幸せな博士
すでに三月も終わろうとしているが、この地方の雪は未だその存在感を弱めない。針葉樹に積もった雪を吹き飛ばす風の音と、遠くで何かしらの獣が吠える以外、その世界を騒がす存在はなかった。彼女が訪れるまでは。
モノクロの景色が広がる中を、オレンジ色のワーゲンが走ってゆく。白いキャンバスにてんとう虫がとまったように、その車は目立ち、そして浮いていた。ワーゲンはゆっくりと、高い雪壁の前まで進み止まる。
「なによこれ、真っ白でどこが入り口だかわかりゃしない」
ワーゲンの助手席から女が顔を出し毒づいた。道らしきものを辿ってきたが、その先は白い壁により閉ざされていた。開けた窓から流れ込む冷気が顔を引っ込めたとたん雪の壁は二つに割れた。
「もすかして辰巳先生さんかい?」雪の割れ目から年老いた警備員が現れ、つよい訛りで話しかけた。
「そうよ、私が辰巳章子。本人よ」
女は車から降りようともせず、警備員に応える。
「ああ、やっぱし。でも、もっと歳いった人かと思ってました。なにしろ学者先生だなんて聞いてたもんでね。どうぞ入ってください」
「ちょっと、身分証とか確認しなくて良いの? ここは刑務所じゃないの」
「ああ、忘れてた。なにしろこんなとこに客来るの久しぶりだから」
警備員は呆れ顔の女が提示するカードをのぞき込む。そこには大学の名と学部名が有ったが、警備員は顔写真のみを確認し親指を立て微笑んだ。辰巳章子は引きつった笑みを返す。そして、運転席に座るより若い女に車を進めるように指示を出した。
看守の一人に先導され、辰巳章子は長く暗い刑務所の廊下を進む。そのすぐ後に運転手兼研究助手の大学院生、橘カスミが続いた。
「先生、いやに静かですね。映画なんかじゃもっと騒がしいのに、なんか気が抜けちゃいました」
その口調から、彼女がはしゃいでいるのが解る。大きい二重瞼の瞳は、忙しそうに上下左右へと動いていた。
「社会見学に来たのではないのよ。橘さん」
黒縁のメガネの位置を直しながら章子は軽く叱咤した。
「ごめんなさい、私こんなとこ来るの初めてだから」
「私も初めてよ」
二人の女は、建物には相応しくない豪奢な部屋へと案内された。革張りの大きなソファーの周りは、金ぴかのトロフィーが囲んでいる。その殆どにはゴルフクラブかボール、もしくはスイングしている絵が描かれていた。部屋の奥に位置する大きな出窓からは、弱々しくも日の光がふんだんに取り込まれている。
「ああ、あなたが小林教授のお気に入りの辰巳さんかい。……話は聞いてるよ」
逆光のせいで黒い影となっていた男が、二人を招き入れた。男は二人をソファーへと優雅な仕種で導く。男は頭が半分はげ上がり、眉は薄く、ダブルのスーツを着込んでいなければ囚人と見分けられないほどの悪人面だった。
「所長の岩本だ。よろしく」
全く感情がこもっていない口調で、男は挨拶する。
「辰巳章子です。この子は橘カスミ、私の生徒で今回の手伝いをしてもらいます」
所長は煙草に火を付け、細長く煙を吐き出す。カスミには、その動作が深いため息をついたかのように感じられた。
「……私もね、若いころにあなたの先生、小林教授に大変世話になったものだから、今回の申し出を聞いたのだけれど、私の立場上、かなりあぶない決断なのだよ。……囚人を人体実験に使うなんて事は」
俯く所長に、章子は努めて明るく説明を始めた。
「安心して下さい。人体実験などとは考え過ぎです。今までの動物実験の結果、副作用が現れた例は皆無です。それになによりこの実験は、ここの囚人の為に行われるべきモノと言ってもよいものです」
「実のところ、私はどんな研究をあなたがたが行うのか理解していないのだよ。そこの所の説明をお願いできるかな。私のような無学な者にも解るように」
「解りました。橘さん。説明してさしあげて」
「はいっ。では、……SSRIという言葉をご存じですか? Selective Serotonin Reuptake Inhibitors の略ですが、日本では『選択的セロトニン再取り込み阻害薬』とも呼ばれます」
普段カスミはゆっくりとした口調であるが、英語の箇所だけは早口で語っていた。
「いいや、初耳だ」
所長はかぶりを振る。
「今、合衆国では総人口の一割がうつ病であるとも言われています。SSRIはこのうつ病を防止する薬品なんです。脳の伝達物質セロトニンを増やす働きをします。このセロトニンが増えると俗に言うハイな状態となりうつ状態を一時的に回避できます。また、一部の子供達に見られる注意力欠乏症を治すリタリンという薬品があります。これらの薬品はアメリカのスーパーで売られているほど一般化しています。怖いですね。リタリンなんてコカインと成分的にはほとんど同じなんですよ」
「必要な説明だけでいいのよ」
章子が口を挟む。
「ええと、それでですね。これらの薬品を総じて脳内薬品と呼びます。性格変更薬とも言われています。先生の……辰巳先生の研究はこの脳内薬品の世界に新風を巻き起こす画期的なモノなんです」
「それで、結局何なのかね」
所長は顔をしかめたまま硬直していた。
「もういいわ。私が説明します。簡単に言うと、新たな性格変更薬の開発につながる研究です。悪魔を聖人に変えてしまうような」
「そんなことが可能なのか?」
「凶暴性、攻撃性を著しく押さえ込む事とプラスαで可能です。動物実験の段階では、狼を羊のようにすることができました」
カスミは目を細めた。章子はあまりに多くを省略している。ただ、全てを語ったとしても、この所長は半分も理解できないだろう。
「ここの囚人でその薬を試そうというのか」
「そのとおり。極悪人が必要なんです。協力願いますね」
所長は長い間沈黙した後、小さく頷いた。
「あの所長さん、小林教授にそうとうな恩があるようですね。こんな無理な要求を聞いてくれるなんて」
「または弱みを握られているか、そんなことは私たちには関係ないわ。私はこの研究以外興味ないのよ」
辰巳章子と橘カスミは、二人きりで所長室に待たされていた。歴代の所長らしき人物の写真が二人の女を睨みつけるかのように飾られている。そんな部屋を見回しているカスミが突然ソファーから跳び起きた。
「どうしたの橘さん」
「いえ、携帯のバイブです。へんなとこ入れてたから擽ったくて。ごめんなさい。でも油断してました。こんな辺ぴな土地は圏外だとばかり思ってました」
章子は呆れ顔だ。
「だれからの連絡なの」
「彼氏からです。電話しろってメール。先生、ちょっと電話しても構いませんか?」
「長くならなければいいわ」
カスミが恋人と、うれしそうに話す姿を見ながら、章子は自分の半生を振り返った。思えば学問づけの毎日で、独り身を三十年保って来た。決して男を寄せ付けなかったというつもりはない。容姿も人並み以下ではない。なのに、何故恋人ができないのか。彼女の大いなる疑問の一つであった。
カスミが恋人との語らいを終わらせたと同時に、所長の岩本が部屋に戻って来た。
「お待たせしました。そちらの要望に叶う人物を五人選んでみました。この中から一名選んで下さい」
「一名では比較対照できません。最低三人お貸し願いたい」
「それはできない。こちらとしても、自分の身がかわいいのでね。一人ならば、万が一の場合でもなんとかできるが、三人いっぺんでは対処しきれない」
揉み消すことができない、という言葉を所長は言い換えていた。
「わかりました。仕方ない。彼らの資料を見せて下さい」
所長が並べた資料には、その人物の写真と犯罪経歴が載っていた。婦女暴行、強盗殺人など、カスミには目を覆いたくなるような言葉が並ぶ。初めて自分が刑務所の中にいると実感した瞬間だった。辰巳章子は眉一つ動かさず資料を眺めている。
「この人のこと詳しく教えて下さい。滝川孝次三八歳、強盗殺人で懲役一三年」
「ああ、こいつね。こいつは生粋のワルですよ。起訴されたのはこの一件だけですが、他にも 殺人事件で二件容疑者として挙がっている。でも、どちらも証拠不十分で不起訴となっています。囚人としての態度も甚だ悪く、懲罰房に何度入れたかも覚えちゃいない。悪人が集まる刑務所の中でも、問題児はいるんですわ」
「罪の意識や、反省の色がないんですね」
「全く無いと言える。まさに人間の屑だよ」
「この人にしようかしら」
「ただ、こいつを使うには一つ問題がある」
「何ですか」
「あと二八日で出所するんだ」
「大丈夫、七日間で結果を出せます」
章子は臆することなく応えていた。
苦しみ悶える囚人が一人、看守にかつぎ込まれた。
「畜生! てめぇらなんてもの食わすんだ。絶対食中毒だぞこの腹痛は!」
男はベットの上で苦しみのあまり体を折った。顔中にしわを寄せ、額には汗が浮かんでいる。
「おまえ運が良いぞ。いま丁度往診の先生が来てなさるんだ。すぐ見てもらえるぞ」と、看守の一人が語りかける。
「なにが良いんだ馬鹿野郎!」
そんな騒がしい中、白衣を纏った二人の女が現れた。辰巳章子と橘カスミである。
「騒がしいわね。一体どうしたの」
「先生。こいつ腹が痛いというんですよ。一寸見てやってくれますか」
「なんだこいつは。いつものジジイじゃねえじゃねえか!」
「誰だろうと医者は医者よ」
章子の医者への転身ぶりの見事さにカスミは唖然としたが、負けじと看護婦役を演じた。
「ここは我々に任せて皆さんは退室して下さい」
カスミに押されるよう監視員たちは部屋を出て行く。
「あなた名前は?」
「名前なんて関係ねぇだろ! 早くなんとかしろ!」
苦しみながらもドスのきいた迫力のある声だ。章子もカスミも共にこの男の第一印象として、汚さをイメージした。髭はきれいに剃られ、髪は見事に丸められているのだが、その全体の雰囲気からは汚さを感じさせる。表情は苦しみにより歪みながらも、その危険な匂いを漂わせていた。
章子とカスミは、素早く男の四肢をベットに縛り付ける。
「おい! なにしやがる」
「名前は?」
「滝川だ…はやくしろ」
二人の女は一瞬目を合わせ頷く。すぐさま章子は滝川の口にガーゼを当てる。滝川は白目を向いて失心した。
「先生。こんな強引な方法で良いんですか?」
「いいのよ。真面に頼んでもさせてもらえないでしょ」
「でも、食事に細工したり、眠らせて薬を打つなんて」
「この人のためにもなるのだから良いのよ」
カスミは不安を隠せない。
そんな生徒を顧みず、章子は着々と準備を進めている。
「ぼうっとしていないであなたも手伝って、橘さん」
「は、はい」
カスミはカバンの中から小さな木箱を取り出し章子に手渡す。章子はその木箱から慎重に液状の薬品を手に取り、注射針を刺した。
「これでこの男は生まれ変わる。明日の朝には効果が現れているはずよ」
「本当にこれは良いことなんですか? 人の人格を変えてしまうなんて」
「良い人格に変えるのだから、良いに決まっているでしょ」
章子は顔色変えず滝川の首筋に針を入れた。男は数回けいれんを起こした後、死んだように眠り続けた。
橘カスミは漠然とした罪の意識に駆られながら、眠る滝川を見つめていた。
翌日
「先生。目覚めました。滝川さんの意識が戻りました」
橘カスミは普段以上に明るい声で部屋に飛び込んで来た。
「…予想より大分早いわね」
「本当に大丈夫なのか。しっかりたのむよ」
不安げな所長が呟く。
「状態に変化は見られる?」
「まだ解りません。起きたばかりなので」
二人の女は所長の呟きを無視して飛び出した。
その時、滝川孝次は呆然と天井を見つめていた。いきよいよく扉を開けて入って来た女にも全く関心を示さない。
「具合はどう? 滝川さん」
虚ろな瞳が章子を捕らえる。まるで赤子のような目だ。
「腹痛は治まりましたか?」
「ああ先生、もう何ともない」
(効果があったみたいですね。昨日とは別人ですよ)
(まだ解らないわ。データを取ってみないと)
二人の女は視線で語り合う。
「気分はどう? おかしなところはない?」
「ああ、…何故かすごく頭の中がすっきりしている。晴れ晴れとした感じだ」
そう言い終わってから、男は無邪気な笑顔を見せた。四十前の囚人とは思えない清々しさがあった。
しばらくの間章子とカスミは血圧や脈といった簡単な診断を行った。外見にも数字にも異常は見られない。滝川はその間、非常に素直に二人の言うことを聞いていた。
「滝川さん」
「なんだい先生」
「一寸お話ししましょうか」
章子と滝川は膝が付くほどの距離で向かい合い座った。カスミは密かにカメラを設置し、その状況を記録する準備を行う。
「あなたは何故ここに容れられたの?」
「俺は……」
カスミは今にも滝川が暴れだすのではないかとどぎまぎした。
「俺は……人を殺したんだ」
「何故殺したの」章子の口調は厳しくなっている。
「何故? 何故だろう。解らない。金が欲しかった。それで田中と計画したんだ。あの医者の家に忍び込んで……嗚呼……」
「殺したのね。その医者を」
「ああ、見つかって、騒いだから、首を絞めた」
滝川はぐったりと首を垂らしている。カスミの位置からはその表情が見えない。
「悪いことをしているという意識は無かったの?」
突然章子の声が強くなる。滝川の体がびくりと動く。
「あなたはそれ以外にも人を殺したことがあるでしょ」
「……ある」
男の声は上ずっている。
「何故繰り返すの。罪の意識は無いの?」
「いつも、いつも田中が一緒だった。でも、捕まるのはいつも俺だけだ、あいつは許せない」
「そんなことは関係ない! あなたに罪の意識があったのか聞いているの!」さらに口調が強まる。
「……無かった。その時は」
「何故、死んだ人はもうこうして話すこともできないのよ。あなたがそうさせたの。解っているの? 残された家族の気持ちは?」
「アあぁ…嗚呼!」
ついに滝川は泣き出した。子供のように、か弱き少女のように手で顔を覆い大声で泣いた。指の隙間から涙がとめどなくこぼれている。
「俺は、なんて事をしちまったんだ。俺はなんて罪深き男なんだ」
実験は成功した。辰美章子の開発した成分は、脳の大脳皮質を刺激し、理性を異常なまでに高めることで、この悪人を改心させたのだった。
カスミはその師に「成功しましたね」と、視線を送ったが、章子はそれに気づかなかった。章子は涙ぐみ、泣き叫ぶ男を一心に見つめていた。
「どうだった。副作用はないだろうな」
所長室に戻って来た辰巳章子に岩本はつっかかった。
「大丈夫です。全て予定どうりです」
何故かその言葉には、いつもの堂々とした章子の覇気が、カスミには感じられなかった。
「所長さんも見て下さい。彼の変わりようを」
先程の状況を撮ったビデオを、一人元気なカスミが準備する。
「これが、本当にこれが滝川孝次なのか」
所長は食い入るようにモニターを見ている。
「凄い。まるで別人じゃないか! 凄い発明だ。こんな薬が広まってしまえば私の仕事が無くなってしまうな」
言い終わると所長は下品な笑い声を上げた。
「おめでとうございます先生。ノーベル賞も夢じゃないですね」
「ありがとう。でも、もう少し様子を見ないと…薬は約十二時間で切れるから…気をつけて与えてね」
やはり章子はどこか気の抜けたように、カスミには見えた。
それからの一週間は、さらに細かなデータ収集に当てられた。滝川は子供のように純粋となり、日に二回の薬品投与も素直に受けた。そして、始終罪の意識にさいなまれていた。終いには他の囚人たちとの生活が営めなくなった。四六時中、涙ながらに懺悔の言葉を聞かされては無理も無いことだ。そのため、この囚人は特別に個室で出所までの時間を過ごすこととなった。辰巳章子は、寝る時間以外は滝川と時間を共にするまでに熱心にこの男を調べていた。だが、橘カスミはある疑いを抱いていた。章子には、実験対象以上の関心を滝川に寄せているのではないかと。その疑いが決定的となる出来事があった。
「橘さん。私、いつも同じ服でおかしくないかしら」
予想外な師の問いにカスミは戸惑った。ファッションの話など、これまで一度たりともしたことがなかったからだ。
「そ、そんなことありませんよ。私だって、そんなに服持って来てませんし」
「そうよね。じゃあ、一寸町まで二人で買い物にいかない?」
「ええ、行きたいのも山々ですけど、時間が無いのではありませんか? 私達には」
「そう、そうよね。ごめんなさい。変なこと言ってしまって」
小さくため息をつき去る章子の後ろ姿を見て、カスミは確信した。先生はあの男に恋をしているのだと。
新薬投与から二週間という時間が流れた。七日間で結果を出すと豪語していた辰巳章子であったが、未だこの地を離れられないようであった。
「先生。そろそろ大学に戻りませんか? 十分すぎるくらいのデータが集まったはずです」
「もう少し、もう少しだけお願い。まだ調べたいことがあるのよ」
カスミの言葉はほぼ無視される状態が続いていた。章子は益々滝川と過ごす時間が増えていた。
カスミは変わり行く師の姿に、漠然とした胸騒ぎを感じていた。だが、一旦目覚めてしまった章子の気持ちを押さえ込むことは、彼女には不可能であった。
「今日の体調はどうかしら滝川さん」
辰巳章子は他の誰にも見せたことのない笑顔で語りかける。
「ああ、先生。あの薬をもらうようになってから、頭の中の霧が晴れたようにいい気分だ。だけど、私は自分が許せない。私は人間の屑だ。最近は、死んで償おうと考えている」
滝川の言葉に女は涙ぐむ。
「駄目、確かにあなたは重い罪を背負っているわ。でも、あなたが死んでも仕方ないの」
「でも、遺族の方の気持ちを考えると……死ぬしか、私は死ぬべき人間なんだ!」
滝川はこの二週間で、見違えるほど老け込んでいた。それほどの葛藤がこの男には起こったのだ。例えるならば、原罪を意識して生まれて来た赤子のようなものだ。
そんな哀れな男を、章子は包み込むように抱きしめた。
「私はあなたを理解してるわ。あなたはいままでのあなたではないの。全て許してあげる」
罪深き男は章子の胸の中ですすり泣いた。章子も共に涙を流した。二人は時の経つのも忘れ、互いを強く抱き締め続けた。
「しょうがないでしょ。先生が帰してくれないのだから」
その頃、カスミは恋人と電話で言い争っていた。
「なによ、別れるって言うの? たった一週間遅れているだけじゃない! だいたいあなたは自分勝手過ぎるのよ」
「もう落ち着いた? 死ぬなんて言わないわね」
章子は優しく男の背中を摩った。
「先生! 頭が痛い! 急に……嗚呼!」
滝川は突然床に崩れ落ちた。
「いけない、薬が切れそうなのね。今とってくるからここで待っていて!」
部屋を出て行こうとする章子の手を男は掴む。
「嫌だ。一人にしないでくれ先生! また死にたくなっちまう」
「あなたには薬が必要なのよ! 直ぐ戻ってくるから」
だが、滝川は手を離さなかった。まるで万力のように、章子の手首を掴んでいる。
「橘さん! 直ぐに薬を持って来て! 橘さん!」
章子の叫びは空しく響いた。
「痛ぇ! 頭が痛ぇ!」
滝川の表情が見る見る変化して行く様が、章子の角膜に映った。痛みによるものではない。人格の変化があった。
「貴様! 俺に何をした! なにしやがった!」
地の底から響く悪魔のような声だった。完全に薬がきれたのだ。
「待って滝川さん……薬で……」
章子はもう喋ることができなくなった。太く力強い滝川の指が、彼女の首に巻き付いたのだ。章子の体は宙に浮いた。片足の靴が、音もなくリノリウムの床に落ちた。
そのしばらく後に、女は絶命した。
カスミは静かに受話器を置いた。口元がほころんでいる。彼らの口論はいつも男の謝罪と愛の言葉により終了した。だが、その笑顔も、突然の知らせにより消えうせることとなる。
「辰巳先生が死んだ?」
カスミの胸騒ぎは、最悪のかたちで的中したのだ。
それからは警察の尋問、現場検証など、慌ただしく時が流れた。そのため更に一週間、この地に留まることをカスミは余儀なくされた。辰巳章子の研究は、カスミと所長の手により隠し通されたため、滝川は一生を塀の中で過ごすこととなるだろう。彼もまた被害者なのかもしれない。
「大変だったけど、気を落とさないで。元気出せよ」
刑務所の門では、あの訛りの強い警備員が一人、カスミを見送る。
「ありがとう」
カスミは力無く答えて車に乗る。そして大きな紙袋を取り出した。
「おじさん。これを燃やしておいてくれませんか?」
「ああ、いいよ。ちょうど今焼却炉に火を入れたところだから」
カスミは小さく頭を下げ、ワーゲンを進ませた。銀世界の中を走りながら、カスミは章子の死に顔を思い起こした。
「先生、とても幸せそうな顔してたな」
オレンジ色のワーゲンが去った後にはまた、完全なモノクロの景色がよみがえった。焼却炉の煙突からは、辰巳章子の二週間の春の奇跡が、煙となって空へと散って行った。