2 無自覚に可愛らしい(俺はもう死にそうです)
『田舎の冴えないみそっかす姫シュテファーニエが、麗しのロミルダ様をダンスにお誘いしようと待っていた紳士を横取りして、さらには嫌がる紳士に権力でものを言わせてそのまま連れ帰った』
そんな噂が出回った頃、姫様のお父君が俺を書斎に呼びつけた。噂の発端となった夜会についてはすでにご報告済みなので、今度は何があったのだろうか。俺が書斎に入った途端、姫様のお父君――ノイエンドルフ閣下が姫様にそっくりな金色の髪を搔きむしりながらすがるような目を向けてきた。
「イグナーツ君、私はあの子の将来が限りなく不安だよ」
「閣下がご不安に思われることなど、ある一点を除いて何もありませんが」
俺はいつものように淡々と答える。
「その一点がね、問題なんだよ」
「なるほど……弟君様の耳に噂話が届きましたか。心中お察しします、閣下」
「イグナーツ君から話をつけてくれないかな、ね? ね?」
「俺が話をしたところで大人しく納得するようなお人ではないかと。閣下のお父君かお母君にお頼みする方が得策ですよ」
「うぅ……胃が痛い」
苦労性の閣下はまた胃薬を飲んでいるようだ。部屋の中はどことなく生薬臭い。
「それで、弟君様は何と言ってこられているのですか?」
俺の質問に、閣下は何とも言えない微妙な顔をした。何だ、何があるんだ?
「実はね……シュテファーニエに相応しい婚姻相手を見つけろとね」
「…………閣下、もう一度いいですか?」
俺は自分の耳を疑った。聞き間違いか、姫様の結婚相手と聞こえた気がする。すると閣下は気の毒そうな顔をして咳払いをすると、俺の望み通りもう一度同じことを繰り返してくれた。
「シュテファーニエに相応しい婚姻相手を見つけ、盛大な婚姻式を挙げろと仰せなんだよ。それも一年以内に……準備のことも考えれば実質半年もない」
「相応しいなどと、そんな格式の高い家など限られております!」
俺の声が少しばかり大きくなったとしても、それは仕方のないことだ。姫様に相応しい輩など、この国に残っているのかも怪しいではないか。
俺がお仕えするシュテファーニエ姫様は、前々皇帝陛下の又従兄弟の娘の息子の息子の娘という、皇族の血縁とはなんぞ?というくらいの薄い血を受け継いでいる。しかしそれはお父君に連なる血筋だ。問題はお母君の方で、お母君のお母君、簡単に言えば姫様の母方のお祖母様は現皇帝陛下の弟君と婚姻を結ばれたお方だ。つまりお祖父様は皇弟ということになり、姫様はその孫姫としてご自身で思われている以上にやんごとなき姫だった。
もちろんそれは秘されているため、姫様はご存知ではない。護衛としてついている俺も、閣下の私設騎士だと思っている。しかし実のところ、俺の所属はヴェルトラント皇国が誇る天涯騎士団なのである。
皇族をお護りする騎士としてノイエンドルフ家に入って早四年。ついに来てしまったこの時に、俺の心は穏やかではなかった。
◇ ◇ ◇
「ねぇイグナーツ、どうしたの?」
ふと影が差し顔を上げると目の前に姫様がおられた。心ここに在らずといった風に呆けていた自覚があるので、俺は気まずくなって視線を逸らす。
ここは皇都の西側にある皇立公園で、姫様は久しぶりに散策を楽しまれている真っ最中だ。俺はいつものように木と木の間に潜んで護衛に徹していたのだが、何か問題でも起きたのだろうか。姫様の斜め後ろについている侍女に目を向けると、何故か冷ややかな目で俺を見てきた。このエルゼという侍女は、実は俺の同僚の天涯騎士だった。
「申し訳ありません……自分としたことが、暖かな陽射しに気が緩んでしまったようです」
「貴方でもそんなことがあるのね。こんなに気持ちのいい天気ですもの、眠たくなるわよ」
決して気候のせいでうとうとしていたわけではない。姫様の穏やかな笑顔があまりにも眩しく、うっかり見惚れていただけなのだが。それがわかっているエルゼは、これ見よがしに溜息をついている。
――姫様……後どれくらいの間、俺はこうしてお姿を拝見できるのでしょうか。
そんな俺は、姫様を心底からお慕いしている。はっきりと伝えられないのが苦しくて仕方がないが、お側に置いていただけるのであればそれでもいいと、ついこの間までは思っていた。
婚姻については、姫様に知らされてはいない。しかしその準備は着々と進んでいた。ドレスの仕立てや装飾品の注文はもちろんのこと、誰を招待するのか、どこで婚姻式を執り行うのか、料理は、花は……などと様々なことが決められていく。姫様を置いてきぼりにして。
今現在、ただ唯一決まっていないのは、姫様のお相手だけであった。
「ねぇ、イグナーツ。貴方も一緒に散策しない?」
姫様を直視することができずに下を向いていた俺に、気遣うような声が降ってきた。流石は自慢の姫様だ。護衛でしかない俺にも、毎日のように気にしてお声をかけてくださるとは。
「姫様、ありがとうございます」
「な、なぁに?」
「お気持ちだけいただきます。俺は護衛騎士ですので、大っぴらにご一緒するわけには参りません」
少しだけ顔を上げて様子を窺うと、姫様はどことなく寂しげに見えた。
――ああっ、その憂いを帯びたお顔もなんと悩ましく美しいんだ!
「ああっ、その憂いを帯びたお顔もなんと悩ましく美しいんだ!」
「え、あ、そ、そう?」
しまった。ついうっかり心の声が口から出てしまったようだ。それもこれも、姫様が俺の心をがっちりと掴んで離してくれないから仕方がない。平静を装おうとして俺から目線をずらし、手扇でぱたぱたと扇ぎながら『照れ』を誤魔化そうとする姫様は、何度見ても見飽きることなどない。可愛い。興奮で鼻血が出そう。
「では姫様、自分など気にすることなく散策をお楽しみくださいませ」
俺はいつものように一礼をしようとして、それを阻まれた。なんということはない。姫様が頬を赤く染めながら、何故か怒ったような顔で俺の手を掴んでいたからだ。
「なりません! ひ、姫様に触れられると、ど、動悸がっ!」
「嘘ばっかり! この間の夜会の時だって貴方に触ったでしょ。しかもがっつり」
「あの時の自分は死にました! ああ、姫様、お手が、お手が柔らかいっ」
姫様の背後をお護りするエルゼが、死んだ沼トカゲのような目をして俺を見ている。
皆まで言うな。
自分でもわかっている。
これはもう、救いようがないくらいに末期だ。
俺は、姫様のことを出逢ったその日からお慕い申し上げている。いわゆる一目惚れというやつで、理屈でどうこうなるものではない想いだ。それこそ、姫様が自分以外の男と会話をなされるだけで、その男を抹殺したくなるくらい姫様を愛している。
天涯騎士団ではそれこそ次期筆頭騎士と言われているほどの実力者の俺が、たった一人の愛らしくも美しい姫様に陥落し、さらには堕とされてしまった。滑稽だと言わないでもらいたい。恋とは、どんな屈強な騎士だろうと抗えぬものなのだ。
自分からはどうしても姫様の手を振り払えず、俺は掴まれた手をじっと見つめる。白いレース素材の手袋のおかげで、姫様の体温がしっかりばっちり伝わってくる。
「姫様……イグナーツが本当に死にそうなので、もうそこらへんで許してあげてくださいませ」
鉄壁の無表情で、エルゼが俺の手を姫様の手から引き剥がす。助かったというか、もう少し味わっていたかったというか、とにかく残念だ。
結局、俺はいつものように離れた場所から護衛に徹することにした。婚姻前の姫様に、これ以上悪いうわさが立たないように配慮したからだ。
この間の噂の出どころは、姫様を目の敵にしている近隣領地の小娘たちだった。あの夜会で始末できなかったことが大層悔やまれる。あの時、俺が準備していたのは帽子のピンと、少しばかりの痺れ薬だった。薬を塗ったピンが皮膚をわずかに突き破るだけで、向こう二カ月ほど痺れが取れないという、俺の優しさでできた制裁だったのに。
「イグナーツ? ……また気配を消したわね」
姫様が俺の気配をお気になされている。馬車留まりまであと少しという距離なのに、何か心配することがあるのだろうか。ちなみに、姫様が俺を呼ぶ声は、周囲に聞こえないくらいの囁き声である。俺の耳につけられた集声器つき耳飾りでお声を拾っているのだ。まるで姫様が俺の耳元で囁いてくれているようで、すごく役得であることは伏せておく。この囁き声の破壊力たるや、水晶鋼の忍耐力がなければ勘違いしてしまいそうになる。姫様の囁き声はそれほどに甘美な響きなのだ。
「自分ならばここに。姫様、どうなされましたか?」
姫様の右斜め前のセイクルの樹木からさらに三十ベクトほど離れた低木の陰から、俺は姫様に声を送る。
「どうもこうもないわ。私は貴方の顔を見て話したいの。こっちへ来てちょうだい」
「いや、しかしですね」
「馬車の外の警護ならエルゼがやってくれるわ。貴方は私と一緒に中に乗りなさい」
「な、中?! 姫様、密室で異性と二人きりはなりませんっ!」
俺は慌てた。エルゼが姫様の介添えとして馬車の中の警護を担当しているのに、それを俺と代われとはどういうことなのだろう。いくら御者とエルゼが御者台にいるとはいえ、完全なる密室である。俺の玻璃より脆い心臓が、今度こそ鼓動を止めてしまうかもしれない。
「ここから家に帰る間だけだから、ね、お願い」
――お願い来ましたーーっ!!
姫様のお願いを伝えてきた耳飾りを、危うく地面に叩きつけてしまうところだった。
「貴方に少しだけ聞きたいことがあるの。エルゼにも秘密よ、ね?」
姫様は可愛い。
少し燻んだ金髪をお気にされておられるようだが、それがまた落ち着いた色合いで俺はすごく好きだ。お母君譲りの大きな青い瞳も、見つめられると非常に心臓に悪いくらいに綺麗だ。眦が上がっているのがまたなんとも妖精猫のようで、上目遣いでお願いされようものならこの間のように魂が抜けてしまう危険がある。離れた場所にいてよかった。危なかった。
「姫様が昨日よりますますお美しい」
「えっ?! ちょっとイグナーツ……貴方大丈夫?」
「はい、自分はいつでも準備万端です。しかし、周りがそれを許してはくれない状況が呪わしい」
どうやらエルゼにも秘密であったらしい。さながら、グレナディオ火山に棲むドラゴンと死闘を繰り広げたように疲弊した俺を見つけ、心配そうな顔で姫様が駆け寄ってくる。
公園から邸宅まで馬車で半刻あまり。二人きりの密室で秘密の話とは、一体なんなのだろうか。流石のエルゼも俺を不憫そうな表情で見ている。同情するような御者が、声に出さず「心中お察しします」と言いながら幸運を祈る印を切ってきた。
「はいはい、またいつもの発作? 悪いようにしないから、早く乗ってちょうだい」
俺の背中をぐいぐいと押す姫様は、あろうことかはにかむような微笑みを向けてくれた。無自覚に可愛さを振り撒く姫様が、今日も今日とてお可愛らしく、そして少しばかり憎らしい。