戦車1~鮮血の姫③
政庁の会議室では、宰相のジリアス・デューク・テニアナロタと北方総督シェルパ・リッツ・タルナフが激論を繰り広げていた。
「敵に包囲される前に、一刻も早く帝都から離脱するべきだ」
タルナフ卿は、速やかな離脱を提案した。
彼は若い頃から有能、かつ勇敢なことで知られている。
帝国の北方にあるタイミィル地区は異種族が散在する政治的に不安定な地であり、外敵の侵入も多い。
それゆえ、大きな権限が与えられている総督府が設置され、軍や異種族から信頼の篤い若手の実力者が配置される事が多かった。
彼はまだ38歳、第5妃タチアナ・リッツ・タルナフの父でもある。
意外な事に、タイミィル地区では種族独立運動であるベース主義は浸透していない。人口比でいえば、帝国内で最も異種族の割合が多い地域にも関わらずにである。
タイミィル地区は非常に厳しい自然環境で、その地域だけで自立することなど、経済的に不可能だということが、同地に居住する者達の独立の意欲を喪失させているものと思われる。
「本職も同意見です。アスタナ要塞が陥落したのであれば、その武器を手に入れた兵がこちらに向かってくる公算が大きい。一刻も早いこの危険な場所からの退避が必要です」
同じく離脱を主張したのは、参謀本部から退避してきた参謀のジャン・スミルノフである。彼は、事変の発生からすぐに参謀本部に向かおうとしたが、テニアナロタ公が送った連絡員と運良く道中で出会い、すぐに政庁に退避したために難を逃れることができた。
テニアナロタ公は、早計な結論はせず、後宮警備分隊に意見を求める。
極論をすれば、男の退避はそれほど難しくはない。彼らは「逃げろ」と命じれば勝手に逃げるからである。そして喩え道中で捕まった者がいても「仕方がない」で済む。
しかし、問題は後宮の宮女達であった。
「後宮側でも現在議論が行われていますが、宮女の退避は困難です。そして、宮女の行動に関する決定権は正妃様にあり、我々はその命令に服します」
後宮警備分隊の当番士官ミュリカは、宮女が退避することは難しいと否定的な意見を述べた上で、さらに後宮の有事に関する命令権は正妃にあり、その決定に従う旨を宣誓した。
結局、政庁側の会議の結論は後宮側の結論を待つ事になる。
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政庁で会議が行われていた頃、後宮の大ホールで正妃アンセムが各妃と各メイド長のほぼ全員を召集して会議を行っていた。
宮女達はこのような事態に対してまったく認識がなかったため、皆どのような対応していいのか戸惑うばかりである。
ほとんどの妃が他人事のように、自分の実家や親族の事を心配している。
「すぐに馬を用意して逃げましょう。イリにおられる陛下と合流すれば、叛徒どもなど後でいくらでも対処できます」
タチアナは、父と同様に退避を提案した。打ち合わせているわけではないが、考え方は親子で似ているのだろう。
危険な場所からいち早く逃げるのは、策としてはあり得る。
帝都や政庁はまだ包囲されたわけではないし、全員が捕まるとも思えない。適切な手段と方法で逃げるなら、もしかしたら最善の方法なのかもしれない。
しかし今回の場合、アンセムは宮女の退避は難しいと判断していた。
逃走にも技術が必要である。
タチアナは航空騎兵士官出身なので、馬にも航空騎にも乗れる。しかし、他の宮女達のほとんどは、移動するために必要な技術を持っていない。
帝都から移動する陸上の主要街道上にあるアスタナ要塞は敵の手に落ちている。
イローヴィア湖を通る河川ルートは、冬季は中途半端に凍っており、専用の船舶でないと通れず、さらにやはり河川の途中にはアスタナ要塞が立ち塞がっていた。
違う選択肢ならば、道の悪い南のカバンバイ丘陵の間道を通らなければならないが、冬季のこの道は極めて危険である。天候が悪ければ追手に捕まる前に自然にやられてしまうだろう。
それに、彼女達は存在そのものが目立ち、行動を隠蔽しながら逃げるのは極めて困難である。
「私は逃げるのは難しいと考えている。主要幹線道路は全て遮断されていて、間道を通った徒歩での長距離行動になる」
アンセムの説明した徒歩での移動と聞いて、一部の妃は服や靴の心配を一番にしていた。彼女達の現実感覚のなさには正直呆れてくる。
しかし、アンセムの説明を聞いて、タチアナを含めた妃達が出した逃走案は急に冷めていった。
アンセムは逃走案を拒否したい本当の理由を伏せた。現実問題として逃げる事が難しい事もあったが、それ以上に危険な要素をはらんでいたからである。
後宮の娘達は皆若く美しい乙女だ。それは妃に限らずメイド達も同様である。そのような娘を欲しがる者は、この世界には男の数だけいる。そして、そのような娘を捕えて自分の物にしようとする時、男がどれだけ本気で挑むか、彼女達は知らない。
彼女達にとって敵は、反政府勢力だけではない。野盗はもちろん、護衛の男性兵士ですら危険な存在となりうる。
そして、いったん男に捕まれば、彼女達の身体は無傷では済まされない。
「正妃様はどうされるべきだと思うのですか?」
第1妃マリアン・デューク・テニアナロタは優しい口調で尋ねた。
「私は、皇帝陛下より後宮を守れとの下命を受けている。私は陛下から退却を命じられるまで、その任務を遂行する」
アンセムは宣言するように云う。すると、マリアンはその意見に同調した。
「正妃のアンセム様が、陛下のご意志を守るために、この場所に留まるとおっしゃるのであれば、私はそれを支持します。妻は、夫の留守を預かるもの。叛逆者達に陛下の家を明け渡すようなことはできません」
マリアンは毅然とした態度で籠城を支持した。さらに、意見を変えたタチアナや、アンセムの部下であるプリンセスガードのメンバーもそれを支持すると、反論する者はいなくなる。
アンセムは、自身が妊娠していることを黙らせた。まだ皇帝陛下にも報告していない件を、広めるわけにはいかない。
さらに、もう一点、重要な件について宮女達に確認事項を指示する。一部否定的な意見もあったが、意外な事に強い反対意見はなかった。
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アンセムは、後宮での籠城準備のための必要事項をメイド長のティトに指示すると、後宮が出した結論を持って、政庁に戻る。
政庁側では未だ激論が交わされていたが、アンセムは後宮の方針を簡潔に伝えた。
「宮女達は全員、後宮から退避する意志はありません。皇帝陛下のご帰還まで、陛下の家を守り戦い抜く所存です」
そう告げた後、彼は会議の場で男達を煽る。
「願わくば、宮女達の支援の為に、殿方のご助力を願いたいのですが」
この意見に対し、意外な事に強固に退避を主張していたタルナフ卿、スミルノフ参謀もあっさりと籠城支持に変更した。
結局、男という生き物は、どこの世界でも女を置いて逃げるという行為を大恥と考えるのだろう。守って欲しいと煽られたなら尚更逃げにくい。
アンセムはこの会議でさらに重要な事項を提案した。こちらも一部否定的な意見もあったが、意外な事に強い反対意見はなかった。
重要な事項とは、防衛の為、後宮に男を配置するということである。
後宮は男子禁制の隔絶された世界である。アンセムはその禁をあっさり破って、後宮内にも男を配置しようと提案した。
多少のリスクはあったが、デメリットよりもメリットは遥かに上回る。
アンセムは、政庁側の施設だけでは、敵の攻撃に耐えきるのは難しいと考えていた。また、政庁が陥落した場合、その人員を収容しなければ、後宮側の宮女達だけが残されても同様である。
後宮の男子禁制は“啓蒙の法”で決まっていたが、臨時採決でこの事項は修正されることになった。
会議ではテニアナロタ公を総司令官として、幕僚にスミルノフ氏、前線の指揮をタルナフ卿が受け持つ。そして、後宮側では正妃のアンセムが防御の指揮を行うことになった。
さらに、アンセムは政庁側でも警備兵や集まった士官候補生に、防衛陣地の設営について具体的に指示していた。
アンセムは宮女全員を戦闘補助員として動員する。籠城戦は、補助員の働きもその効果に大きく関わってくる。
もちろん、同時にイリに向けて進軍中の皇帝に対する早馬も三重に確保してすでに出立させていた。




