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女帝3~帝国の絶頂①

 ニュースというのは、そのほとんどが事件や事故、それはつまり誰かの不幸や失敗、不正など、社会にとってマイナスの公表である。

 だが、時には誰からも祝福されるプラスのニュースも存在する。


 秋の初め、帝国中に朗報が走った。皇帝リュドミル・シオン・マカロフと正妃エリーゼ・リッツ・ヴォルチとの間に男子が誕生したのである。

 帝都中央通りにあるエルタニン広場には、さっそく皇帝を壇上に迎えて、大勢の市民が参列する祝賀行事が行われた。

 皇帝はその席上で男子誕生を正式に宣言、市民は歓喜の声で迎える。

 その子は、マキナ教の司祭により祝福された後、皇帝によってただちに皇太子に指名され、そして名前が発表された。

 皇太子の名前は、アンセム・シオン・マカロフ、誰の名前から付けられたか、いうまでもない。

 そして、母親の自覚のないアンセムは、誕生した子が男子だったため自動的に皇后と呼ばれるようになった。


 帝国の朗報はそれだけではない。

 翌日、北方にあるオビ諸島に独立都市国家を形成するテーベ諸都市同盟が、帝国への従属を求めてきたのである。


 もともとテーベ族の都市国家は、文化的に都市単位での独立傾向が強く、各々の都市を統制するのは各国が結んだ条約だけでお互いの都市の利権の争いから常に紛争が絶えなかった。

 テーベ族は文化的思想として、自分の都市の独立と権益だけは守ろうという姿勢が非常に根強いからである。

 これは、テーベ族の持つ特殊能力“月影”と、テーベ族の女性が持つ“破瓜の呪い”があることも影響しているだろう。“月影”は都市防衛戦に極めて有効な能力であるし、“破瓜の呪い”があるために彼らは遠出して活動領域を増やす事が出来ない。

 ただし、彼らもテーベ族同士での利権争い、抗争の激化を望んでいるわけではない。公平さと信頼、そして何より統率する力を持つ指導者が、自分達の都市独立を保障した上で、その利害を調整するならば、その庇護下に入るのは(やぶさ)かではなかった。


 北方総督のシェルパ・リッツ・タルナフは、テーベ族の都市同盟の多数派勢力の要請を受け、オビ諸島を転戦。少数派勢力の諸都市を、軍事外交の両面から次々と攻略していった。

 そして、占領したテーベの諸都市を単に懲罰するのではなく、公平な処遇を行って彼らと強い信頼関係を築いた。

 テーベ諸都市同盟にしてみれば、自らの市民権独立を保障し、公平な関税や権益の分配を約束してくれるのであれば、帝国へ従属する事に不満はない。かつて帝国が最大領土だった200年前頃には、テーベ諸都市同盟は帝国の傘下だったのである。

 だが、当時の総督の無能や、アスンシオンから送られてくる役人達の高慢な態度、彼らの怠惰や汚職により、両者の信頼関係は失われてしまった。その後、帝国の凋落と共にテーベ諸都市はアスンシオンとの関係を断絶し、テーベの諸都市で互いに同盟条約を結んで独立したのである。


 このテーベ諸都市同盟を再び帝国の支配下におき、南北オビ海を完全に自国の勢力圏としたことは、帝国の活動領域を大幅に上昇させるはずである。

 帝国の国民にとって、往年の大帝国に近い領土を取り戻したことは、皇太子誕生のニュースと共に帝国の繁栄を誇る素晴らしいニュースだったのである。


 この朗報の後、貴族審査委員会はヴォルチ家及びタルナフ家に対し、伯爵の爵位に相応しいと決議する。

 貴族審査委員会は貴族院の有力者から構成される委員会で、貴族達の爵位の管理、貴族達の風紀更生、貴族同士の意見の対立があった場合の調整などを行っている。

 もちろん、爵位を授けるのは皇帝であり、その皇帝も貴族審査委員会のメンバーだが、皇帝によって恣意的に貴族達の爵位を奪われたり、貴族達の家名の継承に、謀略などを用いた不当な操作をされないよう、管理・監視するのが目的である。


 タルナフ卿は、帝都に凱旋し皇帝から労いの言葉を掛けられた後、直ちに勲章と爵位の授与式が行われた。

 この北方を平定した勇者と並んで同じく伯爵の爵位を授けられたのは、アンセムの父の弟、つまりアンセムからすれば叔父のファーガス・リッツ・ヴォルチである。

 しかし、実力で勝ち取ったタルナフ卿に比べて、ヴォルチ卿の授与は、ムラト族の用語でいう“たなぼた”的なものであった。

 アンセムの叔父はイリ出征に参加したが、特に大きな手柄を立てたというわけではない。だが、アンセム…… いや一族の娘エリーゼが皇太子を産んだので実家として箔がつけられたのである。


「あのじゃじゃ馬め、上手くやってくれた。これで家名は安泰だ」


 アンセムが自分の身体だったとき、その所領には少ないながらも信頼できる使用人達、そして領民がいた。アンセムの身体が死んだ後、一部野に下る者の他は、ほとんどが家督を継いだ叔父ファーガスに引き取られている。

 その中の1人が、皇后アンセムに叔父の失言を密告する。

 アンセムはその報告を聞いて、とても叔父らしいと感じ、特に不快感は持たなかった。父も家名の存続を遺言したし、自分もその遺言に従い、妹を無理矢理後宮にいれようとした。

 もし、自分が叔父の立場なら、やはり同様に圧力をかけてその妹を入宮させるようとするだろう。

 そして、兄弟というものは、血を分けた男同士の強い信頼関係が構築される場合もあれば、お互いを憎しみ骨肉の相続争いが起きる場合もある。

 これは太古の昔から文化を問わず存在する、いくら人類史が続いてもけっして解決しない命題だ。

 その点で、叔父達は父をずっと長兄として敬っていたし、父の死でアンセムが家名を継承する際も、条件は付けたが特に異議を申し立てたりしなかった。

 叔父のファーガスは自分の身体の死によって混乱したヴォルチ家を無難にまとめているという。


 この時、アンセムが不満に思っている事は、まったく別のところにあった。

 産まれたばかりの乳幼児が、アンセムの左胸の乳首に口をつけ、その乳を吸っている。

 身体からエネルギー吸われるような感触、それは物理的にそうなのだろうが、なんともいえない不思議な感触が襲う。

 普通の母親はこういう時には、幸せを感じ、子供に対して優しく微笑むのだろう。しかし、皇后アンセムは厭そうな顰め面をしていた。


挿絵(By みてみん)

「まぁ、可愛い~」


 侍女のマイラ、プリンセスガードのタチアナ、ソーラなどが入れ替わりで皇太子の警護や世話にやって来ると、アンセムが母乳を与えている皇太子の姿をみる度、女の子の魔法の言葉「カワイイ」を連発する。

 皇太子はまだ首が座っていないので、無闇に動かせない。それゆえ、アンセムは皇太子が腹を満たすまで、ずっと同じ姿勢でいることを強制されている。それは、男性的思考のアンセムにとっては、苦痛でしかなかった。


「母親になれば気持ちは変わるものじゃないですか」


 侍女のマイラはそう言うが、アンセムはそうはならなかった。

 肉体的な性別による精神への影響は、第一次性徴と、第二次性徴の時が強く、それ以外の時は、精神的根幹に関わるほどの大きな影響はないのだと思われる。

 とはいえ、皇太子の無垢な表情を見ていると、男のアンセムでも可愛いと思わないわけではない。だが、数回程度ならともかく、一日に何度も授乳の世話を強制されているため、彼の不満は極まっていた。


 皇后は育児の負担をナースメイドに渡しても良い。ただしメイド長ティトとナース長ユニティは医学的見地から、しばらくの間は直接母乳を与えるように指導していた。

 人間の喉は雑菌が入り易い場所である。外気に直接触れているのだから当然といえるが、産まれたばかりの乳幼児はこの器官の粘膜に雑菌に対する抗体を備えていない。抗体を備えるには、この時期の母乳が大切な役割を持っている。

 皇后は絶大な権限を持っているが、帝国での重要性は皇太子より下である。皇太子の健康が得られるなら、皇后の自由など簡単に制限されてしまうのである。


「なんで、こんなに毎日毎日子供の面倒を見てなけりゃならないんだ……」


 このアンセムの本音は、世間の全ての母親達からみれば極めて身勝手、かつ無責任な発言であろう。ただでさえ父親は、受胎も授乳の負担も逃れているのに、さらに子供の世話をするのも嫌だと言っているのである。

 そして、その子の父親である皇帝は、帝都に出て積極的に職務に励んでいる。後宮で自分の子供を見返ることなど一日に数分だけだ。


「ナーガ族は、卵生で親の負担はないそうですけど」


 アンセムの愚痴を何度も聞かされている侍女のマイラは、思い出したようにそう話す。

 D属の人間種であるナーガ族は哺乳類であるのに卵生である。

 種族分類学者の分析では、哺乳類は太古の昔、卵生だったそうだ。つまり胎内で育てるよりも、授乳が先に誕生したのである。

 卵は寒さに弱い。タンパク質が変質するほどの暑さでなければ耐えられるが、凍る寒さには耐えられない。その点、胎児は常に母親によって暖められている。この妊娠という能力を得た事により、哺乳類は寒冷地への進出をより容易にしたのである。

 卵生のナーガ族は今でもほとんどが熱帯地方で生活している。しかし、このD属はあまりにも他の人間種とは形態が離れているので、種族分類学者は、彼らがどこか別の隔離された場所で独自の進化を遂げてきたのではないかと推論していた。


 マイラはアンセムの我儘を真面目に受け止めていた。

 彼女は皇后の“女性としての役割”、つまり衣服や整髪などを全て請け負っている。侍女であれば当然の仕事だが、マイラは次第にアンセムの女性としての身支度を請け負うのが、誇りであり楽しくなっていた。アンセムは自分で服も髪型も装飾も決めないので、マイラが全て決めているからである。

 アンセムは女の身体であっても女の精神ではない。しかし、帝国の皇后だ。ある意味、女性としての地位を極めた者といっても過言ではない。

 マイラはその皇后が最も信頼する侍女で、かつ女主人のアンセムは女性としての自覚はまったくなく、その“女性としての役割”の全てをマイラに任せている。であれば、その任された部分は全て請け負いたいという気持ちになっていたのである。


 アンセムが育児から離れたいという理由は、単に面倒だという理由だけではなく、他にも実務的な理由があった。

 後宮は、数ヶ月前の籠城戦の損害修復が完全に終わっていなかった。そして予想される増員に備えての改築が行われている。皇家が余暇で不在の際に人手を入れて一気に仕上げる予定であったのだが、それでも完成に間に合わず工期が遅れているのである。


 後宮のような秘匿性の高い施設の建築は、どこの国でも軍の工兵隊が担う。

 アンセムは工兵士官で、かつ政庁と後宮の防衛責任者として、この改築にあたり、信頼できる若い工兵士官や同僚士官を起用し、自ら設計に携わって辣腕を振るった。

 自分の仕事なのだから、自分で責任を持って監督したい。その工事の現場は彼が居住する皇后の宮殿から目と鼻の先である。


 ところが、皇太子がそれを妨げるのである。乳幼児を抱っこして工事現場に赴くなど、メイド長は絶対に許さない。

 この不徳の母親は、自らの子に乳を与える作業よりも、目の前で築城を行う建築の作業音に対して心を奪われているのである。


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