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女帝3~帝国の絶頂②

 政庁の会議室では、再び活発化した外交情勢に(かんが)み、閣僚が揃って議論が行われていた。

 南方のローランド戦役は終結した。しかし、今度は南西方のエルミナ王国とファルス王国の間で戦争が勃発、両国の戦闘が激化し、エルミナ側が苦戦しているというのである。


 ローランド戦役の際、ファルス領内に侵入したエルミナ軍だったが、アスンシオンの斡旋による停戦が行われ、その結果ファルスとエルミナとの間でも休戦協定が結ばれた。

 だがファルス側は火事場泥棒的なエルミナの侵略行為に、かなり遺恨が残った。休戦時の暫定国境策定の際も、その日のうちにお互いの偵察隊が交戦し死傷者を出すほど、日常的に一触即発の状態だったという。


 エルミナ王国はラグナ族第一主義の文化思想を持つ国である。

 ラグナ族第一主義は、ラグナ族が人類で一番優れているので、指導的立場に就くべきだという思想だ。

 事実、ラグナ族は大陸で最も強勢であり、ほとんどの国で多数派の与党である。東からレナ王国のレナ族、アスンシオン帝国のラグナ族、エルミナ王国のランス族、ファルス王国のトルバドール族、それらに隣接してハイランド王国のハイランダー族、ティルス王国のティルス族、タリム共和国のカチュア族、バイエル共和国のバイエル族、テーベ諸都市同盟はテーベ族が支配している。

 これらはすべてラグナ族の諸派、人種的にはラグナ族である。


 エルミナ王国は、もともとアスンシオン帝国傘下の王国だった。しかし、アスンシオン帝国が多種族化したことにより、ラグナ族第一主義の純潔派思想を持つ者達が帝国を離脱、エルミナ王国を建国した経緯がある。

 事実、エルミナ王国を形成するランス族は、古い時代にラグナ族が受け継いだ特殊な力“陽彩”という能力を持つ娘がいる。

 さらにランス族には“陽彩”能力を持つ娘達だけで構成された“聖女連隊”という特科連隊があり、その特殊能力を活かした強力な部隊として知れ渡っている。

 この“陽彩”の力は混血するとほぼ失われる。ランス族が純潔主義を守り特殊能力を維持しようという文化的思想は、実利的な要請でもあった。

 アスンシオン帝国のラグナ族は、他種族の混血や、能力を持つ者の優性を保護しなかったので“陽彩”や他の特殊能力を持つ者はほとんどが失われてしまった。その結果、アスンシオンとエルミナのラグナ族は分離したのである。


 ファルス王国はラグナ族の一派であるトルバドール族が支配する国であるが、B属の地上猫耳系と混血したトルバドール=ツインテール、R属の緑派ヴァルキリーを先祖に混血したトルバドール=ヴァルキリー、H属のカウル族の近縁であるフルリ族、卵生のD属であるアサマイト族、特殊なR属の一派リディア族などで構成されている。

 ファルス王国を構成するこれらの諸種族は、なぜか髪の色が緑かそれに近い色という特徴があり“緑の王国”という俗称があった。

 トルバドール族も、テーベ族やランス族のように、かつては強力な特殊な能力を有していたらしい。しかし、アスンシオン以上に混血が進み、ほとんど失われている。

 このような情勢から、エルミナのランス族ではファルスで暮らす異種族に対して極めて侮蔑的である。

 ラグナ族第一主義者の極右的なランス族には、トルバドール族を「雑種」などと公然と見下すこともある。そして、カンバーランドとローランドの戦争の際、ファルス軍の主力が東方へ遠征して不在である事をいいことに国境地帯を襲撃したのである。

 このような経緯から、国境策定の話などまとまるわけがなく、僅か一ヶ月で両国の停戦は破綻、戦火はなし崩し的に拡大した。


 戦争勃発から一カ月。エルミナは、ファルスを完全に侮っていた。事実、ローランド戦役の際に侵攻した際は、たいした抵抗もなくファルスの士気は低いように思えたからである。

 だがそれは甘い観測だった。当時のファルスの消極策は、本隊が東方に遠征しているからという軍事的な要諦に基づくだけであったのだ。

 名君と謳われるファルス国王アルプ・アル・スラン率いる軍団は恐るべき戦争遂行能力を示し、戦争慣れした彼の軍隊は、瞬く間にエルミナ軍を圧倒したのである。

 そして、戦況を挽回するべくエルミナ国王オストラゴス三世が自ら指揮をとったアム川流域にあるケルキの戦いにおいて、エルミナ軍は大敗した。

 この決戦で国王は戦死。指揮系統を失ったエルミナ軍は散り散りになって、ファルス軍は一気に王都サマルカンド近郊まで押し寄せているという。


 アスンシオン帝国とエルミナ王国は分裂したが、その後も交流関係は深かった。王族同士も血縁関係で結ばれている。

 現皇帝リュドミルの母は、戦死したエルミナ国王オストラゴス三世の姉であり、さらに後宮の第1妃マリアンの母もエルミナの王族だ。“陽彩”という特殊能力を持ち“聖女連隊”出身のエルミナ王族や貴族は、アスンシオンの貴族達にとっても良血なのである。

 バイコヌール戦役ではお互い敵国同士となったが、本格的な動員による総力戦とはならなかった。

 この戦役が外交的決着となったのは、宰相のテニアナロタ公の外交的力量だけでなく、お互い国民の根底に両国の争いは利害関係のみで、お互い国力を大きく減らさない程度まで戦えば妥協するという暗黙の了解があった、という理由もあるだろう。


 エルミナ国王の戦死により、王族はその1人娘、王女エルマリアだけとなった。

 その王女より、帝国に援軍要請が来たのである。


「エルミナ王国は同盟関係にないとはいえ、我が国と縁の深い国、正式に要請が来たのであれば、援軍を派遣すべきだと思います」


 宰相のジリアス・デューク・テニアナロタは、前回のローランド戦役と同様に、援軍派遣を主張した。今回は以前より口調が強い。


「エルミナ側からの条件は悪くありません。今までの両国の係争地は全てこちら側に割譲、さらにアラル海の沿岸制海権や権益も譲渡されています。また、内々にエルミナの諸侯は我が国との独自の盟約を望み、進んで傘下に入る事を表明しています」


 外務大臣のセルバ・デューク・ニコリスコエが示したエルミナが今回の同盟に関する条件は、最初の提案の段階からアスンシオンにとって極めて魅力的なものだった。長年の係争問題が全て一気にカタが付く内容である。それはエルミナの窮状を象徴しているかのようだ。


「さらにエルミナは国王が戦死し、直系の王族はエルマリア王女のみ。エルミナ国民も暗に我が国との連合を望んでいるのでしょうな」


 ニコリスコエ公は駐エルミナ公使からの情報を付け加える。

 エルマリア王女は16歳、“聖女連隊”の連隊長も兼ねている。もちろん強力な“陽彩”の力を持っており、この“陽彩”の能力は“ヴェスタの加護”を持つ娘、つまり処女だけしか現れない。

 相手側から明示されてはいないが、もし皇帝と王女の婚姻となれば、エルミナは必然的に帝国の傘下に入る。王女に婚姻相手はおらず、皇帝とは従兄弟同士である。血脈的にも支持を得られやすい。

 これが実現すれば帝国最大版図の再来となる。帝国には誘惑のある響きだ。


「さらに駐ハイランド公使の話では、ハイランドは今回もエルミナに対して援軍を出すようです。遅れをとるわけにはいかないでしょう」


 外務大臣のニコリスコエ公は、さらにハイランドからの情報も提示した。


「ハイランドはまた援軍を出すのですか…… グンドール国王は名将で知られているが、土地の痩せた高原の国で、かくも短い期間に何度も遠征を行って大丈夫なのでしょうか」


 第4師団長、ロウディル・コンテ・マトロソヴァは素朴な疑問を呈する。


「余所の国の問題だ。我々は援兵をありがたく受け取っておけばよい」


 通商大臣のズェーベン・ヴィス・スヴィロソフは、貰えるものはもらっておいて損はないという。

 しかし、マトロソヴァ伯は彼がハイランド領内に滞在していた間、王と軍、そして国民の意志が、かなり乖離しているように感じられた。

 国民は表面上、名将であるグンドール国王を称えている。だが、その裏では周辺国への戦役に介入し過ぎで、国民生活の向上に関心がない国王に対し、強い不満を持っているようであった。イリ遠征、ローランド戦役、共にハイランドが与した側が実質的に勝利して外交的には大きく貢献したが、ハイランド国内にはまったく益するところがない。

 その結果、ハイランドが得られるのは他国の感謝と名誉だけで、無駄に国庫を浪費する国王への不満の声も根強いと感じられたのである。

 実際、王制を批判するハイランドのベース主義者は、王を“戦争狂”と揶揄する者もいた。


「援軍は出すべきという意見が多数で反対意見はないようだ。問題は援軍の規模だが…… 」


 皇帝は決断し、今度は援軍の規模について議題を移す。


「エルミナは隣国で両国の街道は整備され、間に障害となる地形も少ない。先のローランドでの戦役のような山岳地帯によって隔てられているわけではなく、介入するならば少数の援軍で済ますというわけにはいかないと思われる」


 陸軍大臣のワリード・ヴィス・グリッペンベルグが発言する。


「それについては本官に一案があります」


 陸軍参謀長のジャン・スミルノフが軽く手をあげ、起立すると誇らしげに提案する。


「陸軍大臣のご指摘の通り、エルミナは隣国、そして古の我が帝国の勢力圏であれば前回の戦役のような少数の援軍で済ませるというわけにはいきません。我が国は皇太子の誕生と、テーベ族の従属で国威に(いきおい)ある事に疑いはなく、ここは古の兵法に則り、なるべく大きな戦力を動員し、我が帝国の威光を大陸中に見せつけるべきかと存じます」

「参謀長は大きな戦力というが、具体的にはどの程度を見積もっておられるのか」

「全ての兵力を合わせた合計は、ざっと100万と言ったところでしょうか」

「100万!?」


 参謀長の発言に、会議に参加した面々全員が絶句した。


「参謀長、0をひとつ間違われたのではないか」

「我が国にある24個の師団を全て動員しても48万の兵力しかないぞ、どうするのだ」


 テーベ諸都市同盟総督兼北方総督のシェルパ・コンテ・タルナフが苦笑しながら尋ねる。


「テーベ族の帰順で、北方は安泰です。東方と南方の守りに2個師団ずつを残し、残り20個師団、40万を動員します。さらに……」


 参謀長スミルノフはいつになく雄弁に語っている。まるで歴史を動かす偉人の1人にでもなったかのようである。


「カウル族から5万、テーベ族から5万、ヴァン族から4万、アヴジェ族から3万、その他の帝国内に居留する異種族から合計5万、各都市の傭兵団から合計5万。そして、ハイランド軍は4個師団を派遣するそうなので8万、ここに地元のエルミナ軍が20万強」


 参謀長は、会議室の黒板に力強く数字を書きこみながら続ける。


「合計すれば100万に近い大軍です。ファルスは総兵力25万程度と聞きますが、周辺国の情勢からエルミナに参戦しているのは20万程度でしょう。万に一つも負けない戦力差です」


 スミルノフは戦う前から勝ったという表情をしている。


「しかし参謀長。予備師団まで全て動員し、かつ傘下種族にも最大戦力を拠出させては、我が国の経済負担は極めて重い。もう少し節約して戦えないのか」


 倹約家で有名な南方監察官のウィンズ・デューク・カザンは、概ね当たり前の意見を述べた。


「カザン公、失礼ながら戦力の小出しは用兵家としてもっとも恥ずべきところです。足りなくなってから補充の動員をしているようでは、強国ファルスを相手に出遅れることになりかねません」


 戦争の際になるべく多くの兵力を集めるのは兵法の要である。スミルノフは自らを偉大な用兵家だと名乗りたい気分なのだろう。


「そんなに動員して補給は大丈夫なのか。どんな大軍でも餓えて戦えなくなっては仕方がない」


 陸軍大臣のグリッペンベルグ卿は補給に関して疑問を呈する。


「エルミナはシル川、アム川に挟まれた肥沃な穀倉地帯。かつ、今は収穫期がちょうど終わった頃です。エルミナに十分な蓄えがあり、さらに我が国の食糧も既に抑えてあります。来年までは十分に戦えます」

「ふむ……」

「それに、我々は遠くファルス本国まで攻め入るわけではありません。大軍を見せつけてファルスの意図を挫き、エルミナ領内から撤退させるだけで我が国の大勝利です」


 相手の戦意を挫き、戦わずして勝つ事も兵法の要である。勝てるはずのない大軍を敵に見せつければ、ファルスは畏れて撤退するかもしれない。

 理路整然と答えるスミルノフに対して、会議の参加者からも反論はなさそうであった。


「補給に関しては、ファルスとエルミナを隔てるヘラート川を越えず、アム川とシル川までを戦域とする限りは間に合いそうです。地元も我々に協力するでしょう」


 宰相のテニアナロタ公も100万という数字には驚いたようだが、エルミナ方面の地理に明るく、人脈の厚い彼も、この方面での大兵力の展開には支障が少ない事を説明する。元々テニアナタロタ公は親エルミナ派の人物であるので、大規模な援軍の提案を否定するいわれはなかった。


「ふむ、史上空前の大軍団の動員か。100万の兵というスローガンは使えるな。エルミナ国民は我が帝国の威を恐れ、ファルス駆逐後は進んで我らに服するでしょう」


 通商大臣のスヴィロソフ卿は、戦後について楽観的な見通しを語る。

 エルミナの王族は王女しかいない。エルミナは女系相続も認められているが、これだけの大動員力を見せつけられては、戦後、エルミナ王家に忠節を誓う騎士たちも、王女の帝国への輿入れを推し、進んで帝国の傘下に入ろうとするだろう。


 そして、今回の議事録には載せなかったが、エルミナが帝国への併合に反対したとしても、安全保障を理由にそのままエルミナ領内に居座り、その見通しを強制的に実行する事も不可能ではない。


「大軍でもって覇道を進み、皇帝陛下のご威光、そして我が帝国の力を大陸中に示せば、我が帝国の栄光を諸外国に知らしめることができる。外交的、戦略的に参謀長の案は素晴らしい案です!」


 若手騎兵士官でドノー家当主のハティル・コンテ・ドノーは誇らしげに宣言する。彼は今回の遠征でおそらく一個師団を任される事になるだろう新人士官である。優秀な若者で帝政への忠義者であるようだが、強気の態度で上司からは余り好かれてはいない。


「大軍を擁するのはいいが、血気盛んな若手の指揮官が多くなりそうなのは不安材料だな」


 北方総督のタルナフ伯はドノー伯の態度を見て、素直な感想を述べる。


「はは、これは異なことを。私から見ればタルナフ伯も若手の気鋭ですよ。そして誰よりもその能力を信頼している。若さと活力を売りにしていた伯爵が、いつのまにか年寄り臭い事をおっしゃいますな」


 テニアナロタ公が気の利いた諭しをしたので、タルナフ伯も笑いながら作戦案に同意した。


 参謀長スミルノフの作戦要綱は全会一致で承認された。これより、帝国開闢(かいびゃく)以来の大軍が動員されることになったのである。


 総司令官にはテニアナロタ公が命じられる。実績と人望、能力を兼ね備え、エルミナ方面の事情に詳しく、さらにエルミナ国民からも信頼されている人物である。

 そして、海軍を率いアーリア海峡を越えて海岸沿いに進軍してアラル海南岸の町ヒヴァを目指す西路軍司令官にはシェルパ・コンテ・タルナフ。

 帝都から南進しカラザール伯領を通り、エルミナ王都サマルカンドを拠点に中央域に展開する中路軍司令官にはフレッド・デューク・オムスク。

 ハイランドとエルミナ国境付近から南進、ハイランド軍と連合しコーカンドを拠点にアム川とシル川中流域に展開する東路軍司令官のウィンズ・デューク・カザンが、それぞれ任命された。


 この会議に出席していたマトロソヴァ伯は酷く不安になった。

 戦力の小出しは戦争を長期化、複雑化させる。素早く決着させるには可能な限り大きな戦力を揃える事が肝要だ。そして絶対に勝てないほどの大軍を用意すれば相手の戦意を萎えさせる効果もある。さらに、エルミナへの大軍動員は大陸中に国威を示す事にもなり、その後に予想されるエルミナ合併は帝国的にも旨みが大きい。

 どれも理屈ではわかる。経験豊富な将軍たちもその意見に賛同したし、若手の将軍も未曾有の大軍による侵攻作戦に士気が揚がっている。

 だが、それでも何かが足りないような気がしてならない。

 マトロソヴァ伯は、ローランド戦役の際、ハイランド領内でローザリア卿に紹介されたムラト族の傭兵団長の事を思い出した。

 彼は、その男がローランド戦役を終結させた真の立役者であることを知っている。だが、国庫の武器を盗んだということで、そのまま表舞台から消えた。

 こんな時、あの男ならどういう意見を言うだろうか。


****************************************


 帝国がエルミナへの援軍準備を進める中、後宮の改修工事は最終工程に入っていた。それと並行して、帝国の国威高揚を裏付けるかのように、後宮の増員も実行されている。

 困窮するエルミナ王国の有力諸侯達は、帝国の後宮に進んで娘を差し出し、その人数は10名を越えたのである。

 エルミナ諸侯は国王に忠誠を誓っていても、国王の戦死で既に王家は死に体である。王国が衰退するなら、自らの権益を守るために早々に帝国の庇護を求める。妃として差し出した娘は先鞭、人質、そして担保である。

 さらに、今まで皇家に対して比較的距離を置いていた帝国の貴族達も、帝国の絶頂で次々と娘を供出し始めた。結果、後宮の妃の数は一気に倍増することになる。

 もっとも、国内で妃の入宮を希望する貴族は既に把握されていた事であり、妃の増員は想定されていたことである。そのための後宮の増築だったのだ。


 妃達の世話係と後宮の運営要員として、宮女メイドも1000人が増員された。ただし他の宮女メイドと違い、後宮で暮らすのではなく外部からの通勤方式である。理由は、もう施設の増設が間に合わないからだ。


 さらにテーベ諸都市同盟は、帝国への帰順の証としてそれぞれの各都市が拠出してテーベ族のメイド1000人を後宮に入れた。テーベ族のメイドは天職といえるほど優秀で、大陸中で有名であった。

 これらの増員、増築により、後宮は妃が約100人、メイドは約4000人を数え、文字通り倍増する事になる。


「あっ、シンデレラ! こっちこっち!」


 メトネが声をかけたのはメイド服を着たムラト族の娘だ。アンセムが初めて来た時のように、不安そうに周囲をキョロキョロと見回していたが、声を掛けたメトネに気がつくと、彼女の方へと寄ってくる。

 シンデレラと声を掛けられた娘は恥ずかしそうに無言で挨拶をする。

 アンセムは事前にメトネから、彼女の友人が通いの宮女として来ると聞いていた。仕事は一応メトネの世話係りであるという。


「アンセム~、こっちは私の幼馴染のシンデレラ。童話のお姫様と同じ名前だけど、あんまり姫って容姿じゃないわよねぇ」

「もー、メトネったら相変わらず口が悪いわねぇ」


 メトネに紹介されたシンデレラという娘は、帝国に居留地を持つムラト族の娘である。目立たない髪色に目立たない容姿、四肢もラグナ族に比べれば華やかさが無く、スタイルもお世辞にも整っているとはいえない。

 ムラト族はカウル族と同じH属の人間種である。特殊な能力は一切ない。古来より個性的な文化を継承しており“栄養ドリンク”や“レイヤー”、“乾燥麺”など、一部、ラグナ族でも流行しているものもある。

 ムラト族は見た目も地味だが、性格も暗い種族である。表に出て活動するより、家屋内で趣味に耽っている者が多いらしい。もちろん、これは一般論で、ラグナ族でもそういう者はいるし、ムラト族でも社交的な者もいる。


「メトネ、こちらの妃様は?」


 シンデレラはメトネに気さくに尋ねている。相当、仲の良い友人のようだ。


「皇后さまよ。皇太子さまの母君」


 シンデレラはそれを聞いて慌てて畏まるが、恐縮しすぎて脚がもつれ、転びそうになってしまう。


「そんなに畏まらなくてもいいよ、メトネの友達のシンデレラだね。よろしく」

「アンセム…… 相手が可愛い女の子じゃないからって、あからさまに態度が違うのはどーかと思うよ?」

「えっ、そんなに違ったかなぁ」


 アンセムはいつもの口調でレディに対する挨拶をしたつもりだったが、シンデレラが美人ではないので腰が引けているのが露見してしまったようだ。


「確かにシンデレラは、ラグナ族に比べたらちょーっと見劣りするけど、ムラト族の中では村一番の美人っていわれてたんだからっ!」

「もー、メトネに言われると厭味だから、やめてよー」


 メトネとシンデレラは本当に楽しそうに会話している。よくみると、メトネの飼い猫の“しょぼん”がいつのまにかシンデレラの肩に乗っている。ムラト族は猫好きが多いという。おそらく、元々の飼い主はこのムラト族の娘なのだろう。


「じゃ、アンセム。私達は積もる話があるから、ちょっと外すねー」


 メトネは無邪気に微笑みかけ、そしてシンデレラと呼ばれた娘のペコリと不器用に頭を下げる。2人は手を繋いで彼の前から去って行った。

 アンセムは、いつにないメトネの笑顔をみて、心を許せる親友と出会える事は、本当に楽しそうな事だと思った。

 もちろん、アンセムにも親友はいる。しかし、後宮に来てから、友人とは誰一人会っていないし、この身体ではもう一生会えないかもしれない。

 皇后が年頃の男と密会でもして、それが露見でもしようなら、喩えその時に何もなくても、皇家の権威は汚される。

 彼の士官学校時代からの友人で、休暇の際にはよく一緒にナンパに行った親友、シムス・リッツ・フォーサイスは、今回の遠征では第19師団の師団長に就任したという。

 奴は優秀だが、同期でもう師団長とは恐れ入る限りだ。もっとも、彼らより年下のローザリア卿はもっと早く師団長になっているので、最速というわけではない。

 確か、新しく入宮した妃にシムスの妹がいたはずだ。シムスは妹の美貌を自慢していたので、後で見に行こうと思った。もちろん、アンセムもシムスに対していつも自分の妹の美貌を自慢していたので、似た者同士である。


 今回の遠征は大軍である。そのためにアンセムが知る多くの者達が出陣している。叔父達はもちろん、同期の友人、先輩、後輩はほぼ全て。そして籠城時代にアンセムが指導した若い学生士官の工兵達もだ。

 アンセムは知人らが名誉ある出世をし、さらに大軍を擁した出征でその能力を如何なく発揮できる環境を与えられた事を羨ましく思った。

 しかし、よく考えればアンセムは皇后なのだから、出世街道という意味ではもはや並び立つ者など存在しないはずである。

 だが、男のアンセムは玉の輿で得られたその身分が、いまいち実感が湧かない。

 アンセムは、彼らをただ見送るだけである。そしてそういう感情は、自分の左胸の乳首に張り付いている皇太子が、彼から勢いよく母乳が吸いこんでいる状態で、思い耽る内容ではないだろう。


 帝都に集結した各師団や同盟種族、傭兵部隊は、順次皇帝の観兵を受け、帝都の市民による熱烈な歓声によって見送られ、続々と出陣、一路エルミナ王国へと進発した。

 帝都の新聞各社は帝国が動員した未曽有の100万という大軍を大きく喧伝し、誰もが帝国の大勝利を疑わなかった。


 思えば帝国が最も栄光に包まれていたのは、きっとこの瞬間だったのだろう。


 しかし、彼らの未来への願いがその通り導けるかどうかは、本来、誰にも分からないはずなのである。


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