2 姿なき者
銀雪山のもっとも奥深く、閉ざされた森の中に〝姿なき者〟と呼ばれる者たちが住まう城塞がある。
堅牢な石造りの城は外からの進入を防ぐものではなく、内部から逃げだそうとする者を阻止するためのもの。
ぐるりと高い塀に囲まれた城郭には八つの門があり、それぞれの門を、組織の頂点であり絶対的権力を持つ八人の〝天〟と呼ばれる長が管理している。
八つの門はまさに八人の〝天〟の象徴。
過去、組織から逃れようと脱出を試みたものの、その誰もがこの最終の砦である門の前に散ったことか。さらに、長である天が逃亡することも考えて、それぞれの門の鍵を別々の天が持っているという厳重ぶりであった。
そして、その城の一室に八人の長が顔を揃えていた。
彼らはそれぞれに与えられた城の一角に配下を従えて暮らす。
故に、こうして組織を仕切り支配する長が顔をつきあわせることは珍しいことであった。
つまり、よほどの事態が起こったということがうかがえる。
暗殺組織の長というからには、いかつい風情の男たちを想像させるが、居並ぶ顔ぶれはみな若く、驚くほど美形揃いであった。
「奴を、ハルをこのレザンから逃がしたのか! 答えろ〝黒天〟」
相手の厳しい問いかけに、黒天と呼ばれた青年、レイ・リュードはゆっくりと伏せていた顔を持ち上げた。
年の頃は二十歳前後。
すらりとした長身にほっそりとした肢体。たおやかな雰囲気を持つ美形の青年であった。
相手の詰問に対し、レイの形のよい唇にかすかな笑みが刻まれる。
肯定とも否定ともつかないその微笑からは、彼の心のうちを探ることは不可能であった。
ゆっくりと瞬きひとつ、レイの瞳が目の前の男を静かに見つめ返す。
息をのむほどに鮮やかな翡翠色の瞳は一点の曇りもない。
引き込まれるほどに美しく、けれど、背筋を凍らすほどに冷たい輝き。そして、極上の翡翠は相手の心を惑わせる。
「くっ……」
見つめられ、うろたえてしまったのは男の方。
呻いて返す言葉を失い、ただ悔しげに歯をぎりっと鳴らすだけであった。
暖炉にくべられた薪がぱちりと音をたてて爆ぜ、炎が一瞬燃えあがる。
傍らではレイと、レイに今にもつかみみかからんばかりの男を、ただ無言で眺めやる男たち六人の姿があった。
そのうちの一人は、まだ十四、五歳ほどの少年。
この中では一番年下であった。
彼らはこの緊迫した空気を恐れるわけでもなく、ただ冷静な目で成り行きを見守っていた。
「〝炎天〟殿はわたしをお疑いになると?」
ようやく長い沈黙を裂いたのは、レイの方であった。
感情の見あたらない静かな声色と口調。
「おまえはハルを特別目をかけていた。弟のように可愛がっていた」
答える炎天に、レイは唇に緩やかな笑みを刻む。
「ふっ……」
そして、端正な顔をうつむかせ、レイは心底おかしそうに肩を揺らして笑うのであった。
レイが笑うたび、後頭部のあたりで結んだ長く腰まである黒髪が背に揺れた。
炎天と呼ばれた男はかっと目を見開く。
レイの態度がよほど癇に障ったらしい。
「何がおかしい」
「それは目をかけもしますし、可愛がりもしますでしょう。組織のため彼をあそこまで育てあげるのに、どれだけの手間と多大な金をかけたとお思いですか? 彼は有能な部下だった。なのに突然、このわたしに刃を向けてくるとは。わたしとて正直、衝撃を隠せないでいるのですよ」
「は! 白々しいことを! 今さら何を言おうと、貴様がやつの逃亡に手を貸したことは明白だ。掟破りの末路がどうなるか……」
真っ向から睨み据えてくる相手の目を、レイはゆるりと顔をあげて見つめ返す。
動揺の欠片すらうかがわせない、落ち着き払った態度。
「つまり、裏切り者としてわたしを処罰する、ということですね」
レイは軽く眉根を寄せ、首を横に振って小さくため息をもらした。
信じて貰えないのが心底残念だという表情である。
レイはさらに言葉を継ぐ。
「いいでしょう。ですが、あらぬ疑いをかけられたままでは、わたしとて納得がいきません」
両脇にたらしていたレイのしなやかな右手が流れるような動作でゆっくりと持ち上がる。
己の潔白を剣で証明しようというのだ。
その手が腰の剣に伸ばされようとした瞬間。
「貴様! 裏切っておきながら、よくもそんな口がたたけるな!」
炎天は怒りのままに腰の剣を抜き放ち、その切っ先をレイの首筋へと突きつけた。
男の動きは素早い。
逃げきれなかったのか、それともあえてそうしようとは思わなかったのか、レイは微動だにしない。
鋭い剣の切っ先がレイの首筋を薄く裂き、ぷつりと赤い血の玉が浮きあがる。
それでもレイの表情には少しの動揺も驚きも浮かんではいなかった。
だが、甘んじて男の不遜な行為を受け入れるつもりはないようだ。
それはゆるりと放たれた、レイの身を取り巻く気配から察知された。
たおやかな見かけと、およそ剣を揮って戦う雰囲気のないレイの身に、じわりと静かな狂気がにじみ始めた。
レイのまなじりが細められる。
再び爆ぜた暖炉の炎がレイの瞳に映り込み、極上の翡翠に底知れぬ危うい光が揺れ動く。
次の一瞬で何かしらの決着はつくと思ったその時──。
「ねえ、やめなよ。組織の長である僕たち〝天〟同士の殺しあいは絶対に禁止だってこと忘れたの?」
これまで黙って成り行きを見守っていた男たちのうちの一人、一番年下の銀髪の少年がレイと炎天との間に口を挟んできた。
「おまえは黙っていろ〝白天〟」
レイに視線を据えたまま、炎天は割り込んできた少年に言い放つ。
「だって、レイはちゃんと任務を果たそうとした。組織から脱走したハルを捕らえようとしたって何度も言ってるのに。なのにどうして」
疑うのかなあ? と白天と呼ばれた少年は、首を傾げて背の高い痩身の男、炎天を見上げる。
まだ幼さを残した顔立ちに、無邪気な仕草の少年であった。
少年はつかつかと二人に歩み寄り、レイに突きつけていた炎天の剣を手の甲で払う。
「それでも文句があるなら、レイのかわりに僕が相手になるけど」
すっと目を細めた少年の、色素の薄い石灰色の瞳の奥に底知れぬ危険な色がゆるりと過ぎっていった。
あどけない表情と仕草とは裏腹に、得たいの知れない狂気じみた本性を垣間見せる。
「おまえが俺の相手をすると?」
「何? 不服はないでしょ?」
白天の手が腰の剣にかかる。
その顔はにっこりと笑っているが、目が本気であった。
〝天〟同士の殺し合いが禁止だと言ったばかりのその口で、少年は決闘するなら自分が相手になると矛盾したことを言う。
おまけに、自分よりも年上で背格好も一回り大きい相手に勝つ気でいるようだ。
くそっ! と短く吐き捨てると、炎天はレイに突きつけていた剣を降ろした。
「おまえはこいつの言葉を信じると言うのか?」
「もちろんだよ」
無邪気に笑って少年はうなずき即答する。
その身体から、じわりと放たれていた先ほどまでの殺気はすっかりと消えていた。
「ならば何故、ハルはここにいない。戻って来たのは川縁に落ちていた奴が使っていた剣のみだ!」
声を荒げ、炎天は卓の上に置かれた一振りの剣を指さした。
それはまぎれもなくハルが使っていた剣であった。
「だって、斬り合っているうちに崖から足を滑らせて滝つぼに落ちちゃったんでしょ? ハルも意外にどじだねえ。まあ、レイが相手じゃしょうがないか」
「それがおかしいとおまえは思わないのか?」
「ぜんぜん」
「崖から足を滑らせただと? あいつが、ハルの奴がそんな間抜けな真似をすると思うか」
「斬り合った相手はレイだよ? さすがのハルだって余裕なかったんだよ」
「なら、レイが捕らえる相手を誤って滝つぼに落とすという失態をおかしたというのか? それこそあり得ないだろ!」
「僕たちだって人間だもん、時には失敗だってあるよね」
「時にはだと? 俺たちにレザンの暗殺者に失敗などあり得ない、許されないということはおまえだってよく知っているはずだ!」
炎天の怒鳴り声に、白天はわざとらしく両方の耳を押さえて顔をしかめた。
「もう、さっきから怒鳴ってばかり。それに、いちいち何? そんなに疑うんなら、自分で滝の下にもぐってハルを探してみたらいいじゃない。でもこんな真冬にそんなことするなんて間違いなく自殺行為だけどね」
さすがの僕たちだって死んじゃうね、と少年は耳から手を離し、戯けた仕草で肩をすくめた。
炎天はぎりっと奥歯を噛みしめるような表情でレイと白天を睨みつけた。が、すぐににやりと笑って残り五人の男たちを見渡す。
「おまえたちはどう思う?」
しかし、炎天の問いかけに答える者はいない。だが、レイの言葉を信じているという様子でもない。
「ハルは間違いなくレザンを出た。ここから一番近い港はテンペレランツの港。今日出航した船は?」
「三ヶ月に一度のアイザカーン大陸行きの早朝一番の船と、朝と昼二便出る、レザンとスウェンヴィリア大陸を行き来する船だ」
男たちのうちの一人が答える。
「早朝一番の船が怪しいな」
「しかし、この銀雪山から港までゆうに半日はかかる。ハルがここを抜けたのは深夜をかなり回っていた」
「死に物狂いで向かえば、決して無理な距離ではない」
いや、絶対無理だね、と白天が横から口を挟んできたが、炎天は相手にもしなかった。
「そう、ぎりぎりの時間で港に辿り着く。その船は途中どこに寄る?」
「スウェンヴィリア、アルゼシア大陸を経由する」
「なるほど」
と、声を落とし、炎天は腕を組みにやりと唇を歪めた。
「その船に乗ってしまえば、次に船が出るのは三ヶ月後、俺たちの追跡を振り切り、どこかに身を隠すにはじゅうぶんな期間だ。ハルはその船に乗った。そうだな? レイ。そして、奴が向かった先はスウェンヴィリアでもアイザカーンでもない。アルゼシアだ」
違うか? と、炎天は目を細めレイを見据えた。
ハルの逃亡先はアルゼシアだと言い切る炎天は、得意げにさらに言葉を継ぐ。
「レザンに近く、直行便が日に何本も出ているスウェンヴィリアに向かったとは考えられない」
「もしかしたら、遠くへ逃亡すると僕たちに思わせておいて、実は裏をかいてスウェンヴィリアで降りたかもね」
レイが立つ側の椅子に腰をかけ、白天はテーブルに頬杖をついてぽつりと言う。
口を挟んできた白天を、炎天は黙れと言わんばかりに凄まじい形相で睨みつける。
「さらに裏の裏をかいて、まだこのレザンにいたりして。ね、レイ?」
白天は満面の笑みを浮かべてレイを仰ぎ見る。
レイはまぶたを半分落としたまま、静かに首を横に振った。
「白天殿」
「もう、クランツだってば。レイには名前で呼んで欲しいのになあ」
「ハルはもう死んだのですよ」
「あ、そっか」
二人の会話にぎりぎりと歯を鳴らしていた炎天は、とうとう堪えきれなくなったのか。
「いいから白天、おまえは黙ってろ!」
と、怒鳴り声を上げた。
炎天の一喝に頬杖をついたまま、白天はぷうと頬を膨らませた。
「何だよ。僕より弱いくせに偉そうにしてさ」
白天の口から炎天を愚弄する言葉がぽつりともれたが、どうやらそれは炎天の耳には届かなかったらしい。もし聞こえてしまったら、それこそとんでもない状況になると考慮してのことかどうかは定かではないが……。
口をつぐんだ白天をじろりと睨みつけるように視線で押さえつけ、炎天は再び切り出した。
「残るはアルゼシア大陸かアイザカーンのどちらか。だが、最終目的地アイザカーンまで行くには狭い船の上ではあまりにも人の目につく可能性が大きい。できることなら、己の存在を他人に印象づけることなく、速やかに、レザンから離れたところで下船したいはず。さらに、悠長に最終目的地まで乗っていれば先回りされる可能性もある。よって、ハルの行き先はアルゼシアだ」
炎天はレイを見据えた。
「どうだ? 間違いないな?」




