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16 暗殺組織レザン -レイとクランツ-

 部屋を退出したレイは、中庭をぐるりと取り囲む冷えた石造りの回廊を歩んでいた。

 濁った灰色の空から静かに粉雪が舞い落ちる。

 レザン・パリューの冬は長くそして、厳しい。


 たとえば、アルガリタがそろそろ秋を迎えようとする頃、この地には雪が降り始める。

 きらきらと輝く美しい大地だと、誰が言ったのだろうか。

 灰色に染まった空は、息もつまるかのような憂鬱な色。

 太陽の光さえ、その重たい雲に遮られ光は地上へと届かない。

 青空が広がることじたいまれだ。

 特にこの季節は。


 ふと立ち止まり、レイは空を見上げた。

 身を切るほどの冷たい風が通り過ぎていく。

 後頭部のあたりで束ね背に垂らしたレイの長い黒髪が風に揺れる。

 漂う雰囲気は儚げで、女性と見間違えるほどのたおやかな姿。


 レイは回廊の手すりに歩み、手のひらを差し出した。

 白くしなやかなその手に、ひらりと雪が舞い落ちる。

 その仕草のひとつひとつが、優美で人目をひきつけた。

 手のひらを見つめるレイの口許には穏やかな微笑み。

 それは作り物ではない、心から嬉しさをたたえた。

 先ほど炎天に向けた冷たい光を放つ翡翠色の瞳も、今は穏やかであった。


 ハル……大切な女性(ひと)を見つけることができたのですね。

 安心しました。

 その手を、大切な人の手を決して離してはいけないですよ。

 二度と手放しては。

 あなたの力で守っておあげなさい。

 できるでしょう?

 あなたになら。


 溶けた雪が小さな水滴となって手のひらに広がっていく。

 その手を握りしめ歩きだそうとしたレイの背に。


「レイ!」


 と、呼びかける少年の声。

 レイは振り返る。

 離れた場所から、先ほどの銀髪の少年がこちらに向かって駈け寄ってくる姿が見えた。

 ここは暗殺組織。

 その殺伐とした空気には不釣り合いな、あどけない笑顔。

 無邪気に笑う姿はどこにでもいる普通の少年ではあるが、それでも彼は暗殺者。

 それも、この闇の世界を仕切る長のひとり〝白天〟。


「どうされたのですか? クランツ」


 クランツと呼ばれた少年は、軽く息をはずませ背の高いレイを見上げる。


「炎天がね、自分の配下の人間の大多数を使ってアルガリタに向かわせるらしいよ。必ずハルを捕らえて連れ戻すんだってすっごく鼻息荒くしてる」


「そうですか」


 と、静かに声を落とすレイの口許には、他人にはそうとは気づかせない程度のかすかな笑み。


「ハル、大丈夫かなあ。つかまったりしないかなあ」


 クランツは手すりに両手をつき、片足をぶらぶらとさせながら暗い灰色の空を仰ぎ見る。


「心配はないですよ」


「ほんと? ほんとに?」


「ええ、あの子をそんな弱い子に育てた覚えはないですから」


 先ほど浮かべたレイの笑みの理由。

 それは、炎天ごときがハルをどうこうできるわけがないという、嘲笑を込めたものであった。たとえ組織の長である炎天自らが動いたとしても、ハルを捕らえることはできないであろう。

 他の誰にも、ハルの自由を奪うことも組織に縛りつけることもできはしない。


『ハルは貴様が自ら手をかけて最高の暗殺者として育ててきた男。だが、それは組織のためではない。ハルがいつか外の世界に抜け出すためにだ』


 あなたの仰るとおりですよ、炎天。

 私がどれだけあの子を大切に育ててきたか。


「だよね」


 クランツはにこりと満面の笑みをたたえる。


「それとね、こんなことも言ってた。アイザカーンの組織に出向いて生き残った暗殺者の一人が誰かを突き止めるって。炎天はハルがそいつをうっかり殺し損ねたって思い込んでいるみたい。他のみんなはそうじゃないって気づいているけどね。ハルが一人だけを殺し損ねることなんかあり得ないのに。情けをかけたんだよ。ハルは容赦ないようにみえて、そうでないところがあるから。僕、ハルのそういうところが大好き! そして、その相手は女か子ども。アイザカーンの組織には女性の暗殺者もいるけど戦闘向きじゃないから可能性は低いかな。だから、僕の考えだと相手は子ども。さらに、その子は間違いなくハルの側にいる。ハルのことだから、その子を生かしてしまった以上、レザンの組織に追われる可能性が高いと考えて手元に置いて守ろうとすると思うんだ。ていうのが僕の考えだけど、レイはどう思う?」


「おそらく」


 クランツの問いかけにレイは静かに眼差しを落とす。


「アイザカーンの暗殺者が子どもであったのなら、その子の命を助けたのはハルと一緒にいたサラという娘でしょう」


 ああそうか、とクランツは納得したようにぽんと手を叩く。


「彼女にお願いされて、助けたってことだね」


 助けてしまった以上、その子を放っておくことなどハルの性格からしてできない、というのはクランツの言ったとおりであろう。

 その子は間違いなくハルの側にいる。


「うーん、でも惜しいなあ。せっかく組織から逃げ続けてきたのに、ここでばれちゃうなんて。僕にお願いしてきたら、ハルの代わりにアイザカーンの暗殺者全員、僕が始末してあげたのに。こんなことなら、ハルの行方くらいはつかんでおくべきだったかなあ」


 クランツは頬を膨らませ残念そうに言う。

 その口調はまるで組織から抜けたハルのことなど、探す気になればいつでも探し出すことができたのだというものであった。


「あ、でも、僕なら一人も生かさず全員殺っちゃってたけど。だけど、解せないのは、何故ハルはその貴族の男を生かしたんだろうってこと。もっとも、廃人同然となったんだから、生きているというのも微妙だけど。単純に好きな女の子を助けるためだけっていうわけじゃなさそうだね」


 そこで、クランツは眉間を寄せしばしうーんと考え込む。

 しかし、どんなに考えたところで答えはでないと諦めたのか、クランツは顔を上げた。そして、クランツの口から出た言葉は……。


「僕、アルガリタに行くことに決めたよ」


 瞬間、わずかだがレイの翡翠色の瞳に冷たい光が過ぎる。そのことに気づいているのかいないのか、クランツは続けて言う。


「そうえいえばさっき、サラって子の名前を聞いてレイ一瞬、動揺したよね。誰も気づかなかったみたいだけど、僕はすぐわかっちゃったよ。その娘、レイの知ってる子?」


 クランツの問いかけに、レイは肯定も否定もしない。

 ただうっすらと、その口許に微笑みを浮かべるだけ。

 しかし、クランツはレイの静かな笑みを肯定ととらえたようだ。


「そっか、レイの知り合いの子が今はハルの恋人か。何か運命的なものを感じるね。僕、サラって子に興味があるから会ってみようかな。ついでに、アイザカーンの暗殺者を雇ったその馬鹿な貴族の男を殺してくる。これ以上〝漆黒の疾風〟なんて騒がれたらハルが迷惑するだろうし」


「アルガリタの王宮に忍び込むつもりですか?」


 クランツはそだよ、と何でもないことのように言ってにっこり笑ってうなずく。


「あまり、無茶なことはなさらないように」


 レイが自分の身を心配をしてくれている。そう思ったクランツの表情が嬉しそうにぱあっと輝く。


「レイが心配してくれるなんて嬉しいな。うん、安心して。アルガリタの王宮に忍び込むのも、そいつを片付けるのも難しいことじゃないけど、レイがそう言うなら無茶はしない。でも、僕のこと気遣いながら、レイ、僕を殺そうとしているね」


 あたりでしょう? と、クランツはとくに警戒をするふうでもなく小首を傾げてレイを見上げる。

 クランツの石灰色の瞳が悲しげに揺れる。


「まさか、ご冗談を」


「いいよ、隠さなくて。だって、レイすごい殺気を放ってるよ」


 と言って、クランツは手を伸ばし、レイの腰に下げられた二本の剣に手を添えた。


「さっき、僕がアルガリタに行くっていったから、レイは僕がハルをここへ連れ戻そうとしていると思っているんだよね。それで、僕を殺そうとしている」


 表情を変えることなく、レイは静かな眼差しでクランツを見下ろした。


「そして、レイは組織を抜けようとしてる。それもあたりでしょう? 心配なんだねハルが……というより、そのサラって子のことがかな? ねえ、その殺気を解いてくれないかな。僕がレイのこと大好きなの知ってるでしょう。僕はレイとは戦いたくなし、戦うつもりもない。それにハルを連れ戻そうなんてそんな考え、これっぽちもないから。ハルの好きな子にも危害を加えるつもりもないよ。本当だよ」


 ね? とクランツはどうにかレイに信じてもらおうと、必死に言いつのる。


「ねえ、ひとつ聞いてもいい? サラって子はレイにとってどういう存在なの?」


「彼女は昔……」


 サラと出会った昔のことを思い出したのか、ふと、レイの眼差しが遠くなる。


「私がアルガリタへ仕事で行った時に危ないところを助けてもらいました」


「へえ」


 まさか本当にレイが答えてくれるとは思っていなかったクランツは、驚いた顔をする。


「もう、十年も前のことです」


 そこでクランツは首を傾げた。

 十年も前ということは、サラはまだほんの小さな子ども。

 そんな幼い子がレイの危機を救ったとはどういう意味なのか。

 しかし、クランツがその疑問を口にして踏み込んでくることはなかった。

 正直にサラのことをクランツに打ち明けたレイの真意は……。

 昔の恩人である彼女に何かあったら、この私が許さないという意味が含まれていた。

 うん、とクランツは何かを決意したようにうなづく。


「レイが組織を抜けるなら、僕も抜けるって決めた。レイまでいなくなっちゃうんじゃ、ここにいても意味がないからね。ねえ、一緒にアルガリタに行ってハルに会って驚かせてあげようよ」


「だめですよ」


「ええーどうして?」


 クランツはぷうと頬を膨らませた。


「違う意味でハルが驚いてしまいます」


 それもそうであろう。組織の長、それも二人が突然目の前に現れたら驚くのも無理はない。

 いや、驚くというよりも、怯えてしまうだろう。


「じゃあ、ハルが元気でやってるかこっそり見に行くだけでもいいよね。ハルが好きになった娘も見てみたいし、ハルが助けたアイザカーンの暗殺者もどんな子か気になるし」

 レイは困った人ですね、と静かに笑いようやく緊張を解く。


「安心しました」


「安心?」


「できることならあなたとは剣を交えたくはないと思っていましたから。本気であなたとやり合えば、おそらく私も無事ではなかったでしょう」


 組織を抜けようとしていたことも、この少年に読まれてしまった。

 そして、これからそれを実行しようとする時に、クランツと戦い痛手を負うのはかなり厳しい。

 敵にはしたくない相手だ。


「やだなあレイ、それ本気で言ってるの? 組織でも一、二を争う実力の〝漆黒の双剣(つばさ)〟に僕が適うわけないじゃないか。だいいち、僕そんなつもり全然なかったし、大好きなレイに剣を向けるなんて、あるはずないよ」


 突然、クランツが両手を広げ抱きついてきた。

 切実な目で訴えかけるようにレイを見上げる。


「僕はレイのことだけは裏切ったりはしないよ。本当だよ。信じてくれるよね?」


 その目に嘘や偽りは見られなかった。

 レイは静かに笑い、うなずいた。

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