5 行く先は……(1)
いつまで、そうしていたのだろう。
船縁に身をもたれ、ハルはぼんやりと大海原を見つめていた。
とうにレザンの地は遙か彼方へと消え、もはや、その影を見つけることもできない。
目に映る景色は、海と空の境界すらも曖昧な青い世界ばかり。
「おい、ハル」
不意にグリュンに呼びかけられハルは我に返る。
気が付けば、すでに太陽は真上に昇っていた。
船が出港したのは早朝。ずいぶんと長い間この場に立ち尽くしていたことになる。
「まだそんなところにいたのか? いつまでそこでぼうっと突っ立てるつもりだ? 海が珍しいわけでもないだろうに」
苦笑いを浮かべて近づいてくるグリュンを、ハルは無言で見つめ返した。
グリュンはコートの前をかきあわせ、ぶるぶると肩を震わせた。
「海の上は風が冷たいな。風邪ひいちまうぞ」
言って、グリュンははははと頭をかく。
「寒さに強いレザンの人間に言う言葉じゃなかったかな。おまえ、風邪なんてひいたことないだろ? 羨ましい限りだぜ」
北国の人間は、寒さに強くて風邪もひかないというグリュンの勝手な思いこみである。
ふと、グリュンはおや? という表情でハルの顔をのぞき込む。
「おまえさんの瞳……黒かと思ったら、よく見たら違うんだな。藍色か……きれいな瞳の色だな」
ハルはふいっと視線を逸らした。
「はは、おまえ照れてんのか? 意外にかわいい奴だな。来いよ、昼飯の時間だぜ」
言われるままハルはグリュンの後をついていった。
◇
「ははは、すまねえな。なんせ、一番格下の料金だからよ。それなりにいい部屋をとるとなると、なんせ、とんでもなくこれがかかる」
これ、と言ってグリュンは人差し指と親指でまるを作る。
「まあ、我慢してくれ」
薄暗い船室には大勢の客が狭い部屋で毛布にくるまり、身を寄せ合うように座っていた。それでも、かろうじて寝る場所を確保できるのなら、まだましなほうだ。
食事もパンとりんご、水という質素なものであったが、こんなものだろう。
食欲はなかったが、この先何が起こるかわからない。食べられるときに食べて力を蓄えておいた方が賢明だと考え、ハルはパンをちぎり、口にはこんだ。
「それはそうと、ハルはどこに行くつもりだ?」
豪快にパンにかじりつきながらグリュンは問いかける。
「決めていない」
「そうか。この船はスゥエンヴィリア大陸、アルゼシア大陸を経由して、東方の国アイザカーン大陸へ行く。三つの大陸を駈ける船だ。すごいだろ? ま、時間はたっぷりあるし、おまえさんの好きなところで降りればいい。だが、俺のおすすめは……そうだな、アルゼシアだな。あそこは……」
「地図を持っているか?」
「ん? 地図か?」
「あるだろう?」
「もちろんあるが」
と言って、グリュンは荷の中をあさり一枚の地図をハルに手渡した。
地図を受け取ったハルはグリュンを見てへえ、と意味ありげな笑いを浮かべる。
「なんだよへえ、って」
「いや、この地図〝ただ〟で見せてくれるのかと思ってね」
「へ?」
「てっきり、代金を要求されるかと思ったけど、意外にあんた親切なんだね」
「ぬ?」
「俺とあんたは別に友人でも何でもない。俺があんただったらきっちり貸しを作ってどちらが優位な立場なのかはっきり相手に知らしめるけど」
あんぐりと口を開け、しまった! という顔をするグリュンの顔が何ともおかしい。
地図を見せろと言われて素直に手渡しただけなのに、よもやこう切りかえされるとは予想もしなかったという顔だ。
「は、はは……そうはいっても、代金を要求したところで、おまえさんどうせ一文無しじゃないか。そうだろ?」
「何も支払うのはお金だけとは限らないだろう?」
グリュンはかっと目を見開き、何を勘違いしたのか顔を真っ赤にする。
おまけに、しどろもどろだ。
「か、か、身体か? 身体で、は、払うっていうのか!」
「そっち? あんたがそれを望むなら俺はかまわないけど」
グリュンは慌てて手と首をぶるぶると振った。
弛んだ頬の脂肪がたぷたぷと震える。
「いやいやいやいや! 俺にそんな趣味はこれっぽちもないからっ!」
「それはよかった」
うむむ……と複雑な顔で唸るグリュンがいっそう笑えた。
吹き出した顔の汗を手布で拭い、水を飲み干した。
「まったく、子どものくせに何を言い出すんだ。あー、びっくりした。地図は見せてやる。見せてやるだけだからな。見たらちゃんと返すんだぞ。今回は特別だ! 今回だけだぞっ。いいな!」
「どうも」
と、答えてハルは手にした地図をざっと床に広げた。
その横でグリュンが食事の続きをとり始める。
よほど腹が減っていたのか、凄まじい勢いでパンを平らげ、果物のりんごまですっかり胃におさめてしまったグリュンは、まだ手のつけられていないハルのりんごを物欲しそうに見つめているのが視界のすみに入る。
ハルは地図に視線をすすえたまま、自分の分のりんごを無言でグリュンに差し出した。
地図を見せてくれたお礼だ。
「さっきの話の続きだが、アルゼシアはいいところだぞ。活気があふれているし、なにより自由だ。多くの異国民がアルゼシアに訪れる。とはいえ、レザンの人間はちっとばっかしアルゼシアの者にとては珍しいかもしれないがな」
ハルの分の果物を口にするグリュンはご機嫌となって、さらに饒舌になる。
「だが、それはどこへ行っても同じだ。レザンの人間はあまり自分の国から出たがらないみたいだからな。そうそう、アルゼシアは食い物もうまい。俺のおすすめはアルガリタの国の……」
立てた膝を両手で抱え、食い入るように地図を眺めているハルはグリュンの言葉を耳にはしているが、返事はしなかった。
それでも、グリュンはかまわずに喋り続けた。
根っからのお喋りな性格なのだろう。
ようは何でもいいから喋っていたいのだ。
「おまけに、アルゼシアの女は美人揃い。が、そうだなあ、レザンの女の方が色白できれいかな。まあ、女に限らず男も美形ぞろいだよな。何でだ?」
スゥエンヴィリア、アルゼシア経由でアイザカーンに向かう船がテンペランツンの港から出るのは三ヶ月に一度。
組織の追っ手を振りきるにはどこで船を降りればいいか。
考えろ。
レザンのすぐ隣であるスゥエンヴィリアはあまりにも近すぎて話にならない。
何より、スゥエンヴィリアから他大陸へと移動する船は出ていない。
つまり、余所へ逃れたいと思ったら、危険を承知で一度レザンに戻るか、三ヶ月に一度のこの船を待たなければならない。
必然的にスゥエンヴィリアへ降りることは候補から外れることになる。
「こう言っちゃあ何だが、レザンは他国の者にはちと冷たいところがあるからな。余所者を受け入れないっていうのか、閉鎖的っていうのか? 何て言うか独特な雰囲気があるんだよな」
すぐ隣でグリュンは腕を組みうむ、と一人うなずいている。
アルゼシアで降りた場合、追っ手がくるまでに行方をくらますとしても、三ヶ月後には大勢の組織の人間がアルゼシアへとやってくることは確実。
かといって、最終地、アイザカーンまで行ってしまえば他の港、たとえばレザンのフィナルローエン国の港からアイザカーンへ向かう直行便で先回りされてしまう。
レイはこの船に乗れと言っただけでそれ以上の指示はなかった。
つまり、好きなところへ逃亡しろと言いつつも、実は選択肢は一つしかない。
それは、アルゼシアだ。
だが、おそらく組織の奴らもアルゼシアで降りることはことは簡単に予想がつくだろう。
「まあ、俺もほんとはアルゼシア大陸に寄って行きたいところだが、なんせ、急ぎの仕事があってだな。このままアイザカーンに戻らなければならない……」
やはり、アルゼシアで下船し、すぐにどこかへ身を隠すべきか。
だが、アルゼシアに逃げ込むとわかっていながら、そうするのはどうだろうか。
それとも、アイザカーンまで向かってしまうべきか。
ハルはアイザカーンの地図に視線を落とす。
この船がアイザカーンの港に到着する場所はヤンナクーナ。
先回りした追っ手たちは、必ずそこで待ち伏せをするはず。
船から降りたと同時に奴らとの戦闘となる。
当然のことながら戦闘は避けたい。
ならば、素直にヤンナクーナまで向かわなければいい。
この船がヤンナクーアの港につく直前で降りてしまい、別の場所に辿り着けば──。
と、ハルは指先でアイザカーンの地形をたどる。
この船には小型の船も備え付けられているし、最悪、海に飛び込んでどこかの岸まで泳ぎ着けばいい。
アイザカーンの気候はこの時期比較的穏やかだ。
海に入ったところで問題はない。
泳ぎにも自信はある。
だが、そこには一つ問題があった。
自分が突然消えてしまったことを他の乗務員、乗船客の口からもれてしまうことだ。
レイに言われたということで、よくわからず護衛を引き受けることになったが、人のいい顔をしたこの男まで組織のごたごたに巻き込んでしまう恐れがある。
できることなら、他人を巻き込むことは避けたい。
避けなければならない。
「この時期のアイザカーンは湿度が高くてかなわん。おまえさん、暑さには耐えられるか? 北国の人間にはあの暑さは参るかもしれんぞ」
グリュンはまだどうでもいいことを延々と喋り続けている。
いや、どうでもいいことを喋っている?
そこで、ようやくハルは思考の底から浮き上がり、地図から視線をあげた。




