第二話 『交番の日常』
朔太郎はお説教で遅れていた支度を大急ぎで済ませ交番に向けて東都署を出発していた。
交番までの移動はバイクだ。警察仕様の白いスクーターで一目で警察車両と判別できる。
最初の頃は制服姿でこのバイクにまたがり衆人環視の中を一人走ることに緊張していたものだ。
駅前の繁華街を抜け緩やかな坂を下ると目指す交番が見えてくる。東都署管轄八つの交番のうちの一つ『坂の下交番』である。駅前と住宅街の間に立地し扱う仕事は多種に渡る。その位置関係から駅前の応援に駆け付けることも多いのが特徴だ。
「部長、遅くなりました!」
交番に到着すると朔太朗はバイクを脇に停めて元気よく挨拶する。
「おう、災難だったな。以後しっかり準備するこった」
交番の前で立番していた犬飼旦巡査部長が声を掛ける。白髪混じりの髪に眠そうな瞼、少々太めの四十二歳独身貴族だ。
身内同士では『巡査部長』を略して『部長』と呼ぶことが多いのだが一般企業で云うところの主任に当たる階級だ。
どうやら前日の当直組は既に上がったようだ。
警視庁の交番勤務は日勤、当直、明け、非番のサイクルを四つの係で繰り返す。朔太朗達一係は今日の勤務は日勤なので夕方までの勤務となる。
奥に入り荷物を降ろすと給湯室で陽気そうな老人がお茶を淹れているところだった。
「ヒャヒャヒャ、朔坊みんなから聞いたぜ。あんまり気にしなくていいぞ。今度の署長さんは細けぇからなあ」
老人の名前は沖山照夫。この交番の交番相談員だ。
警視庁OBで現役時代は伝説の刑事だったと朔太朗は噂で聞いたことがある。経験豊富で貴重なアドバイスをくれる知恵袋であり、職員不在の留守を守ってくれるこの交番の守り神だ。
「はは、もうこりごりですよ」
そう言うと朔太朗は制帽をかぶり直しながら入り口の犬飼に近づいていく。
「部長、立番変わります。先輩と係長は扱いですか?」
「ああ、自販機狙いだよ。深夜にやられたらしい」
「そうですか、最近多いですね。こりゃ先輩に『お前が先に交番に行く日だったのに』って怒られそうだなあ」
そうこうしているといつもの忙しい交番になっていく。
地理教授、遺失拾得対応に始まり駐車苦情、不審者、交通事故と目まぐるしく飛び回り帰路に着いたのは正午を回ってからだった。
「腹減った」
バイクに乗りながら腹が鳴る。
朔太朗がやっと交番に戻ると既に鼠入が帰っていた。
「先輩、お疲れ様でした」
「千光寺~! お前が点検でヘマしなければ朝一から現場行にかなくて済んだのによう⋯⋯」
案の定鼠入が絡んで来たが、それはそれだ。朔太朗も言い返す。
「先輩そりゃないっすよ。俺だって交番が手薄な分飛び回ってきたんですよ?」
そう言って朔太朗はデスクで書類作成している鼠入の隣に腰を下ろす。
そこへ、
「鼠入は最近書類持ってなかったろ? たまには書類作らんと千光寺にすぐ追い抜かれちまうぞ。持ちつ持たれつだよ、俺達は」
と、背後から二人の肩をポンポンと叩きながら話しかけるのは但馬黎警部補だ。役職的には係長にあたり、この坂の下交番一係の長で三十三歳の妻子持ちである。
朔太朗にとって但馬は配属後現場の仕事を一から指導してくれた師匠といえるだろう。優秀で人格も優れたこの若い警部補を朔太朗は尊敬していた。
「それで、無線で聞いてはいたが110番の不審者は見つからなかったんだって?」
「はい。部長と二人で現場に行ったらパトカー一号車と四号車も来てくれていて、手分けして警邏したんですが見つからなくて……。通報者とは接触できたんですが特に実害は無いそうです。何かを探している男の様子が気持ち悪かったので通報したという話でした。ただ気になるのは目撃者が通報者だけでなく付近に数名いまして、皆さん同様に『異常な男』だったと口にしていたことです……」
「そうか、ご苦労だったな。犬飼さん、念のため報告書作成しといてください」
「承知してます。ただ今作成中ですよ!」
但馬は自身より階級は下だが年長者の犬飼を『さん』付けで呼ぶ。しかし危険な現場では強く命令することもあり、その辺の切り替えを心得ていた。
「よし! じゃあ昼飯にしようか。お前が帰ってくるのを待ってたんだ。出前を取るんだが何がいい?」
少し遅い昼食の出前は蕎麦に決まった。最初から選択肢は限られているのだが、彼らにとっては食事が唯一の楽しみである。
コンビニで何か買ってくることはあるが弁当は基本的に持参しない。忙しくて食事を取れないことも多々あるからだ。
出前を取れるような立地の交番はまだ恵れている方である。
一般企業のオフィス勤めのように外食ランチを楽しめたらと朔太朗も最初は思ったものだ。
但馬の好意で朔太朗と犬飼が先に食事をする。
朔太朗が頼んだのは『鴨せいろ蕎麦』だ。
「頂きます」
と、手を合わせ蕎麦猪口の蓋をしていた薬味皿を丁寧に取り外す。その下から顔を出した黒いつゆの表面には鴨の脂がキラキラと輝き食欲をそそる。思わずそれを一口飲んでみると鴨出汁がよく効いていて実に美味い。
「鴨せいろも美味そうだな。俺もいつも迷うんだけど結局天ぷら蕎麦にしちまうんだよな」
朔太朗は思わず視線を犬養の太めな腹部に向けてしまう。
「しかし、不審者ってのはなんだったんだろうな。通報から時間も経ってないし、パトカーが大通りで俺達が路地を探しただろ? 普通それらしい人着の者が見つかるもんだがなぁ。ドロンと消えたってか?」
「被害があった訳じゃないですし、いいじゃないですか。それにその男もただ探し物をしていただけのようですし⋯⋯」
「そうかぁ? 俺の直感的には訳ありだと思うんだけどな。沖山さんどう思います?」
便乗して隣で持参の弁当を広げている沖山に話を振る。
「そうさなぁ、犬飼さんの直感は大事にせにゃな。捜査も最後んところは直感と咄嗟の判断力だよ。まぁがんばんなさい。」
昼食を終えたあとの午後の交番は比較的落ち着いていて緩やかに時間が流れた。
こんな日もあれば激務が続く日もある。仕事のスケジュール立てや予想が困難なのがこの仕事の面白さであり辛いところでもある。
交代時間に差し掛かるころ今夜の当直組である四係の勤務員が到着した。
あとは引き継ぎをして署に引き上げれば今日の勤務は終了である。
「鼠入の奴が扱いで出てるから、帰署はあいつの帰り待ちだ。千光寺、不審者の件、念のため口頭でも引き継いどけよ」
朔太朗は但馬の指示で不審者の一件を詳細に説明する。相手は四係の兎澤巡査だ。
「なるほど、たしかに気になるね。分かった、時間を見つけて警邏しておくよ」
朔太朗の一年先輩の若手だが、人が良さそうに気さくに答える。
鼠入が戻り、朔太朗たちが帰署できたのは十八時三十分を回っていた。
係長を基準に一列に並び牛津に勤務終了の報告をする。
「お疲れさん、遅かったな。特別な事案はなかったか?」
牛津はそう言いながら日誌の確認をしていると何かに気付いたように顔を上げた。
「この不審者ってのは、駅前に出た奴と同じ奴じゃねえのか? 何か探し回っている様子の男だったよなぁ月岡?」
帰り支度を済ませてフロアに上がってきたばかりの絵麻は突然話を振られて訳が分からない。
「は、はい? なんですか代理」
「不審者だよ不審者。お前も現場行ったんだろ?」
「あっ、そのことですか。はい係長と現場に行ったんですけど発見できなかったんですよね。通報者によると異常な様子で何かを探していたって話です」
「代理、それうちの扱いとも一緒かもしれません」
背後から話に加わってきたのは、少し遅れて帰ってきた南ヶ丘交番の勤務員だ。管轄で最も遠方に位置し比較的平穏な交番である。
「通報者立ち去りで情報が少なかったんですがね、通報内容は全く一緒ですね。残念ながら我々も発見できずでした……」
「どういうことだ。ほぼ同時刻に三箇所に現れていることになるぞ? それに一体何を探している? ……この件は署長に報告しておく。遅くまでご苦労、明日は当直だぞ。みんな上がれ!」
朔太朗は帰宅の途についていた。その左側に絵麻が並走している。
辺りは完全に夜の帳に包まれていた。
「朔、今夜ご飯どうするの? 何か食べて行こうよ」
「悪い、今日はもう疲れちゃったよ。それに今夜の分、寮で食事頼んじゃってるんだ。また今度行こうぜ」
「ぶー。振られちゃった。いいよいいよ、じゃあね朔。お疲れ様ー!」
そう言いながらいつもの交差点で絵麻は別れて行った。
絵麻は早々に一般の賃貸マンション暮らしを始めている。女子寮の定員問題が発生した折、希望退寮したそうだ。
一方朔太朗は独身寮生活である。
警察学校生活のお陰で身の回りの事は何でも出来るようになったが、料理だけはする機会がなかったので独身寮の方が都合が良かった。
柳瀬寮は築三十年程の古い独身寮である。
一階に談話室と食堂がある以外、普通のマンションと大して変わらない。部屋の間取りも1Kユニットバスと至って普通である。
朔太郎は自転車をロックしてエントランスを入り階段を上がる。自室は三階の南側だ。共同の洗濯室が近くてなかなか便利な部屋である。
「疲れた」
部屋に入るなり朔太朗はベッドに身体を放り出した。
「明日は午後からの勤務だから、少しのんびりしてもいいよね……」
朔太朗はあっという間に闇の中に落ちていった。
どこかの県警とコラボしてそこを舞台に設定できたらいいなあ……という妄想。