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塔3~戦術の理⑤

 ファルス軍の追撃部隊を閉じ込めた後も、アスンシオン軍はすぐ手を出さなかった。

 レンはドゥシャンベ市に進出したファルス本隊がすぐに西方に転進しなければならず、彼らを救援できないと読んでいたからである。

 ファルス騎兵は皆勇猛だ。既に包囲された以上、力尽きるまで戦い1人でも多くの敵兵と斬り合う覚悟をしているだろう。そのような死兵に対し、簡単に手を出してはいけない。

 短弓の射程に入る事もなく、逆に彼らが追撃をしている時よりも静かなくらいだった。

 四合目に投棄された木箱には、銀貨が大量に詰められていた。実際は、もし木箱を空けられた時に時間稼ぎをするために詰めたものだが、彼らは箱を空けずに前進したので、その策は空振りに終わる。

 包囲されたファルス兵は、街道を外れ林野に逃げ込もうとする者もいた。しかし、地理不安な山野に街道を外れて分け入っても、待ち伏せていたマリル族と工兵隊によって確実に仕留められた。道に迷った機動力のない騎兵など、いくら熟練された手練であろうとまったく戦えない。

 すべて、このような戦闘を実施する事を計算して造られた街道である。なんとか包囲から逃れようと支道を探し回る兵達が次々と仕留められる様は、ファルス軍の精鋭を絶望させるのには十分であった。

 そしてそのまま日が暮れる。


****************************************


 11月のザラフシャン山脈の五合目付近は、夜は氷点下まで気温が下がる。

 ファルス軍の軽騎兵隊は、当初、三カ所に分断されたままでも士気は高揚していた。

 しかし、山岳地形の自然の猛威は、強力な法弾よりも余程響く破壊力で彼らを襲ってきた。

 そして夜間、マリル族のリルリル達2000は、夜間の暗さや斜面をものともせずに、随所で分断されたファルス軍の騎兵隊に襲いかかる。

 マリル族は、その増殖能力こそ凄まじいが、極めて非力で、大きな声ではいえないが、あまり頭の良くない種族である。

 しかし、環境適応した人間属と呼ばれるB属の地上系種族であるマリル族は、頭に丸い第二耳を持っている。

 もともと耳も良い彼女達は、さらにこの第二耳の機能を使う事で夜間でも視力に頼らず行動できる。さらに斜面に強いという特性を活かせば、こういう戦場なら非力であっても問題はない。

 そして、彼女達が積極的に襲いかかったのは、武装した兵士ではなく、彼らが所持していた数少ない兵站であった。食糧や燃料、天幕、衣服、矢弾などを運んでいる部隊に集中的に攻撃をかけて焼き払う。


 高地は夜になると急激に冷え込む上に、ザラフシャン山脈の北から流れ込む乾燥した強い寒気が、山を通過する際に、冷たい空気は暖かい空気より重いので降下するという自然のルールに従い山頂から吹き下ろす強風が発生する。

 この強風に晒された彼らの体感温度はさらに低下した。


 人間の体温は36℃前後に常に保たれている。しかし、体内の発熱機能を上回る寒気に晒されると、徐々に体温を失っていく。

 体温が33℃を下回ると身体が強く震えはじめ、30℃を低下すると意識の混濁が発生する。体内の生理機能は低下し、筋肉や内臓も正常に動作することができない。

 この低体温症は、冬だけではなく、日常生活でも起こりうるが、健康な成人男性がほぼ全員一夜で痛めつけられるほど猛威を振るう危険な場所はやはり冬山であろう。

 追撃する軽騎兵隊は急遽編成されたため、防寒への備えを怠っていたのは事実だが、寒さへの備えとは衣服だけではなく、風を避ける為の小屋や、乾いた薪や木炭などで暖をとる燃料が必要である。

 レンは補給大隊のラインに指示して、街道の要所に補給地点を設けて防寒用の装備や防風のための小屋を用意させていた。追撃部隊はそれらが決定的に不足しており、多少あったものも夜襲で全て焼き払われた。

 決死の覚悟で最後まで奮戦の決意を維持していたファルスの精鋭達も、氷点下の寒さと、夜襲への恐怖、そして包囲の絶望は彼らの強靱な精神をも打ち砕き、そして低体温症が彼らの肉体に止めを刺した。


 次の夜が明けるころには、彼らの闘争心はすでに折れていた。

 そして三日目の昼までに、ファルス軍追撃隊8000は文字通り全滅した。小雪の舞った二日目の夜を正気で乗り越えられた者はほとんどいなかった。多くが低体温症で動けぬまま死ぬか、気絶していた僅かな者達は捕虜となったという。

 ファルス軍随一の猛将と謳われたエラン・ジャーティマの行方はわかっていない。


****************************************


 数日後、第13師団は東路軍の負傷兵、敗残兵を連れ、サマルカンド市にいる中路軍へ合流を果たした。

 彼らは、友軍からの大きな歓声で迎えられる。

 ただちに負傷者の救護が行われ、負傷の軽度な者はサマルカンドの病院に収容される。そしてマトロソヴァ伯など負傷程度が重い者達は帝都に後送される事になった。

 ただし、サマルカンド市に収容されたのはラグナ族だけで、今回戦ったムラト族旅団は相変わらず郊外で待機である。ムラト族の負傷兵もそのまま郊外で手当てされた。

 サマルカンド市を南進していた中路軍は、カルシ南方で東路軍を撃破した敵の主力が素早く戻って来たことにより攻撃の機会を失い、現在は前衛部隊だけがその地点で敵と対峙中だという。

 西路軍も同様で、ケルキ付近まで進軍していたが、スミルノフ参謀長の攻撃中止命令を受けて停止、その後は、完全に攻勢の機会を逸してしまった。


 サマルカンドの王宮で、エルミナ王女エルマリアと総司令官テニアナロタ公ら幹部と対面したローザリア卿は、ドゥシャンベ市のエルミナ軍と東路軍の窮地を救い、敵の追撃軍を撃破した功績を讃えられ、王女より直々にエルミナ王国で活躍した騎士に与えられる聖六芒星勲章を授与された。

 アスンシオン帝国の勲章は皇帝が直接授与する慣例があるため、今回は行われない。


 授与式の前、ローザリア卿は頑なに今回の手柄は全てムラト族旅団、そしてその作戦を練ったのは団長のレンであると主張した。

 だが、エルミナ王国のランス族はムラト族という彼らからすれば劣った種族の活躍を認めないし、王国で最も名誉ある勲章を彼らが存在価値を認めない種族に与えるなど論外である。

 それにローザリア卿がいう、全てレンとムラト族旅団の手柄というのも語弊があった。

 軍隊の分掌からすればムラト族旅団は第13師団の所属である。工兵隊は第13師団の主力を借り受けていたし、戦闘の最終段階では第13師団の騎兵隊によって救われた。師団が手配した物資の積極的な提供も見逃せない。

 レンはエルミナ側に配慮すると言って、サマルカンドに入ることを拒んだ。ローザリア卿は何もしていないのに、勲章を受ける事を恥だと考え、辞退すると言いだしたが、レンはエルミナで最も名誉ある勲章を受け取っておけば、今後エルミナの太守や騎士達に発言権が増し、やりやすくなると言って説得する。

 こうしてローザリア卿だけが勲章を得る事になったのである。


****************************************


 式典の後、怒った表情でローザリア卿は第13師団の司令部に戻って来た。


「師団長、どうしたのです。そんなに眉間に皺を寄せられて」


 師団参謀のダルボッド・ヴィス・グリッペンベルグが怒りに肩を震わせて乱暴に扉を開閉する師団長を宥める。


「まったく、なぜ本隊の奴らは攻撃を開始しないのだ」


 結局、中路軍はカルシ南方まで進んだが、ファルス軍の本隊が戻って来たことを知ると、そのまま防御態勢に入ってしまった。

 東路軍は敗れたが、それでも総兵力は中路軍の方が大きい。ファルス軍は東路軍を撃破したばかりで疲労が大きく、まだ完全に守りを固めていない。物資も相当に消耗しているだろう。

 もちろん、損害はかなり出るだろうが、西路軍と合わせて攻撃すれば、戦力は倍以上になる。防御を固められる前に攻撃すれば十分に勝機はあったはずだ。

 だが、中路軍はそれをしなかった。スミルノフ参謀長は敵本隊の出現を聞いて攻撃中止を命令したのである。


「連携の取れていない組織っていうのは、そういうものですよ。離れた味方が被害を受けても、自分達にそれがいずれ降りかかるとは考えない。自分達の損害の軽減だけを優先しているうちに、いつのまにか敵に各個撃破されてしまうんです」


 レンは中路軍の動きをそう説明する。


「しかし、レン殿、本当に良いのですか? 今回の手柄は明らかに貴殿のものだ。私など評価されるに値しない」

「いやぁ、まだ言っているのですか。もう還暦間近の私が勲章なんて貰っても人生の役に立ちませんよ。貴卿が今後の人生でエルミナの住民に対して威張る為に長く使ってください。ああそうだな、貴卿が出世したら、老後の面倒を見てくれれば少し嬉しいですかな。私の妻は死んで、2人の娘は両方とも嫁に行ってしまったもので、老後は独居老人になって寂しく朽ちるのかと思うと少し心配です」

「それは…… 承りました。レン殿の為に帝都の大学教授の席を用意させます。その年金なら十分な生活が保障されるはずです」

「ははは、真面目に答えられては困りますよ」


 レンは笑って応答する。


「しかし、レン殿、我々はこれからどうなるのでしょう。東路軍が全滅し、敵の反撃が予想されますが……」


 師団参謀のグリッペンベルグ卿は今後の情勢について質問した。もちろんローザリア卿も一番質問したかった事である。


「そうですねぇ。今回の勲章劇で分かった事は、総司令部は今回の敗戦を大きなダメージとは考えていないということですね」

「といいますと?」

「いつも損害を軽微に収めたいと思っている者達は、今回の被害も過小評価するのでしょう。そういう人達は自分達が知りたい情報しか得ようとしないものです」

「確かに、スミルノフ参謀長はたった1割弱の損耗と言っていましたね」

「敵の軽騎兵に10000近い損害を与えたのだから、今回の戦いは引き分けだ。とも言っていたな」


 騎兵隊長のマーティン・リッツ・タクナアリタが補足する。


「ただ物量だけを論じればその分析は正しい。でも、精神上ではそうはいきません。もっとも、総司令部の幹部達は精神上で、損害は軽微だと信じたいと思う心が、その本質から目を逸らさせてしまうのでしょうけど」

「つまり、今回の敗戦を受け止めず、勲章の授与、つまりある程度の成功として収拾させて現実から逃避しようということですか」

「彼らが今回の結果について自分達をどう納得させようが構いませんが、他国や他の組織はそうはいきません。この敗戦を風向きが変わったと捉える国や組織もあるでしょうね」

「我々が事実から目を逸らしても、他人にはそうは映らないということですね」


 今回のレンの説明はそれほど難しくない話である。自国の敗戦や失敗を自分達に都合良く解釈して、本質から遠ざかり失敗の事実を覆い隠そうという事例は過去余りあるほどだ。だが、自分達にはそれでよくても第三者には通用しない。

 そしてレンの予想通り、エルミナ戦役の事態は周辺国と周辺勢力の対応の変化から転げ落ちていった。


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