11 海賊襲撃(1)
レザンの大陸を発ったこの船も、長い航海を経ていよいよ、あと二日でアルゼシア大陸へ到着するというところまでやってきた。
船旅の半分の行程は終えたことになる。
ここまでの航海は船内も海も天候も何もかも穏やかすぎるくらい平和で、こんなことは滅多にないことだと、船長はじめ乗組員たちも信じられないと、驚いていたほどであった。
これはまさに幸運ともいうべきか。
あるいは、この船に幸運の女神でも乗船し船の安全を見守ってくれているのかとさえ言っていた。
「その女神とやらは、おまえさんのことかもしれんな」
「俺は男だ」
「いやいや、おまえさん、女装すれば間違いなく女でいけるぞ。それも、ちょっと顔立ちのきつい極上の美人だ」
そんなことを言いながら、グリュンはまじまじとハルの顔をのぞきこむ。
「おまえさんたち、仕事で女の格好もするんだろ?」
グリュンの言うとおりレザンに女の暗殺者はいない。したがって、必要とあらば、女性の姿に扮することもある。
「おまえさん、レイの女装を見たことがあるか? 仕草、立ち居振る舞い、言葉使い何もかも、ありゃ、女よりも女らしい美女だったぜ。あの涼しげな流し目に見つめられて思わずぞくっとしたもんだ」
その時のことを思い浮かべているのか、グリュンはにやにや笑いを浮かべている。
「最初はレイだと気づかすに、口説いちまったぜ」
「あんた、馬鹿だね」
飲み友達に口説かれて、レイもさぞかし迷惑だっただろうに。
「ああ、俺の男がこの女を抱きたいといきり立っちまって、思わずやらせてくださいお願いします! と土下座までしちまったくらいだ」
「ローズのいる前で下世話な話をするな。外に放り出すぞ」
船室でそんな会話をしているハルとグリュンを、側ではローズがきょとんとした顔をしながら聞いている。
「ハルお兄ちゃん、何の話?」
ハルはやれやれと肩をすくめた。
「何でもないよ」
「ふーん」
そして、いよいよ海賊の根城とされる問題の海域にさしかかったもののやはり、これといった怪しい船が近づいてくることもなく、海賊に襲われるという心配もなかったかと思った矢先のこと、何かが衝突するような強い衝撃に船体が大きく揺れた。
「きゃっ」
足をよろめかせ体勢を崩すローズの腕を、ハルは咄嗟につかんで引き寄せ胸に抱き込む。
何やら外の気配が騒がしい。
乗客たちがざわざわと騒ぎ始めた。
「いてて……何があった?」
身体を支えきれずにグリュンが側の壁に背を打ちつけ顔をしかめて天井を仰ぐ。
「この船に女神は乗っていなかったってことではないのか?」
肩をすくめて言うハルにグリュンは青ざめた顔をする。
「それって……まさか……」
「海賊だ! 海賊が現れた!」
まさか、と口を開けるグリュンの声に重なるように、扉の前を走り去っていた乗組員の叫びに、乗客たちはざわりとする。
「くそ! まさか、ほんとうに海賊が現れるとは!」
グリュンは舌打ちをしながら毒づいた。
「ほんと、ついてないね」
声を落としてハルはくつくつと肩を震わせ笑う。
「おまえなあ……この最悪の状況で、よくそう落ち着いていられるな」
「慌てても仕方がないだろう」
たかが海賊など気にとめるほどのことでもない。
しょせん、ならず者の集団。
自分にとって敵ではない。
しかし、ハルははっとなって周りを見渡した。
肩を寄せ合い怯える人々。
すすり泣く者。絶望に打ちひしがれる者。部屋に充満する恐怖に、小さな子どもたちは火がついたように泣き出した。
「うるせえぞ! がきをだまらせろ!」
子どもの泣き声を聞きつけ、海賊たちが船室に押しかけてこないかと心配した大人たちは声を張り上げ子どもの母親を怒鳴りつける。
母親は回りの者に謝罪の言葉をのべながら、おろおろしながら子どもを抱きかかえる。
「泣き止まねえなら外に出ろ! こっちまで被害がおよぶだろ!」
「すみません。すみません……」
子どもの名を呼びながら、泣きやませようと必死に我が子をあやす母親の顔に、もはや余裕はない。
「お願いだから泣きやんでちょうだい。お願いだから……」
そんな彼らからハルは静かに視線をそらした。
この状況で落ち着いている自分が不自然なのだということに気づく。
船の速度が落ち、やがて停止する。
甲板ではなにやら言い合いを始めているらしいが、ここからでは何を喋っているのかまで聞き取ることができない。
とはいえ、穏やかではない状況が繰り広げられているのだろうが。
抱え込んでいたローズの小さな肩が小刻みに震えている。
ローズが震える手でハルの衣服の裾を握りしめた。
「お兄ちゃん……あたしたち、どうなっちゃうの?」
ハルは戸惑った表情をする。
大丈夫だ、と安心させる言葉をかけてあげるべきなのだろうか。
心配はない、と優しく頭をなでてあげるものなのだろうか。
こういうときはどうやって、人に接したらいいのだろう。
『ハル、あなたに好意を寄せてくれる人がいたら、その人を大切にしてあげるのですよ。そして、その人を守っておあげなさい。あなたならできるでしょう?』
レイの言葉が脳裏を過ぎったと同時に、ハルはしがみついているローズの身体を引きはがし剣を手にする。
みなの視線がいっせいに剣を手にしているハルに向けられた。
その目は何をするつもりだと問いかけている。いや、おまえのような若造が出ていったところで何ができるという目だ。
乗客の中には立派な成人男性もいたが、誰一人、自分も加勢しようと立ち上がる気概のある者はいない。
もっとも、加勢されても邪魔になるだけだが。
「ハル、どこに行く!」
「お兄ちゃん!」
船室から出て行こうとするハルを、すかさずグリュンが引き止める。さらに、重なるようにローズが行かないで! と、悲鳴をあげた。
「どこに? 見ればわかるだろう? 護衛としてのつとめを果たすだけだ」
しかし、グリュンの手が行かせまいと、ハルの腕をつかんだまま離さない。
「待て、派手な騒ぎを起こしたら後々面倒なことになる。おまえはここでおとなしくしていろ」
ハルは薄く笑ってグリュンの手を解く。
「ここで海賊どもに船を沈められるほうがよっぽど面倒ではないのか?」
「だが!」
「レイはあんたの護衛をしろと言ったんだろう? それはつまり、何があってもあんたを死なせてはならないという意味だ。俺はそうとらえたが?」
「ハル、おまえ……」
「だめ、行かないで! ハルお兄ちゃん、死んじゃう。海賊たちに殺されちゃう!」
行かないで、とばかりにローズが小さな手を伸ばし、ぎゅっと腰にしがみついてくる。
ハルはおそるおそる手を伸ばし、ローズの頭に置いた。
そっと、小さな頭をなでてみる。
柔らかい髪の毛の感触。
「安心して。俺は死なないよ」
それでもローズはいやいやをするように首を振る。
「必ず戻るから」
そう言い残して、さっと身をひるがえし、ハルは船室から出ていった。
「お兄ちゃん!」
背後でローズの悲痛な叫び声を聞く。




