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9 あなたを守るために(2)

「あーあ、レイどうしちゃったの? ちょっと、やりすぎだよ。少しくらいは手加減してあげたらいいのに。かわいそうに、ハル、すっかり怯えて自信なくしちゃってるよ?」


 地上で戦う二人の様子を、木の上の影から見守っている人物がいた。

 白天、クランツであった。


「ハル、がんばって。ハルだって強い子なんだから! ほら、レイに隙ができた。反撃するなら今だよ!」


 木の上からハルを応援をするクランツの目に、武器を失いハルが座り込んでしまう姿が映った。


「ねえレイ、まさか本気でハルをやっちゃうつもり?」


 そこでクランツはむう、と唇を尖らせて唸る。


「どうしようかな。止めに行かないとだめかなあ。僕はレイのことがとっても大好きだから、レイとは戦うつもりはまったくないけど、でも、同じくらいハルのことも気に入ってるんだよね。こまったなあ」


 膝の上に頬杖をつき、クランツは思案に暮れる顔をする。


「許してください……」


 降り積もった雪に濡れるのもかまわず、地に両手をつきハルは深く頭を垂れた。

 まともにレイの顔を見ることができなかった。

 相手がどんな表情で自分を見下ろしているのか確かめるのが怖かった。


「組織に戻ります。処罰も受けます」


 こうしてハルにひざまづかせることができるのは、この世でただ一人、他の誰でもないレイのみ。

 レイには逆らうことができない。


「ずいぶんとあっさり負けを認めてしまうのですね。ハル、いいのですか? あなたの逃亡はこれで二度目。組織に戻ればどうなるか、覚悟のうえでの発言ですね」


 レイの静かな声が頭上から落ちる。


「はい」


 本気で自分を捕らえようとするレイに抗おうとするならば、手段は一つしかない。

 今ここで、自らの命を絶つことだ。

 けれど、それすらもレイは許してくれないだろう。

 うなだれるハルの肩が小さく見えた。

 ハルは全身の力を抜く。


 あきらめよう。


 そう思った途端、すべてが楽になったような気がする。

 何故か笑いまでもれてしまった。


「ハル」


 レイは周りの者には聞こえない程の低く押し殺した声で呟く。


「よく聞きなさい。夜が明けるまでにテンペランツの港に向かいなさい。そこで、早朝一番の船に乗ってこのレザンを発つのです」


 咄嗟に、ハルは目を見開いてレイを見上げる。

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「あなたは差し向けられた追っ手たちすべてをその手で葬り、最後にわたしと戦い力尽きて──崖から滝つぼへと転落してしまった」


 レイはハルの剣が落ちていった崖を一瞥する。


「あなたの剣は明日にでも、組織の誰かが回収に来るでしょう」


「剣?」


「ええ、切り立った崖の一部に突き刺さっているはずですよ」


 まさか、とハルは這うように崖まで行き眼下をのぞき込む。

 レイの言った通り、垂直に近い崖の一部、岩が飛び出した部分にはじけ飛んだ自分の剣がうまい具合に刺さっていた。

 その遥か下は、凍りついてしまった瀑布とやはり氷に覆われた滝つぼ。

 つまりこうだ。


 この高さから落ちた衝撃で氷が割れ、自分は深い川の底へと沈んでしまう。

 気絶していれば這い上がることなど不可能。いや、真冬に川に落ちてしまえば心臓麻痺をおこして死んでしまうだろう。そして、朝になれば寒さによって割れた氷の表面は、再び氷でおおわれてしまう。

 どんなに自分を探そうとも、レザンの暗殺者とてこの時期に川に潜って探索するなど到底無理なこと。


「さあ、行きなさい。あまり時間はありませんよ」


 しかし、ハルは首を振る。


「だけど、どう考えても無理だ。朝までにテンペランツの港に辿り着くなど絶対に……」


 おもむろに伸ばされたレイの手がハルの冷えた頬をそっと包み込む。


「ハル、落ち着いてよく考えなさい。そして、思い出しなさい。決して、無理ではないはずですよ」


 レイの言葉を噛みしめ、不意にハルは大きく目を見開いた。

 確かに通常の山道を辿ってならば港に辿り着くのは不可能。

 だが、近道をすればぎりぎり間に合う可能性がある。

 気づきましたか? というように、レイはふわりと笑みを浮かべた。

 向けられたその笑みはいつもの優しい微笑み。

 銀雪山の中腹に広がるマレナ湖を突っきっていけば、港までの距離を大幅に短縮することができる。


 そう、この真冬の時期、湖は氷で覆われている。

 だが、すべて湖の表面が完全に凍っているわけではない。

 落ちたら最後だ。

 それでも、湖を渡りきることができれば、通常の山道を下るよりもはるかな近道となる。


「湖を渡った先に道はありません。それでも迷わずに行けますね?」


 ハルはごくりと喉を鳴らし、静かにうなずいた。

 心臓の鼓動が速まり、思わず手が震えてしまった。

 もう一人の長である白天。

 よく遊びにつき合って、と言われ彼に引っ張り回され森中を探索した。

 時にはマレナ湖の向こうに渡ったことも。

 その時の記憶がよみがえる。



 ◆



『あのね、この木はね、(ぬし)さんが巣を作りにくる木なんだよ』


『主さん、ですか?』


『大ふくろうだよ。ハルはふくろうの赤ちゃん見たことある?』


『いいえ、ございません……』


 そう答えてハルは首を振る。

 すると、クランツはぷうと頬を膨らませた。


『もう! 僕に堅苦しい言葉使いはなしって言ったでしょ!』


『でも、立場が……』


 うろたえるハルの両手を、クランツがぎゅっと握りしめてきた。

 首を傾げて自分を見つめるクランツの笑顔は、どこまでも無邪気だ。

 年も自分と変わらなそうなのに、クランツはどこか子どもっぽい。けれど、暗殺者としての能力は自分よりも遥かに上だ。

 レイとは違った怖さがある。


『そんなのいいの! ハルは特別なんだから』


『特別……』


『そ、ハルのこと大好き!』


 好きと言われてハルは顔を赤くする。


『あは、ハル照れてるの? かわいい!』


 かわいいと言ってクランツがむぎゅうと抱きついてきた。


『それでね、ふくろうの赤ちゃんは小っちゃくてふわふわでとっても可愛いんだよ。えへ、今度一緒に見に来ようね。そうだ、ハルにもこの木を見つけやすいように印をつけといてあげる』


 と、クランツは木の幹に短剣で×印を深く刻む。


『こっちの木は夏になるとカブトムシがいっぱい集まってくるの。夏が来たら虫取りしようね。楽しみだなー。それからね……』


 カブトムシには興味はなかったけれど、ふくろうの赤ちゃんは見てみたいな、そんなことを思いながら次々と木に印をつけていくクランツをハル黙って眺めていた。


『あ、ほらあの三つ叉にわかれてる木』


『あの木には何が集まるの?』


 クランツはきょとんとした顔をする。


『ん? 何も』


『……』


『でも、特徴ある木だから目立つでしょ?』


 そして、クランツはその先を指さした。


『ねえハル、この先を真っ直ぐに行くとテンペランツの港にでるんだよ。すっごく近道でしょ? ここは僕だけの秘密の遊び場だから、他の奴らには言っちゃだめだからね。絶対。それと、この先を行くのはたった一度だけ』


『一度だけ?』


『そう、一度だけ。約束だよ。わかった?』

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