10 あなたを守るために(3)
何度もクランツに連れられあの辺りを歩き回った。
何でもないようなことを説明しながら、クランツは港に出る近道を教えてくれていた。
あの時はわけもわからずうなずいたが、たった一度だけと言った真意は、一度そこを通れば他の者に近道がばれてしまう可能性があるからだ。
その一度だけが、まさに今夜。
こうなることをクランツが予想していたのかどうかわからない。が、印をつけた木、特徴のある木を辿れば、迷うことなく港に辿り着く。
朝までに行ける。
「急ぎなさい。背後にいる者たちはわたしが片付けます」
「そんなことをしたらレイが!」
「わたしの心配などいりませんよ」
おもむろに、レイは手の中に何かを押し込ませてきた。
ハルは手の中のそれとレイを交互に見る。
「これは」
いつもレイが身につけていた十字架だった。
「持っていきなさい。きっと、役にたつはずですから。ハル、必ず生きて。それ以外わたしは何も望みません」
震える唇を噛みしめ、ハルは目に涙を浮かべてレイを見つめ返した。
「おかしな子ですね。泣くことはないでしょう?」
「泣きたいときは泣けっていつもレイは言った……っ!」
不意に引き寄せられ、ふわりとレイの腕に抱きしめられる。
冷え切った身体にレイの体温が伝わってくる。
レイの身体から優しい匂いがした。
レイの温もりも匂いも、決して忘れないようにとハルはきつくしがみつき、深く息を吸う。
「教えられることはすべてあなたに教えました。誰にも負けない力をあなたは手にしたはず。この先は、あなたの力で生きていくのですよ」
レイの手が優しくハルの頭をなでる。
「こうしてあなたを抱きしめてあげるのも最後かもしれませんね。ほんとうに、あなたのことを弟のように大切に思ってきました。覚えていますか? あなたがここに来たばかりの頃、暗闇が怖いと泣いていたあなたを抱きしめながら眠ったことを」
ハルはきつく目を閉じうなずいた。
結ばれたまなじりから涙がこぼれ落ちる。
こらえることができなかった。
部屋の隅で膝を抱え、泣いていた俺をレイは手を差し伸べ自分のベッドに連れていってくれた。
そうして、朝までレイの胸にすがりつきながら眠った。
熱を出して寝込んだ時は、ずっと手を握りしめてくれながら看病をしてくれた。
こんな所にいたくはないと泣きながら駄々をこねた時は、こっそりと外に連れ出してくれた。
ろくに剣を扱うこともできず、泣いてばかりいた俺を時には厳しく、時には優しく根気よく教え込んでくれた。
ずっと、俺を守り続けてくれた。
いつもレイの優しい笑みがあった。
「優しくて、おとなしい子だったあなたに、暗殺という過酷な運命を背負わせてしまいました。つらい思いをさせてしまいましたね」
レイの胸の中でハルは首を横に振る。
そうでなければここでは生き残れなかった。いや、レイに目をかけてもらうことができなければ、とうの昔に死んでしまっていた。
時を同じくして無理矢理ここへ連れられてきた他の子どもたちの大半が、組織に馴染めず命を落とし、あるいは使えない人間として殺されていった。
そして、ずっと、レイに戒めのように言われてきたことがある。
外の世界で生きて行きたいと願うのなら、人の心を失ってはいけないと。
暗殺者として生きていくのにどんなに心を失ってしまえば楽だったろうか、なのに、そうはさせてくれなかったのは、いつか外の世界で生きていくため。
「……今まで、ありがとう。レイ、ずっと俺を……守ってくれて」
声が震え、涙がとまらなかった。
組織から逃げ出すということは、レイとも離ればなれになってしまうことだと今さらながらに気づく。
レイはふっと微笑むと、こぼれる涙を指先で拭ってくれた。
「ハル、二度と私の前に姿を見せてはいけない。今度会うことがあれば敵です。だから、わたしのことは忘れてしまいなさい。いいですね」
「忘れたりなんてしない! できるはずがない!」
「いいえ、その方があなたのためです。さあ」
躊躇うハルの肩を、レイは軽く押す。
前に進みなさいと。
「レイ……」
「さようなら、ハル」
背を向けたレイの微笑みは、一生忘れることはないだろう。
落ちる涙を手の甲で拭い、すべての思いを振り切るように、レイに背を向けハルは駆け出した。
手の中の十字架を握りしめて。
ハルに背を向けたと同時に、レイの口許から笑みは消えた。
半分伏せたまぶたからのぞく翡翠色の瞳に凝った闇が沈む。
いまだ状況を飲み込めていない男たちは、茫然と立ち尽くしたまま。
「黒天様、これはどういうことでしょうか……」
これから死にゆく者に答える必要はないと、レイはたずさえた剣を閃かせた。
もう、あなたを守ってあげることはできないけれど。
ずっとあなたの幸せを願っています。
この遠いレザンの地で──。
追跡者たちの断末魔を背後に聞く。
振り返ることはしなかった。
レイが与えてくれたこの好機を絶対に逃してはならないと、ハルは走る。
上空を仰ぎ見ると月も星もない相変わらずの暗い空。
この空が白み始める頃までには、クランツが示してくれた森を抜けなければ間に合わない。
涙で視界がかすむと、ハルは袖口で目を拭ったその時、横合いから新たな追っ手が飛び出してきた。
その数、八人。
まだ隠れていたのか!
ハルは腰の剣に手をかけようとして、その剣が先ほどレイとの戦いによって失ってしまったことに気づく。
思わず舌打ちがもれてしまった。
武器がないなら素手で倒すしかない。
まどろっこしい。
少しでも時間が惜しいというのに。
追っ手たちが剣を手に襲いかかる。
ハルは身がまえた。
その瞬間、ひゅんと空気を裂く鋭い音ともに、三人の追っ手が呻き声とともに次々と雪の上に倒れていく。
その胸には深々と矢が突き刺さっていた。
咄嗟に、矢が飛んできた方向を見上げるが、そこに人影を見つけることはできなかった。
誰かが、自分の逃亡に手を貸してくれた。
いったい、誰なのか。
だが、考える時間さえすら、惜しいとハルは再び走り出す。
「逃げたぞ、追え! 必ず捕らえろ!」
ハルを追いかけようとする残りの追っ手たちの前に、ざっと頭上から飛び降り彼らの行く手をふさぐ者が現れた。
「白天様……」
「何故、白天様がここに?」
「ハルが逃げました!」
「うん、知ってるよ。あそこでずっと見てたからね」
あそこと言ってクランツは木の上を指す。
「すぐに追いかけなければ!」
「その必要はないよ」
「必要ない?」
にこりと笑いながらクランツは剣を鞘から抜く。
追っ手たちは顔を青ざめ後ずさる。
小さくてもこの暗殺組織の長の一人。
いや、そもそもこの小さな少年の戦いを目にしたことがないのだ。ただ、知っているのは、実の父親である先代の白天を殺してその座を奪い取ったということだけ。
どれほどの実力があるのか彼らも知らない。
「い、急いで戻れ。報告だ!」
「白天まで裏切りやがった!」
「戻れ戻れ!」
「ごめんねー。そうはさせられないんだ」
クランツは大きく腕を振り上げ、剣先で地面の雪を勢いよく掻いた。
ざっと、辺り一面に吹き上がる雪煙に、視界を奪われた追っ手たちは戸惑いの声を口々にあげる。
その声が悲鳴となり、呻き声にかわり、やがて場内は水をうったかのような静けさをとり戻す。
霧がかかったような白の薄膜が鮮血色に染まりながら、再び地に舞い落ちる。
数分後。
視界をおおっていた雪の紗がのぞかれ、辺り一面に広がる血の色に染め上げられた雪の大地にクランツは一人たたずんでいた。
その顔に笑みを浮かべて。
足元に転がる男たちの身体ははぴくりとも動かない。
すでに息をしている者はいなかった。
クランツはにっこりと笑って背後を振り返る。
「ハル、ばいばい。お別れできなくて残念だけど、またいつか会おうね。それまで元気でね」
月が消えた漆黒の闇夜。
追っ手を退けるための三ヶ月に一度の船。
港への近道である、真冬の凍ったマレナ湖。
姿を隠すための早朝の濃い霧。
すべての偶然ともいえる出来事が重なり、さらに、これまで密かに広げてきたレイの人脈による者の助けもあったことにより、初めて組織からの脱出を果たすことができた。




