2027年11月26日、金曜日 18:50~
児童公園と、その付近一帯の住宅地の風景が全て消えてしまった。
今、私が呆然と突っ立っているのは、窓も扉も無く、床も壁も天井も一面が明るいパールホワイト一色で統一された、一辺20メートルほどもある立方体内側の閉鎖空間である。
ブランコも、ベンチも、水飲み場も、フェンスも、地面も空も何もかも無くなった。
唯一、柳の木があった辺りに、黒っぽい棒を数本組み合わせて作った前衛芸術っぽいオブジェが置かれていた。
但し、男が言うには、これも立体映像であるらしく、
『ここは、私の所属する研究所にある “通信室” とでも言うべき施設なんだけど、この後の話をスムーズに進めるために、背景を切り替えさせてもらったんだ。』
事も無げに言った。
通信室というが、「肝心の通信機器が何処にも無いじゃないか」と言いかけたが、面倒なので止めた。
そんな些末なことを気にしている場合では無くなっていた。
ちなみに、さっきまでいた児童公園は、私の過去に対するノスタルジーを擽り、遠い記憶を呼び覚ますため、昭和風に設定した背景だそうである。
何のために? と思ったが、そういうことを追求する余裕も無かった。
今、私が抱える問題は、自分が置かれている状況そのものである。
あれもこれも全て立体映像ということだが、いったい何時から何処から切り替わっていたのか、境目が全く分からなかった。
まるで狐か狸に化かされているようなモノで、実際の私はどんな場所に連れてこられているのか甚だ不安である。
肥溜の風呂に浸かって、泥団子のご馳走を食わされているわけじゃないとは思うが、考えれば考えるほど不安になる。
もう不安しか出てこない。
(考えるのは止め! もういいや! )
こうなってしまったら籠の中の鳥、俎板の上の鯉状態である。
立体映像だけでも凄過ぎなのに、背景の切り替えなんてことを瞬時にやってのけるような奴を相手に抵抗しても無意味である。
(もう、どうにでもなれ! って台詞は、こういう時に出てくるモノなんだな。)
成り行きに任せて化かされ続けていれば、そのうち状況が飲み込めてくるだろうと、腹を括ることにした。
『まず、君が極めて危険な状態にあったということは、伝えておくよ。あのまま、家に帰したら無事では済まなかっただろう。だから、ここに呼んだんだ。』
何処に呼ばれたのか聞く気になれなかった。
もう、驚き疲れてしまっていた。
男が言うには、どうやら命の危険があったらしい。
先刻、生田駅のホームで感じた悪意の一件が未だ続いていたらしいが、放っておいても半年後に死ぬ予定の人間の命を奪おうなどとは、無駄な手間を掛けたがる者がいる。
とりあえずは、命を救われたらしいので礼を言った。
『現状は分からないことだらけだと思うが、そろそろ本題に入ろうと思う。良いかい? 』
お伺いを立てられたが、ここで私の選択肢としては頷くほかない。
但し、一つだけ確認しておくことがある
「君は未来の人ってことで良いの? 」
『もちろん。』
何が、もちろんなのか?
自己紹介ぐらいしろよと言いたかった。
私としては、こんな理解不能なテクノロジーで翻弄してくるような奴は、ここまでの話の流れで未来人とでもしておいた方が、無駄に悩まされずに済むと思っただけである。
でもまあ、そういう前提で話を聞くことにした。
『本題を始める前に、システムを見てもらおうか。』
そう言って男は私を手招きし、一緒にオブジェの近くに寄るように言った。
私は素直に従ってオブジェの傍まで行き、改めてその構造を観察した。
すると、離れて見ていた時は分からなかったが、このオブジェは機械的な代物だったようである。
その高さは柳の木と同じく4メートルくらい。
黒い金属だと思っていた棒の部分は、沢山の光学繊維を直径20センチほどの太さに束ねたモノであり、一本一本の繊維の中では、これまた沢山の白い粒上の光が休みなく高速で走っている。
立体映像とは思えないほどに鮮明だったので、ついつい触ってみたくなって手を伸ばしたが、さすがに無理なようで、伸ばした手は抵抗感無く繊維の束を突き抜けてしまった。
『これは通信機だよ。』
男は言ったが、とてもそうは見えない。
マイクもスピーカーも無いし、スイッチパネルやタッチパネルのような通信機らしいインターフェースも無い。
そういうところが、未来のインダストリアルデザインなのだと言われたら、そうなのかもしれないねと頷くだけである。
『これは、時間を超えて過去と交信するための通信システムなんだよ。簡単に説明すると、マイクロブラックホールを形成し、その重力を利用して情報を書き込んだ素粒子を過去に送り込むためのシステムということなんだが。』
簡単に説明したというよりは、私が理解できそうにない部分を思い切り端折って、「これは何となく凄いモノなんだぞ! 」というイメージが伝われば良いと、割り切ったような説明だった。
実際は何も分かっていないのだが、私にはそれで十分なので理解したような顔をして黙っていた。
『情報の送り先は過去の特定の人間の脳。テキストだけじゃなく、音声や映像を用いた交信が可能な容量を得ることに成功した画期的な装置なんだ。
これは正に科学の革命とも言うべき発明で、人類の夢を叶えたと言っていい。マーク・トウェインやH・G・ウェルズが生きていたら感涙にむせぶことだろうさ。』
トゥウェインやウェルズが創造したタイムマシンとは違うような気もするが、男の言うことが本当なら、確かに超がつくほどの大発明である。
「これは、君の発明? 」
言わずもがなの質問だったが、一応聞いてみた。
すると、意外な返事が返ってきた。
『残念ながら、私の発明だよ。』
相変わらず表情は見えないが、おそらく男は辛そうにしていたのだと思う。
まるで、それが忌まわしいモノであるかのように、光学繊維の柱を拳で撃った。
『過去の人間と直接交信できるシステムなど、それが人類や社会に与える影響は想像を絶するよ。こんなモノ、人間が用いることを許されると思うかい? 』
私は、首を振った。
タイムマシンの類いは、確かに人類の夢かもしれない。
だが、実際に存在するなら、国家や企業を始めとする様々な思惑や利権が絡んできて、理性的な使われ方をするとは限らない。
過去に干渉することができるのだから、用途を誤れば人類のみならず世界を破滅させることだってできるだろう。
『そういうことだよ。だから、私はこれを理論だけで止めておくべきと考えた。かつて、アインシュタインが考えた原子力の理論が、政治の力によって大量破壊兵器になってしまったのと、同じ事態に陥ることは避けるべきと思ったからね。』
その意見には全く同意、諸手を挙げて賛成するのだが、
「おいおい、それじゃ、今ここにあるモノは何? 」
実物を前にして何を言っているのか?
作るつもりじゃなかったけど、結局は作ってしまったということか?
金か? それとも、何らかの柵に負けたというのか?
詰め寄る私に、男は複雑で深刻な事情があるのだと言った。
『もちろん私は実物を作る気など無かった。しかし、私と似たような研究をしていた者が他にもいたんだよ。そいつは、理論をカタチにすることを躊躇わなかったようでね、大した国力も無いくせに分不相応な覇権の野望を持つ某独裁国家に理論を売り込み、その国をスポンサーにしてシステムを完成させてしまったのさ。』
「マジで? 」
後先考えない自分本位な学者馬鹿、専門馬鹿という類は、人類史上に影響を与えた者だけでも枚挙に暇がないが、いくら何でも覇権主義の独裁国家などに渡して良い発明かどうかぐらい判断つきそうに思うのだが。
しかし、自らの理論が実現するという誘惑は、科学者にとっては抗い難い魅力なのだと男は言う。
その魅力に憑りつかれてしまったら、理論の実現に当たって生じる罪の意識など霧散してしまう者がいても不思議はないとも言う。
困ったことに、要は発明者の人格によって、人類は幸か不幸、そのいずれかの道を辿ることになるわけで、この度に関しては人類の夢を叶えるべき発明が、一転して悪魔の発明になってしまったということである。