1990年11月27日、火曜日 20:01~
あの未来人を自称する男が言っていたことは真実だった。
Time communication device はホンモノだったということだ。
ということは、男が語った一連の事柄も全て真実として捉えるべきだろう。
Time transfer device と某国による過去への干渉も、疑ったり否定したりする段階では既になくなったと考えて良い。
ところで、
(なんか、ちょっと喜んでないか? 私は? )
ふと、気分が高揚していることに気付いた。
あの未来人の男の前では時間遡行など絶対に嫌だと全力で拒否していたのに、実際に1990年に立った今、私はワクワクしている。
単に若返ったことに対する喜びばかりではない。
過去に置き去りにしてきた様々な事柄、2027年では既に失われてしまった人、物、場所などに再会できるかもしれないという期待感で胸がはち切れそうになっていた。
それに時間遡行などという、普通の人生を送っている市井の人々には考えもつかない貴重な体験をしたことによる優越感も覚えていて、未来の知識を以って過去で無双するラノベの主人公のような生き方もできそうだ! などと考えたりしていた。
(せっかく過去に遡行したのだから、楽しまなきゃ! )
そして、無茶な未来人の依頼に付き合わされる自分への最大のご褒美は、“25歳のセーブポイントから始まるやり直し人生のスタート” である。
これについては、今のところ無計画だが、後々じっくりと腰を据えて考えねばなるまい。
その前にやるべきことがあった。
(37年前の私がいる場所に大事な人物がいるとか? )
その人物を助けることが、未来を救い、あの未来人の男を救い、私の人生も修復されると言っていた。
現状認識に手間取ってしまい、未だ戸惑いは続いていたが、ここからは頭を切り替えて、託された依頼事を片付けてやろうと身構えた。
そして、
(大事な人物って? )
車両内で目に見える範囲には乗客が多数いる。
約3メートルの電車幅を直径にした円内に限定してみても、会社帰りのサラリーマン数名、大学生らしき若者たち、20代半ばぐらいのカップル、私服の中年男性、シルバーシートに座ったお年寄り男女、時間的に塾帰りと思われる小学生。
(で、どうしろと? )
未来に影響を与えそうなほどの大人物など見当たらないし、誰がどのように未来にとっての大事な人物なのか、全く見当がつかない。
いきなり壁にぶつかってしまった。
(もっと、具体的な指示を出してくれなきゃ分からんじゃないか! )
近場にいる乗客の一人一人に、「あなたは私の助けが必要ですか? 」とか、聞いて回れと言うのか?
そんなことをしたら、絶対に不審者だと思われてドン引きされてしまう。
それに、私は初対面の人に自分から進んで話しかけるのが大の苦手だ。
自分がコミュ症だとは思わないが、元々人付き合いが好きじゃないんだし、見ず知らずの人に警戒心を抱かせないよう、スムーズに会話をするテクニックなんて持ち合わせているわけがない。
(ハードル高過ぎだって! 無茶振りもいいとこだろ! )
今更言ってもどうしようもないことだった。
私が1990年に送られた後には、Time communication device の交信限界を超えてしまうので、もう連絡が取れなくなると、あの未来人は言っていた。
(こんなんで、どうやって依頼をこなせって言うんだよ。困ったな。)
溜息を吐きながら、用済みになった新聞を網棚の元あった位置に放り投げた時だった。
ギッ! キキャーッ!
悲鳴のようなブレーキ音が響き、電車が急停車した。
バランスを崩した乗客が、他の乗客にぶつかり、転倒した者もいたようで、停車して間もなく車内がざわつき始めた。
私はドアにもたれていたので大丈夫だったが、目の前でバランスを崩した小学生の男の子が激しく転倒しそうになったので、咄嗟に踏み出して、その背中を支えてやった。
62歳の時と違って、若いから身体が良く動くし、肩も腰も膝も痛くない。
「大丈夫? 」
少年は、姿勢を戻しながら「ありがとうございます」と言って、その小さな頭を下げた。
なかなか礼儀正しい良い子のようである。
感心しながら少年の頭を撫で、肩から外れて床に転がっていた塾バックを拾ってやり、それを男の子に手渡そうとした時、
(え? )
車内の灯りが一斉に消えた。
ざわついていた車内の彼方此方で、次々にどよめきが起こった。
(何なんだよ、いったい? )
そう思った次の瞬間、異様な風景が私の脳裏を過った。
真っ暗な車内に散らばる割れた窓ガラス、変形して飛び出した窓枠、外れて床に転がる座席シート、ねじ曲がった手摺り、そして、人体の一部であろう血まみれの肉塊が一面に散乱しているイメージ。
(ヤバイ! )
私は本能で、そう直感した。
このイメージは直ぐに現実になると確信できた。
何故だろうなんて考えている余裕はない。
「みんな! しゃがめーっ! 」
恥ずかしいとか躊躇とかは一切せず、咄嗟に大声で叫ぶと、手にしていた塾カバンを足元に放り出して、私の声に驚いてポカンとしている少年の頭を押さえつけて無理矢理姿勢を低くさせ、庇うようにして上に覆い被さった。
ドッ、ドーン!
と、車両を激しく揺らすほどの衝撃音が聴こえた。
間を置かずして、私が立っている反対側、進行方向左側の窓が一斉に割れ、ガラスが床に散らばる音と、割れたガラスで怪我をした乗客たちの悲鳴が聞こえた。
「おい、外になんかいるぞ。」
と、誰かが言った。
「何? 」
「どれどれ? 」
数人の乗客が外の様子を窺おうと、割れた窓に近づいた。
「ダメだ! 窓から離れて床に伏せろ! 」
私は、もう一度叫んだ。
そうしなければ、そうしなければ死んでしまうから。
だが、私の叫びが耳に届いていたとしても、車両の中で動ける者は皆、好奇心が先に立ってしまったようである。
乗客の半分ほどが外を見ようとして割れた窓側に寄った。
そのうちの何名かはポケットライトのような小さな携帯用照明器具を外に向けていた。
ジジャーッ! ジジャーッ! ジジャーッ!
算盤を数十本並べて、その玉を一斉に弾いたような耳障りな音が四方から聴こえてきた。
それと同時に、車両がガタガタと音を立てて揺れ始めた。
「何だ? 」
「どうしたんだ? 」
「何の音だよ? 」
好奇心の次には恐怖心の連鎖が始まったらしい。
私の警告は全く効き目がなく、今し方窓にはりついていた乗客たちが、今度はパニックを起こして右往左往を始めている。
そんな中、私は少年の頭を、しっかりと抑え、
「良いか? じっとしてろ! 動かず、声も出すな! 絶対だぞ! 」
少年の頭が、私の手に中で縦に一回上下するのが分かった。
「良いぞ! ちょっとの我慢だから! 」
そう言い終わるのとほぼ同時に、車両内は猛烈な嵐が吹き込んだような、凄まじい衝撃に見舞われた。
真っ暗な車内の彼方此方で耳を塞ぎたくなるほどの騒音が巻き起こり、それに混じって乗客たちの悲鳴、絶叫が聴こえ、それが間もなくして苦痛に満ちた呻き声に変わった。
それだけではない。
この世のモノとは思えない不気味な音も聴こえていた。
重くて固いモノが床を這いずる音、何かが引きちぎられ噛み砕かれる音、算盤の玉を弾く音に似た生き物のモノらしき不気味な呼吸音。
そっと顔を上げ、気味の悪い音の正体を確かめようとした。
全ての灯りが消えた車内、外は月明かりの無い曇天らしいが、曇り空に反射して届く微かな街灯りが、その生き物たちの真っ白な姿を浮かび上がらせていた。
おそらく数にして20体以上。
パニックを起こして抗う術の無かった哀れな乗客たちを容赦なく襲っていた。
体長は2メートルから3メートル、手足が無く細い蛇のような胴体と異様に大きな頭部を持ち、その頭部には目や耳や鼻のような器官は一切見当たらず、ただ大きいとしか形容のしようがない口を不気味に開閉させながら乗客たちの衣服や身体を食いちぎっている。
(あれ、まさか! ギ、ギガマウス? 口だけ蛇? )
2027年で話題になっていたネットロアのUMAが、何故ここにいる?
しかも、海難事故に絡んで出没していたという海の怪物が、こんな陸地の奥、三多摩に現れるとはどういうことなのか?
そもそも、ネットロアなんてフェイクじゃなかったのか?
わざわざ1990年に飛ばされ、化物だらけの電車の中に放り込まれるなんて、こんなバカな話があってたまるか!