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13 命の賛歌

 人気のない船倉の片隅に、ハルは両手で膝を抱え額をうめてうずくまっていた。

 殺戮の後の高揚とした気分が抜けきれない。

 レザンにいたときはそれは当たり前の感覚であった。

 人を殺すこと、それが仕事であり生きていくための手段だったから。


 目眩がする。


 ハルは肩を震わせ、手の中の十字架を強く握りしめた。


「レイ……」


 すがる思いでその名を呼ぶが、救いの手をさしのべられることは、もう二度とない。

 ふと、人の気配に気づき顔をあげると、視線の先、ローズがじっとこちらを伺うように扉の影から顔をのぞかせていた。

 ローズから視線をそらし、ハルはうつむく。

 あんな場面を見られてしまったのだ。

 ローズが自分を恐れてしまうのも当然である。


 どうってことはない。

 恐れられようがかまわない。


「探したよハルお兄ちゃん。おじさんも、ずっとお兄ちゃんのこと探し回ってた。こんなところにいたなんて」


 船室に戻ればきっと他の乗客を怖がらせてしまうと思ったから、だから、ずっとここにいたのだ。


「大丈夫?」


 心配そうな声でローズが近づいてきた。そして、ローズの小さな手がそっと手に重ねられ、ハルはぴくりと肩を震わせた。


「ありがとう。ハルお兄ちゃん。あたしたちを助けてくれて」


「どうして……」


 目の前にいるローズは恐れるどころか、いつもと変わらない笑顔を向けている。


「俺のことが怖くないのか?」


 ローズはううん、と首を振る。


「どうしてハルお兄ちゃんのことを怖いと思うの? お兄ちゃんはあたしたちの命の恩人じゃない。悪い奴らからあたしたちを救ってくれた。この船を守ってくれた。そうでしょう?」


 ハルはわずかに顔をゆがめた。


「あれ? ハルお兄ちゃん泣きそうな顔してる」


 ハルの正面にぺたりと座り込んだローズは、覗き込むようにして見上げてきた。


「つらいの?」


「違う」


「苦しいの?」


 ハルは否と首を振る。


「あのね、泣きたいときは思いっきり泣いてしまうほうがいいんだって」


 その言葉に、ハルは膝に顔をうずめ肩を震わせて泣いた。


「もう一度……あの歌をうたって」


 小さくうなずいてローズは息を吸った。

 ローズの澄んだ歌声があたりに響く。

 アルガリタの民謡。

 アルガリタの女神を讃える歌。


 優しい歌が胸に浸透していく。

 心を穏やかにさせる優しい歌声。

 それは、尊き命を讃える聖なる旋律。

 死した心をよみがえらせる。

 命の賛歌(うた)


『泣きたいときは我慢をせずに泣きなさい。それはあなたに人としての心が残っている証なのだから』


 ハルの目からさらに涙が頬を伝いこぼれ落ちた。


 アルガリタに行こう。

 そこで、新しい自分の道を刻んでいこう。


「とうとうお別れだな。ま、おまえのことだ、心配はしないが無茶だけはするなよ。友達もたくさんつくれ。恋人もだ。それとあれだ、もうちっと愛想よくしろ。あと……」


「心配してないって言っただろう?」


「そうだったな」


 腰に手をあてがははと笑うグリュンに、ハルは肩をすくめかすかな笑みを浮かべた。


「はは、まだまだぎこちないが、上出来じゃないか? まあまあの笑顔だぜ」


 じゃあなと、手を振ってグリュンは去っていこうとする。


「ありがとう……グリュン」


 ハルの掠れた声がグリュンの背中に投げかけられる。


「おう」


 グリュンは肩越しに振り返り、にやりと笑ってもう一度手を振った。


「また……」


 といいかけて、ハルは言葉を飲む。

 しかし、グリュンはハルの言いたかったことを察してくれたらしい。


「おう! またどこかで会ったら、護衛を引き受けてくれよ」


 グリュンは片目をつむり親指を立てる仕草をとった。


「言っておくが、俺は高いぞ」


「なあに、きっちり仕事をしてくれるなら金は惜しまないさ。あっと、いけねえ忘れるとこだった。レイからの最後の伝言だ」


「最後の伝言?」


 レイからの伝言という言葉にハルの胸がどきりと鳴った。


「十字架を持ってアルガリタの町の外れにある教会に行けだとよ。祈りでも捧げろってことか? よくわからんが、ちゃんと伝えたからな」


 ハルは懐におさめている十字架に手をあてた。


 結局、何故アイザカーンまで行ってはならないのか、その理由ををグリュンから聞くことはできなかった。


 だが、もういい。

 アルガリタに行くと決めたのだから。

 そうして、ハルはアルゼシアの港に降り立った。


「ハル、お兄ちゃん!」


 そこへ、船から降りたローズがハルの元へと駈け寄ってきた。


「ハルお兄ちゃんともここでお別れね」


「そうだね」


「ハルお兄ちゃん、ほんとうにありがとう」


 いや、と言って、ハルはわずかにまぶたを落とし笑った。


「ねえ、ローズ」


「うん? なに?」


 ハルはローズの顔をひたと真っ向から見つめる。


「泣きたいときは泣けばいい。それ、誰が言った言葉?」


 ローズは黙り込んでしまった。その顔から無邪気な笑みがすっと消える。


「まあいいや。ローズも元気でね。それと、俺のほうこそありがとう」


 ローズに背を向けハルは歩き出した。

 グリュンは賑やかな港町に消えていこうとするハルの後ろ姿を見つめていた。

 船の縁にもたれかかり煙草を取り出す。

 その表情はどこか切ないものがにじんでいた。


「悪いなハル。おまえが守り抜いたこの船は、実はな……」


 沈んだ声を落とし、グリュンは煙草の煙を吐き出した。

 そして、もう一人。

 去って行くハルを見届けたローズは、三つ編みを解き軽く頭を振った。

 潮風に長い髪が揺れる。


「これで、やっとあたしも自由ね」


 ローズはうんと大きく伸びをする。

 娼館にとらわれ地獄でしかなかった毎日。

 そんなある日、レイと名乗る男が現れそこから救いだしてくれた。

 自由を与えてくれると約束してくれた。


 ただし、条件が一つあると言って。


 それは、この船に乗り、ある人物をアルゼシアへと導くこと。

 それが、自由と引きかえの条件だった。

 じゅうぶんすぎるくらいの報酬はもらった。

 それどころか、この港町での仕事もレイが見つけてくれた。

 レイにこの国の言葉も教え込まれた。

 おそらくこの先、生きていくには困らないであろう。


「レイ、これでいいのね。あの人をちゃんとここで降ろすよう導いたわ。約束は、はたしたわよ」


 鳴り響く長声一発にハルは一度だけ港を振り返る。

 出港の合図とともに船はアルゼシアの港を離れ、最終目的地アイザカーンへと旅立っていった。

 その船がアイザカーンに辿り着くことはないと、この時のハルは知るよしもなく。

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