1990年11月27日、火曜日 20:15~
「アキラ。」
少年はそう名乗った。
「AKIRAか、ミノルよりカッコいいな。」
「別に普通だと思いますけど。」
「マンガのタイトルになれる名前じゃん。ヤンマガ読んでない? 」
確か、少年と同じ名前の題名で有名なマンガは、この時期も連載していたはずだと思って話題にしたのだが、
「マンガ、あんまり読まないので。」
そう言った、少年の横顔が少し寂しげに見えた。
(さて、この後何を話す? )
会話が続かない。
子どもなら当たり前のことだが、少年には歳の離れた初対面の大人と自発的に会話をする気は無いようである。
もちろん、その点は私も同じことで、初対面の大人と話すのは苦手だが、子どもはもっと苦手、できるなら関わりたくないと思っていた。
そもそも、この異常事態の中で無理に会話を続ける必要も全くないのだが、
「ところで、苗字聞いてないぞ。苗字無いのか? 」
頑張ったが、そのぐらいしか言葉が出てこなかった。
親じゃあるまいし学校や塾の話を聞くのは無意味、1990年当時の子どもたちのブームだったモノも思い出せず、世代を超えた共通の話題など見当もつかないので、会話が弾むようなネタ探しなど絶対に無理である。
初対面の相手が苦手で、人付き合いが苦手でも、これでも大学教授だったわけだし、一般的な会話のスキルは決して低くないと自負していた私だが、聳え立つジェネレーションウォールを乗り越えるのはほぼ不可能なようである。
「苗字ぐらいあります。当り前です。私は・・・」
少年が、少し面倒臭そうに自分の苗字を口に仕掛けたが、そのまま止まった。
「どうした? 」と、言い掛けた私も、少年と同じモノを見て釘付けになってしまった。
それは割れた窓の外にあった。
窓の外に見えるモノ全てがそれであった。
今まで、二人とも割れた窓の反対側のドアに背を預けていたので、目の前には素通しになった車窓から外の風景が見えているはずだった。
田舎なので夜景とまではいかなくても、住宅街の街頭や大型店舗の電飾ぐらい見えそうなものだったが、そこには何もなかった。
何もないということに気付くほどの余裕が無かったわけだが、そいつが動き出したことで漸く気付いた。
今、電車の進行方向左側には、全ての車窓に跨り、それでも全貌を掴めないほどの巨大な物体がある。
そいつが全ての車窓を塞いでいたので、街の光が遮られて見えなかったし、社内の暗さと相まって見えないことに気付かなかったのだ。
重量もかなりの重さがあるようで、そいつが動き始めたことにより、電車に振動が伝わってきてミシミシと壊れそうな音を立てている。
その巨体、おそらく生き物である。
車窓から離れたことで、薄っすらと見えるようになった体表が大きく脈打っていることと、両生類のようなヌラヌラとした粘膜に覆われていることから判断した。
そして、明らかに色は白。
(ギガマウスが出たってことは、これはホワイトシーサーペント? )
全体像を確かめるには窓の外を覗かなければならないのだが、そんな勇気は無い。
あったとしても、そんなモノはこの状況下では蛮勇にしかならないだろう。
「逃げるぞ。 」
私は呆然としたまま窓の外に釘付けになっている少年の肩を叩いた。
そして、化物のいる反対側のドアを開けて電車から飛び降り、そのまま一目散に市街地に逃げ込むという作戦を告げた。
中央線の立川駅と日野駅の間ならば、線路は土手の上にあるだろうし、駆け下りてフェンスを乗り越えれば道路に出られる。
「はっ、はい! 分かりました! 」
我に返るまで少し時間が掛かっていた少年は、意外に大きく感じたらしい自分の返事に驚き、慌てて手で口を覆った。
実際は、そんなに大きな声では無かったのだが、その慌てた素振りが何とも可愛らしかったので、思わず吹き出しそうになるのを堪えなければならなかった。
「何が可笑しいんですか? 」
車内が明るければ、今度はふくれっ面に笑わされそうだったが暗くて助かった。
子どもらしくて良いじゃないかと心の中で微笑みながら、ドア横に設置されているはずの非常用ドアコックを確認した。
「このドアを開けて、反対側に降りるんだ。」
「開けられるんですか? 」
「ここに非常用ドアコックってあるだろ。中のレバーを捻ればドアが手で開けられるようになるんだよ。」
「そうなんですか? 初めて知りました。」
何となくだが、尊敬されたような気がする。
非常用ドアコックは、子どもの目線よりも高い位置にあるので、少年が初耳なのは当り前、大人は知っていて当然のことなのだが、少しだけ良い気分になった。
そう言えば、自分も子どもの頃は知らないことを教えてくれた大人には、その都度尊敬の念を抱いていたような気がする。
まあ、3分も経ったら忘れてしまう程度の尊敬の念だろうが、無反応よりはマシである。
(まずは、この透明な扉を開けなきゃなんないんだが? )
そう簡単に開くような構造じゃないだろうと思っていたが、この件に関しては、たいへん運が良かった。
扉に手を掛けた途端、ポロリと外れて落ちたのだ。
危うく床に落ちて大きな音を出す前にキャッチしたが、私が触れる前に扉は壊れていたようだった。
おそらく、ギガマウスに襲われた乗客の誰かが車外に出ようと無理矢理に叩き壊したのだろうが、中のレバーが動いていないのは、その操作をする前に捕まってしまったか、絶命してしまったのだろう。
私は、大きな音が出そうで厄介な手間を省いてくれた誰かに対し、精一杯の感謝の念を込めて合掌をした。
「さてと、開けるぞ。」
合掌を終えて隣を見ると、少年も私の真似をしたのか合掌していた。
おそらく彼の場合、私とは違って打算抜き、車内で無くなった大勢に対しての合掌であったに違いない。
こんな状況でなければ微笑ましい行為なのだが、
「危ないからドアから離れといて。」
少年に合掌を中断してもらい、早速レバーを回した。
ブシュッ!
と、空気が抜ける音に一瞬冷やりとしたが、何も起きなかったので、そのままドアに手を掛けてゆっくりと引き開けた。
鼻が曲がりそうなほどの悪臭に満たされた車内に外の空気が流れ込んできたことで、束の間の解放感が味わえた。
少年を一旦下がらせて、電車から飛び降りた足元がどうなっているかの確認をしようとドアの外へ身を乗り出してみたのだが、
「地面が無い? 」
身を乗り出した先は、なんと空中だった。
驚いた拍子に手摺りを握っていた手が外れ、そのまま空中に飛び出しそうになった私の腰を少年が全力で抱え込んで、車内に引き戻してくれた。
思いきり冷や汗が出た。
声が出なくて良かった。
心臓が今にも破裂しそうなほど激しく鼓動し、呼吸も荒れ放題に荒れていた。
「助かった。サンキュ。」
何とかお礼の言葉を絞り出すと、少年は左右に首を振って応えた。
たぶん、「どういたしまして」とか、そんな意味があるのだろう。
それにしても、何故に電車が空中にあるのか?
確認のため、今度は慎重に頭だけをドアの外に出した。
(多摩川橋梁か! )
現状で、電車は多摩川橋梁の上で停車し、しかも進行方向右側に大きく脱線し、若干傾いてもいた。
この車両の下には多摩川が流れているのか?
それとも河川敷の砂利、もしくは藪なのか?
いずれにしても、10数メートルの高さがある鉄橋から落ちたなら怪我では済まない。
岸までの距離は、日野駅側がやや近そうに見えるが、それでも200メートル近くはありそうに見える。




