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8 あなたを守るために(1)

 月が、地上から姿を消した。

 今宵は月の入りが早く、辺りは闇一色に包まれる。

 夜空を彩る星々も、今はどこからともなく押し寄せ厚くかかった雲の向こう。

 静寂はすべての音を喰らい、漆黒の闇は地上の何もかもを覆いつくす。

 無に帰し、闇に染まったこの世界に蔓延するのは恐怖。けれど、その恐怖は静寂でも暗闇のせいでもなく、目の前に立つ男から発せられる殺意さながらの気のせいであった。

 ハルはその場から動けず立ち尽くした。まるで、地に両足が縫いつけられたかのように一歩も動くことができず。


 空から雪が舞い落ちる。

 音もなく静かに。


 降る雪がハルのまつげに落ちて溶け、まなじりから涙のように伝っていく。

 凍てつく空気が肌をぴりぴりと刺す。けれど、その痛みさえも己を絡めて捕らえ離さない恐怖のせいで、感覚が鈍ってしまったかのごとく何も感じなかった。


 吐く息が白く震えた。

 身体にまとわりつくのは真冬の冷気。なのに、ひたいにじっとりと汗が浮び、こめかみに流れ落ちていく。


 ハルは奥歯をきつく噛みしめた。そうでもしなければ恐怖のせいで、歯の根が噛み合わないほどに震えてしまうから。


「どうして……レイ……」


 組織から脱走し、漆黒の闇の中、雪の降り積もる道なき道を走るハルの足を止めたのは、よく知る人影。

 それは、数十名の配下の暗殺者を背に従えたレイの姿であった。

 レイがハルの行く手を阻止するように立ちふさいでいたのだ。

 たかが一人の逃亡者に大仰すぎる人数だ。それも、長である天、自らが動くことも異例であった。

 それほど組織は自分の評価を高くかってくれていたのか。


「逃亡者を捕らえよ、との命を受けました」


 抑揚のないレイの声が深く胸に突き刺さる。その声は凍てつく大気よりも冷たくハルの心に氷結の塊を生み出す。


「なぜ……よりにもよってレイが……」


 いや、組織から逃れるのなら今夜だと示唆してきたのはレイ本人だった。

 なのに、何故だ。


「こうなることは、わかっていた筈ですよ。ハル」


 静かなレイの口調からは彼の真意を読み取ることはできない。うっすらと笑みを浮かべるその表情からも、何かしらの感情の欠片さえもさぐることは不可能であった。

 恐怖で身がすくみ、立つこともできないくらいに足が震え、ハルはその場にがくりと膝をついた。


 ここまでだったか。


 レイの背後にいた暗殺者たちが、まさに好機だとばかりに身動ぐ。しかし、レイは彼らを気配で制した。

 ハルがそうであるように、暗殺者たちもレイの身体から放たれる鋭い気に圧迫されてしまったようだ。


「さがりなさい」


 やはり、抑揚のない声でレイは背後に控える者たちに短く命じる。男たちの気配がざわりと動く。


「ですが、黒天様自ら動かずとも」


「そうです。我々があの者を捕らえましょう」


 口を揃えて言う彼らに、しかし、レイは何も答えず、それどころか男たちをかえりみることもしない。

 それはつまり、二度は言わせるなという意味だ。


「言ったはずですよ。外の世界を望むのなら」


 ──誰をも凌ぐ力を身につけなさい。全力で追ってくる追跡者を、自力で退けるだけの強さを手に入れなさい。


「思い出しましたか? 最後の砦がわたしとなることも、当然、考慮にいれていましたね」


「レイなら見逃してくれると、思っていた……」


「甘かったようですね」


「ああ! 俺は甘かったよ!」


 思わず声を荒げ、駄々をこねる子どものようにこぶしで地面を叩きつけた。

 かじかんだ手に襲撃が走る。

 痛みは感じない。

 むしろ痛いのは、幼い頃から慕っていた、レイの突き刺さす冷たい眼差しであった。


「決して望みが断ち切られたわけではないのですよ。わたしと戦って勝ちを得、ここにいる追っ手全員を倒せば、あなたはあなたの望む自由を得られます」


 それはつまり、レイに勝たなければこの先を進むことはできないという意味だ。

 だが……。


「俺は絶対にレイに勝てない。レイとは戦いたくない!」


 ハルは嫌だというように何度も首を振った。


「やってみなければわからないでしょう。さあ、立って剣を抜きなさい」


「どうして大切な人と戦わなければいけないんだ。レイに向ける刃なんて俺にはない! だったら、ここで死を選ぶ方がましだ!」


「剣を抜きなさい」


 さっと風が吹き、束ねられたレイの長い黒髪が揺れて背に踊る。

 一歩一歩、さくりと雪を踏みしめ、ゆっくりとした足取りでレイがハルの元へと近づいていく。

 レイの手が腰の剣に触れた。

 闇をまとった恐怖がその手を広げる。


 殺される……。


 早鐘を打つ鼓動が逃げろとけたたましく警告を打ち鳴らす。


 逃げろ。

 いや、逃げられない。

 とにかく、立て。


 ハルの顔が引きつったように強張った。

 立ち上がることができない。

 レイの背後にいた暗殺者たちはごくりと唾を飲み込んだ。

 誰一人、その場から動こうとする者はいなく、ただ、固唾を飲み成り行きを見守るだけ。


「おい……」


「ああ……〝漆黒の双剣(つばさ)〟と“漆黒の疾風(かぜ)”二つ名を与えられた者同士の対決だ……これは、そうそう見られるものじゃない」


「だが、勝敗はわかり切っている」


「ああ……黒天の翼にかかっちゃ、誰もかなう者などいない。あのハルでさえな。その証拠に」


 ハルはいまだ地に膝をついたまま、立ち上がることもできずにいる。

 黒天の右腕として組織で働いてきたハルの暗殺者としての能力は優秀であった。それは誰もが認めるところ。

 なのに、そのハルがレイに威圧され、追いつめられ、まったく動くことができず、それどころか恐怖に顔を歪め怯えているのだ。


 口許に微笑の影を浮かべ、レイは鮮やかに腰にさげた二つの剣を抜き放つ。

 両手に握られた漆黒の剣。

 さながら、それはまるで黒い翼のよう。

 静寂に響く鞘走る音は、凍えた空気よりも冷たく無機質で慈悲の欠片もない。


 間合いに入り、振り下ろされたレイの剣が凍てつく空気を切り裂く。

 瞬間、ハルは剣を抜き放ち、後方へと飛んだ。

 立ち上がることができたのは、死にたくないと願う本能か。


 レイは本気だ。


 ハルは剣を抜いて身がまえる。しかし、剣を握るその手は震えていた。

 再びレイが踏み込んできた。

 かろうじてその攻撃を、ハルはぎりぎりのところで剣で受け止める。


 勝てない。

 絶対に勝てない!


 ぎりぎりと噛み合う刃にハルは奥歯を強く嚙む。

 相手の刃を押し返すものの、間髪入れずすぐさま次の攻撃が襲う。

 レイの攻撃は舞うように優雅で、それでいて繰り出される攻撃は腕に痺れが走るほど重い。


さらに、その刃を受け止めようとするが、鋭い一撃に手から剣が離れ、弾かれた剣は弧を描いて崖の向こうへと飛び、そのまま滝つぼへと落ちていく。

 数回、刃を結んだだけで、呆気なくも武器を失ってしまった。

 圧倒的な力の差をまざまざと見せつけられ、やはり、かなわないのだとハルは崩れるようにその場に座り込む。

 相手の強圧的な殺気にもはや、戦う意欲さえ削がれてしまった。

 ハルは震えながら、地に両手をついた。

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