、攻防戦はこの辺一帯の各所で行われているようなので、その総数はここの数倍に上るものと思われる。
対する混成部隊だが、今、私たちの目の前でバリケードを支えている人数は精々20名程度である。
しかも、殺傷能力のある武器が何もないので、ただ支えているだけで、ギガマウスの数を減らすことは全くできずにいる。
(これは、もう自衛隊が出動するレベルじゃないか? )
非武装で太刀打ちできるような相手ではない。
「君たち! 我々が支えているうちに、できる限り後退しなさい! 」
警察官なのか消防署員からなのか、もう区別はつかないが、バリケードを支えている者たちの中の誰かが歩道橋の上の私たちに向かって警告を飛ばしてきた。
短い休息時間だった。
既に、この場は安全地帯ではなくなっていた。