運命の輪1~貴族男子の嫁入り支度⑤
食事の後、マイラが食器を片づける為に部屋から退出したのでアンセムは1人になった。
彼は、黒い仕事鞄から、私物の建築工学の本を取り出してソファーにうつ伏せに寝転がる。
彼は食後に運動をするか、この態勢で本を読んで過ごすのが一般的だった。
しかし、今、エリーゼの身体でうつ伏せになろうとすると、胸の膨らみが邪魔になって上手くソファーに寝そべれない。
諦めて今度は仰向けになろうとすると、今度は胸の重みが直接のしかかってきて違和感があった。
さっきまでの外出用のドレスでは、胸はドレスで支えるように抑えてあったので、胸の重さは感じたものの胸の弾力と柔らかさによる違和感は少なかったが、今の夜着はそういう構造にはなっていない。
乳房と重力の関係で、どのような姿勢をしていても不思議な重量感がある。
「これは当分慣れそうにないな……」
アンセムは呟くと、今度はソファーに横向きになって寝そべる。そして、自分の胸に新しく付いた乳房というものをエリーゼの手で揉んでみた。
「うーん、自分で触るのと触られる感触が両方同時にあるというのは、なんかヘンな気分だなぁ」
当たり前だが、アンセムは自分の乳房を揉まれたことなど一度もない。その胸の柔らかい感触が目新しくて、まるで性に目覚めたばかりの男子のように熱中してしまう。
そのため、食器を片づけて戻ってきたマイラがノックして部屋に入っていた事にもまったく気がつかなかった。
「あ、あの…… お嬢さま……」
突然声を掛けられて、驚いて跳ね起き、慌てて振り向く。
「あっ、マイラ」
「は、はい」
中身が男だとバラした後に自分の胸を弄っていたので、どうにも気まずい雰囲気である。
「……本日はお疲れでしょうから、寝室のご用意を致します」
マイラが寝室のベッドのシーツを整えていると、アンセムも寝室に移動した。
寝室のベッドは明らかに2人以上のサイズがあり、1人で寝るには大きすぎる。
マイラの説明では、これは皇帝が来訪したときの為であるらしい。
皇帝は後宮にいるどの妃のどの部屋にも好きなように来訪し、好きな時に同衾することができる。そのためベッドは2人用のサイズが用意されている。
独身で婚活中の彼には、なんとも羨ましい生活だ。
「ところで、マイラは何処で寝るの?」
「私は、レディメイド用の控え室で休んでおります。明日の早朝にお迎えにあがりますので」
「うちの妹は侍女と同じベッドで一緒に寝ていたけどなぁ、後宮では妃と侍女は一緒に寝ちゃだめなの?」
「……そんなことはありません」
実際、後宮でも多くの妃がそうしていた。1人で寝ている妃の方が稀である。
暗に一緒に寝て欲しいという要求をしてくるアンセムに対し、マイラは明らかに強く警戒していた。
「あ、あの…… ここではマリル行為は禁止ですので……」
“マリル”とは、帝国から離れた遥か東方にある乾燥した高原地帯に住む種族名である。
マリル族には女性しかおらず、さらに女性のみで繁殖を行う珍しい種族であった。女しかいないので、恋愛も女同士。そこから転じて、女性の同性愛のことをマリル行為と喩えられている。
もっとも、マリル族は種族すべてがほとんど同じ顔に同じ容姿であり、種族分類学者が指摘するには、彼女達は“繁殖”しているのではなく、“分裂”しているのだという。
「マリル行為って…… 俺は男だし。それに今なら”ヴェスタの加護”には影響ないだろう」
“ヴェスタの加護”とは、処女の持つ特殊な力のことであるが、処女を示す隠語にも使われる。
「傍からみたらそうとしか見えません!」
「いや、なんというかな…… さっきはいつものクセで迫ったんだけど、今はそういう気分じゃない。なんかこう、溜まったものを発散しようと湧きあがる衝動が出ないんだ。うまく説明するのは難しいのだけれど」
アンセムの説明は論理的ではなかったが、なんとなく雰囲気だけは伝わった。
「は、はい」
「遥か遠い東の異国には捕虜や志願者を去勢する文化を持つ種族があるらしいけど、それをされるとこんな気分になっちゃうのかなぁ」
「……わかりました」
マイラは、なんとなく納得した様子で返事をする。よくわからなかったが、少なくとも男性の身体でないので、男性が要求するような気分は無くなっている、ということが言いたいのだろう。
「私には分からない事だらけでしばらく何もできそうにない。君だけが頼りだ。いろいろ大変かと思うけど、これからよろしく頼むよ」
「はい、よろしくお願いいたします」
最初は訝しがっていたマイラであったが、アンセムの「頼りにしている」という言葉に安堵し、嬉しそうに返事をする。
マイラは一端自室に戻りメイド用の着替えの夜着を用意して戻ってくると、応接室の隅で着替え始めた。
アンセムはマイラの着替えの様子をあまりに真剣な眼差しで見るので、彼女は恥ずかしくなってしまう。
「あ、あのお嬢様…… そんなにジロジロ見ないでください」
「ごめんごめん、先にベッドに入っているよ」
アンセムは、残念そうに寝室に入り、ベッドに寝転がった。
マイラは手早く着替えを終え、各部屋の明かりを消した後に寝室に入って来る。
「それでは寝室の明りを消します。お嬢様、おやすみなさいませ」
「おやすみ、マイラ」
マイラがランプの灯を消すと、周囲は月明かりだけが照らす静寂が支配する。
しばらくしてベッドにマイラが入ってくるのがわかった。
隣で可愛い女の子が寝ているとか、自分自身の胸が重くて布団との間に違和感があるとか、もちろん今後の後宮での生活の心配事とか、彼の眠りを妨害する様々な不安要素はたくさんあった。
しかし、ベッドはとても整備されていて寝心地良いものであったし、彼は朝から本当にいろいろな事があって疲れていた。
また、この時のアンセムは気がつかなかったが、室内の空調や香りも、睡眠を安定させる心地よい状態に保たれていた。
明りが消され、安静した状態になると、一気に睡魔が襲ってくる。
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ふと、アンセムは目が覚めた。
窓の外は、まだ太陽が昇っておらず薄暗い。
いつもより早い起床だったが、彼がいつも寝る時間よりも早く寝た上に、心地よく深い眠りにつき早く目覚めたのである。
アンセムはまだ完全に覚醒していない状態で、まずはいつも朝起きたら必ずする行動に移っていた。
「う、うわぁああ!」
室内に突然の悲鳴…… いや大声が木霊する。
マイラはすぐに目が覚める。
「お嬢様! 何があったのですか!」
すぐに起き上がって、声がした方に駆けつける。
すると、夜着の若い娘がトイレの真ん中で俯き泣きそうな顔で立ちすくんでいた。
「み、見ないでくれ……」
床下はアンセムの脚から滴り落ちた液体で濡れている。
アンセムは寝ぼけて、男性の様に立ったまま用をしようとしてしまったのである。