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6 行く先は……(2)

 違う……。


 ふと、ハルの脳裏に小さな疑問がかすめていった。

 その些細な疑問が大きな波紋となって広がっていく。

 狭い船室の中、大勢の人の熱気のせいで、グリュンの顔には玉のような汗が噴き出し流れている。

 その汗をグリュンは何度も手布で拭いていた。


「俺なんかこんな太った身体だろ? 汗がどっと噴き出してたまらん」


 だったら、少しは痩せろ。


「だから、やっぱり俺のおすすめはアルゼシアだというわけだ」


 俺のおすすめはアルゼシア、だと言い切るグリュンのその一言で確信する。


 なるほど。

 この男……そういうことか。


 些細な疑問が自分自身の中で決定的な確信へと変わったとき、注意深くグリュンを見つめていたハルはふっ、と口許に笑いを刻んだ。

 あまりにもあからさますぎて可笑しい。

 可笑しすぎて思わず笑ってしまった。


「なんだ? その笑いは?」


「別に」


「今の笑いは別にって感じじゃなかったぞ」


「何でもないよ。気にするな」


「いや、気にするね!」


 グリュンがさあ、話せ! とばかりにじりじりと膝を寄せ詰めよってくる。


「暑苦しいから離れろ」


 ずいっと、近づいてくるグリュンの丸顔をハルは遠くへ押し返す。手のひらにグリュンの汗やら脂やらがべっとりとつき、ハルは顔を引きつらせた。


「はは……すまんすまん」


 グリュンは笑いながら手布でハルの手のひらをふきふきと拭き始める。

 確かに、大勢の人の熱気で船室は蒸し暑い。だが、そこまで汗を流すほどではないはず。

 側に寄ってくるだけで、グリュンの身体から放たれる熱気で体温が上昇しそうだ。

 とにかく暑苦しい。


「痩せろ」


 辛辣なハルの一言に、けれどグリュンはとくに気を悪くしたふうもなく相変わらずの人のいい笑いを浮かべて頭をかく。


「いやー、これでもぼちぼち運動はしているんだぜ。だけど、なかなか体重が減らなくてだな」


「だったら俺がその運動とやらにつき合ってやろうか。どうせ、しばらくは暇だ。考えることはあっても、することは何もない。三日で痩せさせてやる」


「三日! いや、けっこう。おまえさんの指導は厳しそうだ。遠慮しとく……」


 グリュンはぱっと身を引き、ふるふると首を振った。

 そんなグリュンを横目に、ハルはもう一度地図に視線を落とし残りのパンを口に入れた。

 確かに、グリュンの言った通り船の旅は長い。この船に組織の奴らがまぎれ込んでいる気配もなさそうだ。もし、いたとすればその者の放つ独特な気で察することはできる。

 つまり、ここにいる限り追っ手が襲ってくることはないのだからそれだけは安心だ。

 今はまだ……。

 最終的な行き先を決めるにも、考える時間と余裕はたっぷりとある。

 それよりも、もう一つ心配しなければならないことがあるではないか。

 真剣に地図を見入るハルの様子に、相手にされなくなったグリュンはとうとうあきらめたのか、それ以上しつこく迫ることはやめたようだ。

 そうなると、食事もとり終えたし、特にすることもないグリュンは手持ち無沙汰にそわそわし始める。

 しばらく、ハルの横でおとなしくしていたものの、とうとう我慢できなくなってきたのか、再び口を開き始めた。じっとしていられない性分なのだろう。

 またしても、どこそこの国の何が美味いだのと食べ物の話が延々と続き、時に女の話を取り混ぜ、最後はアルゼシアはいいところだと口にする。

 その繰り返しであった。


「ま、旅は長い。どこへ降りるかはおまえさんの好きにすればいいさ。それまでこの船旅を楽しむんだな」


「楽しむ?」


「もっとも、この船じゃあ娯楽の一つもないがな。女でもいれば目の保養にはなるんだがな。おまえさん、女は好きか?」


「興味ない」


 即座に素っ気なく切りかえしたハルの言葉に、グリュンはひたいに手をあてわざとらしくおお……と嘆きの声をあげる。


「その年で女に興味がないとはなんたること! だが、わからんでもないぞ。おまえのそのきれいな顔立ちなら黙っていても女がわんさか寄ってくるだろうからな。言い寄られすぎてもう、うんざりってやつか? 羨ましいもんだ」


「あんた、さっきからお気楽なことばかり言ってるけど、この船が無事に最終地まで航海を続けられるとは限らないぞ」


 はて? と首を傾げるグリュンに、ハルは苦笑いを浮かべた。

 まったく、惚けているのかそうでないのか。


「何事もなければいいって言ってるんだ」


「ずいぶんと意味ありげなことを言うな。今度は何だ? どういう意味だ?」


「あんた、世界を旅する商人なら知らないわけがないだろう?」


 ハルは地図の一点を指さした。

 それはスゥエンヴィリアとアルゼシアの中間あたりの海域であった。


「出るかもしれないぞ」


 出るかもしれない、と、他の客たちに聞こえないようハルは声を低くする。


「出る?」


 グリュンの目を見つめたまま、ハルは真剣な顔でうなずいた。


「出るって……ま、ま、ま……」


「ああ、そのまさかだ」


「……ゆ、幽霊船かっ!」


「……」


「や、やめてくれ! 俺はそういった話が苦手なんだ! 男のくせにって笑ってくれてもかまわんぞ。とにかく、幽霊とかお化けとかそういう類いの話はがきの頃から大っ嫌いなんだ! 口にするだけでも恐ろしい。呪われたらどうしてくれる!」


 よほど、その手の話が苦手なのか、グリュンは両手で頭を抱え床の上にうずくまってしまった。

 かと思ったら、取り乱した様子で突然荷物の中をあさり始め、東方の文字で書かれた経文に数珠。

 はてはにんにく、塩やらを床に並べ始める。

 そんなグリュンの奇妙な行動をハルは冷めた眼差しで見つめた。


「おまえさん、そんな冷たい目で俺を見ているが、これは魔除けだ。おまえさんにもわけてやろう。これは特別にただでくれてやる。護衛のおまえが呪われたら元も子もないからな」


 と言って、グリュンはにんにくの一つを差し出してきた。


 そんなもの、いらないし……。


 経文はともかく、どういった理由で荷物の中にんにくを入れていたのか定かではないが、いろいろ面倒くさいのでそこは突っ込まないでおいた。


「海賊だよ」


「海賊? ほっ、なんだ……海賊か。って……海ぞっ!」


 辺りもはばからず大声をあげようとするグリュンに、ハルは唇に人差し指を立てて黙れという仕草を示す。

 余計なことを他の者に聞かせて混乱と不安をあおり、かき乱してしまうのはまずい。

 グリュンも口に手を押しあて、そろりと辺りを見渡した。どうやら、回りの者には気づかれなかったようだ。

 ハルは声を抑えたまま続ける。


「この海域は海賊たちの根城だ。この時期、潮の流れにのってこのあたりの航路に出没し、貨物船や旅客船を襲うことがある。可能性は低いが、まったくないわけではない」


「確かに、ここら一体は海賊どもがよく出没する海域だ。だが、ここ数年そういった物騒な事件は耳にはしないぞ。それに、この海域にさしかかったらリタローサ国から護衛船がつくじゃないか」


 ハルは目を細めてグリュンを見据える。


「その護衛船、アイザカーンからレザンに来るときも見かけたか?」


 もちろんだ、とグリュンはうなずく。


「何隻だったか覚えているか?」


 グリュンは来るときのことを思い出すように腕を組み、しばし考え込む。


「一隻……だった」


 口に出して初めて気づいたとでもいうように、グリュンは驚愕したように目を見開いた。

 そう、普段は海賊の襲撃に対抗できるよう、武装した船が三隻以上つくのが通常だ。

 だが、レザンに来るときは一隻だった。


「何故だかわかるな?」


 グリュンはたぶん、と呟いて真剣な面持ちで首を縦に振る。

 半月前、アルゼシア大陸の玄関口であるリタローサ国王が崩御し、現在、国は内乱で激しくもめている。そのため、この海域のことまで手を回している余裕がないという状態なのだ。

 そこで、海賊どもがここぞとばかりに横暴の限りを尽くそうと企む可能性が高いかもしれないというわけである。


「こんな大型の貨物船、狙ってくださいといっているようなものだからな」


「しかし、おまえさん、ずいぶんと各国のことに詳しいんだな」


 あたり前だ。

 他国の内情に精通していなければ仕事にならないのだから。


「しかし、海賊なんかに襲われたらたまったもんじゃないぞ」


 そこでハルは再び思考の底に沈む。

 だが、海賊の存在は考えようによっては、自分にとって有利に使えるかもしれない。

 海賊どもを脅して船を操らせ、逃げ切る方法も手段の一つだ。

 それこそ、好きなところへ行けるのだから逃げ道はさらに広がる。

 目的地に辿り着いたら海賊どもを始末すれば、彼らの口から自分の存在がもれることはない。

 いや、海賊どもの利用価値はもう一つあるではないか。


 それは──。


 ふと、ハルの藍色の瞳にほの暗い影が過ぎる。

 だが、それも一瞬のことであった。

 もし、その方法を実行してしまったら、自分はもはや人ではなくなってしまう。


「それにしてもおまえさん、ずいぶんとまともな顔つきになってきたな。初めて見たときは悲壮感漂う面をしていたから心配してたんだぞ。うむ、けっこうけっこう」


 グリュンは笑って、ハルの頭をがっしりと掴み、わしわしとなで始めた。


「触るな。馴れ馴れしい」


 そこへ、くすくすと笑う声を耳にし振り返った。すぐ隣で小さな女の子がこちらを見て笑っている。

 目が合うと、首を傾げて微笑んでくる少女に、ハルは戸惑った表情をする。


「ほら、おまえさんも笑い返してやれよ。嬢ちゃんが不安な顔してるぜ」


「笑う?」


「そ、笑えばいいんだよ。にこーってな」


 そう言って、グリュンはハルの口許に手を伸ばして横にぐいっと引っ張った。


「な!」


 目をつり上げハルはグリュンの手を邪険に振り払う。


 何考えてるんだよ。


 途端、少女がお腹を抱え笑い出した。


「はは、こいつ、すました顔しておかしな奴だろ?」


 よほどおかしかったのか、少女の笑いはまだとまらない。


「ま、海賊が襲ってこようが何だろうが、何かあったらおまえさんが助けてくれるんだろ? 船を降りるまではおまえは俺の護衛だ。そうそう、レイの奴が言ってたぞ。おまえさんはとんでもなく頼りになるってな。ちなみに、俺は剣を振り回すとかそういうことはからっきしだ。しっかり頼むぜ」


 ハルは渋い顔をする。


「何だ、その仏頂面は。俺を守るのが心底嫌って顔だな。だったら、こっちの可愛らしいお嬢ちゃんのためって考えたらどうだ?」


「なら、あんたよりもそっちの女の子の命を優先していいんだな」


 それに対して、グリュンはうっと言葉をつまらせ、それはその……と口ごもる。


「守る……か」


 ハルはぽつりと声を落とし己の手のひらに視線を落とした。

 今まで人の命を奪うことをあたりまえのようにやってきたが、見ず知らずの誰かを守るなど初めてだ。

 この手で、誰かを守ることなどできるのだろうか。

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