塔2~古代人達の旅団②
第13師団から応援で来た工兵大隊長ニヴェル・コンドラチェフは、ムラト族旅団参謀のトーマス、旅団の工兵大隊長のジャンと共に、ザラフシャン山脈を横断する街道の測量を開始していた。
流域のザラフシャン川はサマルカンド北にあるアイダール湖の南側に注いでいる。水量はそれほど多くなく、急流なので船での移動は難しい。
初期段階として、さっそく街道上で邪魔になる大きな岩の除去の為、ムラト族の法兵隊が投入される。
法兵中隊長のマックとその部下達は異様に太っていた。だから、山岳地帯であるここまで来るのもひと苦労である。
予定より大幅に遅れて辿りつき法撃を開始したが、3mの岩を除去するのに迫撃砲弾3発も使う低火力だった。
「んー、今日は調子が悪いんだな」
大汗を掻きながら、マックは弁解した。
コンドラチェフはその火力の低さに唖然とする。旅団参謀のトーマスは苦笑した。
「低火力過ぎて驚いたでしょう。正直におっしゃっていいのですよ。事実を言われても我々は気にしませんから」
「いえ…… でも、少し火力が不足していると感じましたので、師団に法兵隊の援護を再度要請したいと思いました」
10月後半のザラフシャン山脈は涼しい。しかし、マック達ムラト族の法兵達は、少しの山登りを往復しただけで全身汗だくである。
そして、驚いた事に、彼らは法弾よりも、弁当と水筒をたくさん携帯していた。法兵隊にとってあるまじき事で、コンドラチェフはさらに苦笑せざるを得ない。
レン旅団長は最初から法兵隊の応援も要請していた。だが、貴重な法弾が無駄になることを恐れて、アスンシオン法兵連隊は隊員の供出を断ったのである。
法兵だけは師団に所属していても、法兵連隊の指揮下にある場合がある。それは法弾が高価であり供給する都合上、戦闘が予測される師団に集中的に配備するためであった。
特にラグナ族やノスフェラトゥ族の女性は、優れた魔力回路を持つ者がいる。もっとも能力が高い者達だけを集めた女性だけの部隊“ソミュア”は帝国で最高のPN回路を持つ精鋭法兵部隊だった。
この“ソミュア”隊は中路軍に参加しており、各師団に法兵隊を供出して配置、支配的に法弾を分配している。
当然、これからカルシ周辺のファルスの城砦を攻略するのだから、法撃の火力はいくらあっても困る事はない。
それがまったく本筋と無関係の街道建設、しかも岩の除去の為に法兵と法弾を出せなどといわれて、本隊が応じるわけがないのである。
師団長のローザリア卿も、要請したレン自身も、「ムラト族旅団は、岩を相手に増援がないと戦えない」と侮られては、それ以上要請できない。むしろ、これから砦を攻撃するのに、工兵隊が応援に来ただけでも僥倖である。
レン旅団長も当然それは分かっていた。実際に街道が必要になった際に、彼らの立場を良くする為の伏線として正式に要請したのである。
ザラフシャン山脈の山間道路自体は既に存在する。ただし、整備されておらず、いくつもの場所で一人通るのがギリギリ幅だったり、小川に渡し板を置いてあるだけだったり、斜面にロープを垂らしてあるだけなど、何か所も通り難い場所があった。もちろん荷車や馬の通行は難しいだろう。
レンはこの街道の各地点に自軍の6個歩兵大隊を配置し道路整備を行わせた。補給大隊は各地に物資の集積地を作り、騎兵中隊と偵察中隊が輸送を行う。工兵大隊と増援の第13師団の工兵大隊は中隊ごとに分かれて、工程の難しい場所の作業を行った。木の伐採や道路の幅をスコップで拡幅、簡単な障害物の排除するのは歩兵でもできるが、橋梁建設のような専門的な作業は小川に設置する様な簡単なものでも工兵でないと難しい。
コンドラチェフ自身、今回の任務である街道建設は、工兵の作業としては基本項目であり、それほど難しくないと考えていた。
もちろん街道建設の仕事が楽というわけではない。道無き場所に道を作り、大きな河川に橋梁を架け、馬車を一気に通すので直線で通すなどの要求がある場合は、かなり困難な任務の場合もある。
しかし、今回は人間と馬がより多く、素早く通れる程度に拡幅するというものなので、任務としては初歩的なものだ。
だが彼は、今回ムラト族と一緒に生活しながら作業するにあたって、いくつもの文化の違いを体感する事になる。
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「コンドラチェフさーん、エロ本使う?」
「え、エロ本!?」
コンドラチェフは休憩中、第6歩兵大隊長のラルフに女性の裸が描かれた雑誌を渡された。
「こんな山の中だし、溜まってるでしょう?」
彼は困惑する。R属のラグナ族は基本的に自慰行為をしない。H属のムラト族とは生殖の仕組みがやや少し違う。ラグナ族の男性は精子が溜まった後に吸収されるのが早く、常に新しい精子を作り変える仕組みになっており、高い受精力を維持させているのである。その結果、ムラト族の男性のように長く悶々としない。それに、R属は強い自傷抑制遺伝子が働いていており、自慰行為のような自傷行為の別表現に近い行動は精神的に抑制されている。
「いえ、お気持ちはありがたいのですが、私達は大丈夫です」
コンドラチェフは、丁寧に断った。
「ああ、あんたらラグナ族はオナニーしねえーんだっけか。しかし溜まった時どうすんの?」
「ええと、アリタに」
アリタとは帝都アスンシオンの貧民街で娼館が立ち並んでいる地域である。アリタに売られるというのは、娼館に売られるという隠語であり、「アリタに行く」というのは男性が性欲を処理しにいくという隠語である。
ラグナ族の男性は、精子は貯まらなくても性欲はムラト族と同様に溜まる。
「え、アリタとか高級娼館じゃないか、俺らムラト族はカネもねーし。アリタなんかいったらいっぱいカネ取られちまうからなぁ」
アスンシオン帝国は“啓蒙の法”を政治体制とする法治国家である。だから、アリタ地区も法律が整備されている。
娼婦であっても行政ルール、例えば税率や業務規定などが決められた職業形態である。だからアリタの娼館は値段が高い。さらに、政府寄りの娼館会社には政府の依頼を受けて従軍させている娼婦もいた。
もちろん、いつの時代も違法売春をする女は後を絶たず、それを支援した業種を行う法に従わない男もたくさんいる。
「そんなとこいかなくても、これ使って自分でヌきなよ」
「いやぁ……」
コンドラチェフはさすがに苦笑せざるを得なかった。
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「なぁ、コンドラチェフさん、カタナはいいよ。カタナは心だよ、魂だよ」
「はぁ……」
歩兵教連担当兼第1歩兵大隊長コジローは、大隊長の幕舎にいくつもの倭刀を持って来ていた。正座し、真剣な眼差しで磨いでいる。
コンドラチェフはこんなたくさんの刃物を寝所においてよく眠られるなぁ、と疑問に思った。しかし、コジローの話では好きな物に囲まれていると、余計に安心するという。
「俺のカーチャンはバサラ族だったんだが、なんつーか、俺はこのカタナって奴に種族の誇りを感じるんだよね。見てくれよ、この輝き」
ラグナ族にも蒐集家はいる。ただ、美術品や武器、工芸品などが多く、比較的似通ったようなものを集める傾向がある。だから人気の品は高額になる事が多い。ちなみに、倭刀はラグナ族でも結構人気の品だ。
倭刀の蒐集はまだ理解できる。だが、ムラト族の蒐集癖は多岐にわたり、さらに細分化している。ラグナ族では絶対集めないような、不気味な物、不思議な物、意味のない物まで対象となっていた。
「こっちのカタナは祖父から受け継いだ一品でな、なんでも、昔バサラ族の有名な剣豪が……」
コジローのカタナ解説は長々と続き、必要な打ち合わせに支障が出るほどであった。むしろ、語る為に集めているような気がする。
コンドラチェフはまた苦笑せざるを得なかった。
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「うむ、傑作だ」
工兵大隊長のジャンは、道の分岐に説明書きの看板を作っていた。街道建設は、道に迷わないように標識を作るのも重要である。
「これは…… 女性の人形でしょうか」
「フィギュアだよ」
コンドラチェフは、その標識を女性型の石で作られた人形が持っていたので、疑問に思う。このフィギュアという像は、なにかの宗教的な偶像なのだろうか。
「しかし、看板をわざわざこのような女性型の人形に持たせるために、こんな苦労をする必要はあるでしょうか?」
「萌は人生に必要だよ」
「萌、ですか。私にはわかりませんが、それはきっとムラト族にとっても大切な宗教的観念なのでしょうね」
女性の彫像という存在は文化的に珍しくはない。むしろどこの文化でも必ずあるといってもいい。このムラト文化では、きっとフィギュアという偶像が信仰の対象、萌という概念が宗教的定義なのだろう。
「そんなたいそうなもんじゃないよ。こう、ちょっと下からみるとパンツ見えちゃいそうなギリギリのスカートのフィギュアがハートにグッとくるって意味でさ」
「はぁ……」
コンドラチェフはまたまた苦笑せざるを得なかった。
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旅団唯一の航空騎兵ナデシコは、コンドラチェフに会うなり凄いテンションで迫って来た。
「イケメン! キタコレ 私、ナデシコです。はじめまして! 独身です!」
「ナデシコさん、航空騎に乗っていらっしゃるんだから、独身なのはわかります」
コンドラチェフはナデシコの余りの勢いに押され苦笑する。そしてすぐにレディに対する挨拶をする。ラグナ族の男性は、女性には誰にでも優しい。
「やっぱー、あたし、ムラト族だからー、ラグナ族の娘には、ちょっと見た目じゃ敵わないかなって思うんですけどー、コンドラチェフさんは、ムラトの女は嫌ですか?」
「嫌っていうことはないけど」
「じゃあ、好きってことですねー! やったー!」
「は、はぁ……」
「やっぱ男は身長高くてー、毛並み良さそうでー、イケメンでー、あたしだけに優しくってー、マザコンとか困るしー、ヘンな趣味とかないほうがいいですよねぇ~ ラグナ族の若い男性ってほとんどみんなそうじゃないですかー、やっぱりステキですよね」
「……」
「私、料理とかー洗濯とかー、ムラト旅団のだらしない男達の世話をみんなやってきたからこれでもすっごい得意なんですよー、村では一番の器量良しっていわれてるんですけど、ぜんぜんそんなことないかな、みたいに思うんですけどー、でもあたしかなりけっこう頑張ってるんじゃないかなー、みたいな。ねー、聞いてます?」
「は、はい。聞いています」
一方的に自分の好みを話すナデシコにコンドラチェフはさらに苦笑せざるを得なかった。
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アベル、セシル、カイル、ハウルの歩兵大隊長四人は休憩時間になると幕舎でいつもマージャンをしていた。
「コンドラチェフさん、マージャン強いの?」
「一応、士官学校では合宿の時に先輩にみんな教えられますね」
「お、じゃあ、次の半荘一緒にやる?」
「い、いえ…… 別にこんな山の中でマージャンしなくても…… 自然は爽やかだし、景色は美しいですよ。動物達を観察するのも心が安らぎます」
「えー、マージャンの方が面白いじゃん」
「だよねー外とか寒いし」
「山の上でやるマージャンが楽しいんだよ」
「はぁ……」
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騎兵中隊長のリーフは軍服マニアだった。
「お、コンドラチェフさん、工兵隊の制服もいいねぇ、ところでこの制服わかる?」
「これはアスンシオン騎兵連隊の上級将校の部隊の制服ですね」
「さすが! じゃあ、こっちのは?」
リーフが見せたのは、帝国軍の精鋭航空騎兵隊“ミラージュ”の制服である。もちろん女性用だ。
「……どうして女性用の軍服があるんでしょうか」
「え、だって可愛いじゃん。ナデシコに着てって頼んだら、『バカ! ヘンタイ! 』ってひどいよなぁ」
「は、はぁ……」
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偵察中隊のノートンは、帝都のグラビアアイドルの雑誌を熱心にチェックしていた。補給大隊のラインは地点に配置する荷物の置き方に拘っている配置マニアだった。
ムラト族は皆、なんらかの趣味があり、何かの性癖がある。
旅団長のレンを連れて工事の進捗状況の確認を行った際には、それについての質問も出た。
「コンドラチェフ君、ムラト族の中で暮らすのは疲れただろう」
「いえ…… 知らない事ばかり経験できて、とても参考になります」
「前向きだね。ムラト文化は特殊で孤立した感じがするけど、これでも世界と繋がっていないわけじゃない。特異なようだけど、彼らはそれで人生を愉しんでいるんだよ。それに、ムラト族の料理や文化だってラグナ族に受け入れられたものもあるさ」
「“マスタースパーク”っていう栄養ドリンクは私も飲んだ事あります。乾燥麺は籠城戦の時に食べましたね。あとはアイドルでしょうか。有名なアイドルのショーは帝都でも人気です」
「そうだなぁ、ラグナ族は華やかなのが好きだから、そういう文化の側面は受け入れられたんだろうね。私はね、遺伝子とか進化とかも、そうなんじゃないかって思ってる。みんな自分達に合うものを選んで取り入れているんじゃないかな。それは精神的なものであろうと肉体的なものであろうと関係ないんじゃないかなと思うんだ」
「種族分類学は疎いのですが、その意味は理解できます。しかし……」
ムラト族は確かに特異な文化を持つが帝国領内で“啓蒙の法”で認知された異種族であり、帝国人の意識として受け入れられるレベルの文化だと思う。
だが、コンドラチェフが旅団本部に戻って来た時、やはり特定の異種族の文化は絶対に受け入れられないと思ったところがある。
旅団本部にいるマリル族達はやはり人間としておかしい。
マリル族達は、帰宅したレンを見るや否や「あ、ご主人様だー」「ご主人様~」「ご主人様~」と連呼して1000人が一斉に擦り寄ってくる。しかも、全部同じ顔に、同じ声、同じ姿である。
そして、全ての娘が背中に子供を背負っていた。マリル族は、自分と同じ遺伝子の娘を単為生殖で産んでいる。だから大きさは違うが、同じ顔である。
頭の上の丸い耳、小柄な姿は、可愛い容姿と受け入れられる。だが、彼女達の食事風景、育児風景、睡眠風景は異常である。
彼女達は住んでいる森から出る時に連れだした飼い主に従うという。忠実な飼い犬のように、飼い主からしか食事を受け取らない。人間なのにペットにエサを与えるような状態である。さらに、ラグナ族でもムラト族でも育児はとても大切な文化であるが、マリル族の育児は背負っているだけで放置である。睡眠も、幕舎でお互いの身体を枕に丸まって雑魚寝である。
マリル族はアスンシオン帝国の“啓蒙の法”では人間ではない。もし、この種族が種族平等という観点から、帝国の傘下種族となり平等な人権を得たら相当な混乱が予想される、というか無理だろう。
例えば、選挙権。約20日で倍に増殖するマリル族が加わったような選挙制度、参政権はどうなるのかまったくイメージできない。財産権や遺産相続、親族や血族、その他も現行の“啓蒙の法”では取り扱えない事ばかりだ。
帝国は11歳までの初等教育は、義務教育として政府が教育費を全額出している。しかし、たった14日で大人になるマリル族に対する教育制度も、どのようしても平等というわけにはいかないだろう。
また、アスンシオン帝国では、女性は出産すると一時金の出産手当が支給される。これはラグナ族だけではなく、全ての種族の女性に対してである。出産に関する費用、負担軽減を図るためであり、それなりの金額である。また、これを導入することで出生届や戸籍をきちんと登録させるという効果も狙っていた。
ところが、マリル族は性交することなく単為生殖で発生し、たった7日で産まれる。女性の負担として出産は平等だからと、他の種族の女性達と彼女達が平等に出産手当を受け取っていいのか。少なくとも他の種族の女性達の理解は得られないだろう。
そもそも飼い主に対して絶対服従で、飼い主が「増えろ」と命令すれば倍に増え、飼い主が「死ね」と命令すれば自らを間引くという彼女達は、見た目は人間でも家畜同然である。
そういうマリル族の個体達と自分達が、同等の価値の命を持つ人間、同等の権利を持つ人間だと言われても、それを容易に受け入れることはできない。
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中路軍によるカルシ周辺に造られた敵拠点の排除は順調に進んでいた。索敵と火力を重視し、敵の弱点を突きながら無理なく攻略しているので味方の被害はほとんどない。
第13師団本部では、その検討が行われている。師団も指定された砦への攻撃を行っているが、負傷者は出ているものの、死者は出ていない。味方の被害が少ないという事は、良い事に思える。だが、慎重過ぎて時間が掛かり過ぎているようだ。
「総司令官のテニアナロタ公に、敵の外交に注意するよう提案したが、スミルノフ参謀長の反応は悪かったよ。カンバーランドはローランドと敵対していてすぐには動けないはずだし、デモニアは遠方にあって早期に兵力を展開できない。『現時点では注視する必要なし』だそうだ」
ローザリア卿は、以前レンに指摘された兵力差をひっくり返される策について警戒していた。だが、外交ルートからの情報では、両国に軍事的な特段の動きはない。ただし、両国はアスンシオンに対し外交的に強く非難を行っていた。事務レベルでは、参戦をチラつかされることもあったという。
「レン殿の話が杞憂であればいいのですが、私も次第に早期決着を図るのが正しいような気がしてきまして」
師団参謀のグリッペンベルグ卿は、最近、レンの作戦案に傾倒しているようである。
「レン殿か…… あれは味方や仲間からは好かれるが、敵には恨まれるタイプだよ。あれじゃ、敵は敵軍だけじゃなくて、自軍の中にもできるだろうね」
ローザリア卿は、レンをそう分析する。もしかしたら自分もそうかもしれない。皇帝のお気に入りということで出世している自分である。きっと自軍から恨まれるタイプだろう。
だが、あの男は、そんなことはお見通しのはずだ。だから、それすら事前に対策をしていそうな気がする。
しかし、いったい誰が敵になって、誰が味方になるのか分からない場合、対応しようがないように思える。敵になりそうな者を予測して、事前に防ぐような策はあるのだろうか。
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タルナフ伯率いる西路軍はマリ市に入城した。
市を包囲していたファルス軍5万は、西路軍と交戦することなく、マリ市周辺を略奪、道路など周辺インフラを破壊して撤退した。
包囲下の困窮状態であったマリ市の市民は、歓喜の声でタルナフ伯らを解放軍と出迎える。その歓声の中を入城するアスンシオン軍の将兵達は、もちろん悪い気分はない。
「これで、次期宰相殿の経歴に箔が付きましたなぁ」
「……」
第3師団長のプルコヴォ公は、厭味を込めて言った。タルナフが次期宰相候補であることは、既に周知の事実である。
現在のテニアナロタ公は、国内からだけでなく、エルミナのランス族から絶大な信頼を得ている。それは20年前のエルミナ内戦で現在のエルミナ王家に味方して活躍したからだ。
エルマリア王女やエフタル宰相、他のランス族の騎士達もテニアナロタ公には敬意を払うのはそのためである。
つまり、テニアナロタ公の後継ぎとして円滑に物事を進める為には、テニアナロタ公と同程度にランス族の信頼を得ている事が外交上望ましい。
タルナフ伯の名は、北方では勇壮で知られているが、エルミナでは無名だった。しかし、マリ市解放によって一気に高まったのである。プルコヴォ公はそれを指摘して煽ったわけだ。
プルコヴォ公達の派閥の貴族らは、進軍中に妨害などの味方の脚を引っ張る行為は特になかった。マリ市の太守や、エルミナの防衛担当の騎士から歓待を受けたタルナフ伯は、さっそくマリ市の城郭を借り受け、今後の方策を軍議する。
「撤退した敵はブハラ前衛からケルキ辺りまで後退しているようだな、さっそく敵の追跡をしたいところだが」
西路軍司令官タルナフ伯は、後背の安全を得たので敵への積極的追撃を主張する。
「それが、我々はマリ市に二週間ほど滞在しなければならないようです」
西路軍参謀長スヴィロソフ卿は早期の進軍は不可能だと指摘した。
「なぜだ?」
「エルミナ軍と市民が困窮していたため、所持していた補給物資を渡さざるを得ませんでした。さらに周辺地域の道路は破壊され、略奪されていますので物資の現地調達はできません。ヒヴァ市から輸送するしか方法はありませんが、陸路のため、輸送に時間がかかるのです」
「ファルス軍め、手の込んだことを…… 我々の行動を鈍らせるために、周辺を破壊していったというのか」
タルナフ伯は舌打ちする。連絡待ちで約10日、陸路行軍で約14日、マリ市での補給で約14日。
これからの事で行動が遅れることに苛立ちを隠せない。
「中路軍、東路軍と連携を取る余裕ができたと考えるべきではないですかな、カルシ周辺の敵砦の排除も被害少なく進んでいるようではないですか。他の軍も我々と同様に駒を進める事が出来るでしょう」
プルコヴォ公は、西路軍は既に手柄を立てたのだから、他の事は他の軍に譲れば良いとでも言いたげである。
「プルコヴォ公、我々はファルス軍を補足撃滅していない。単にエルミナ軍と合流しただけだ。目的を達成していないではないか」
「いえいえ、目的を忘れているのは司令官殿のほうですな。我々の目的はエルミナを助ける事であって、ファルスと戦う事ではない」
プルコヴォ公の指摘は、皮肉の様で実は真理を突いている。
アスンシオン軍の将兵は誰もが、エルミナを助けるという名目で、ファルスを追い払い、あわよくばエルミナを併合して古の帝国領土再建を望んでいる。
だからファルスと戦う必要はない。今回のマリ市から撤退のように、ファルスが諦めて帰ってくれればそれでいい。
結局、そういう心理がアスンシオン軍の全体を縛っているのである。
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「河川艦隊の行動圏なら輸送の心配などなく行動の自由があったのに。プルコヴォ公達の案になってしまった所為でこのザマだ」
軍議の後、タルナフ伯は腹心の第6師団長ゴードン・ガロンジオンに対して怒りをぶつける。
「到着するまでの結果だけを考えれば、河川を使ってブハラ市に行くルートと、包囲されているマリ市を解放するルートは後者の方が良かったのかもしれませんが、到着した後の事を考えると、こちらのルートはその後の制約が多すぎました」
もちろん、タルナフ伯もガロンジオンもそれをある程度計算していた。だが、ファルス軍は陸路を選んだ西路軍の手を、徹底的に咎める策を打ったのである。
「だが、仕方があるまい。とりあえず補給を済ませよう。フレームレートの事だ、既にヒヴァ市には物資を山のように送ってくれているはずだ。索敵を重視して敵の反転にも警戒しないとな」
「了解しました」
「敵に時間を与えているようだが、大丈夫だろうか……」
もちろん、タルナフ伯も敵がこちらの大軍に対抗するのを諦め自ら撤退し、帰国してくれれば良いと考えている。そして、プルコヴォ公達、派閥貴族の暗躍は許せないが、味方として死ねばいいとまでは思っていない。
だが、マリ市周辺での敵の撤退と妨害は見事なもので、こちらの行動は著しく制限される事になった。
敵とは、こちらの都合良く思い通りにいかないから敵なのである。




