戦車1~鮮血の姫①
ベース主義とは、個人の自由と平等を基本とするべきと考える思想である。
主に、男女平等、公民権拡大などが、彼らの主張であるが、特に皇帝や貴族という
身分の世襲制度に強く反対していた。
アスンシオン帝国は君主制の帝政国家であり、貴族制度の階級社会である。それゆえ、帝政、君主制の支持者からは、ベース主義者は反政府思想として看做されていた。
実際に、貴族には様々な面で優遇措置がある。貴族院の議席と投票権、相続税の優遇、認可された場合の重婚、徴兵の免除など。優遇されている面だけ揚げればそれは事実だ。
だが、実情はそれほど楽ではない。
確かに貴族審査委員会から認められて当主を継承した場合、貴族の相続税は免除されている。
その分、皇家に対して必要な忠誠を示す義務があり、私財の浪費を強いられることも多い。また、重婚が可能と言っても複数の妻を持つ者は余程の地位の者だけであり、その目的も継承権を持つ男子を作るためである。そして、徴兵による一般の兵役は免除されていても、実際には貴族家は誰かを軍役に就ける義務があり、ほとんどの貴族の長男は、士官学校に入れられる。
それでも一般の市民からすれば、税制優遇、重婚、徴兵の免除は大きな特権である。
士官学校でも、平民出身者と比べると出世スピードは明らかに速い。名門貴族であればなおさらである。
現在の帝国で、ベース主義者が最も活動の中心にしているのが、国内に混在する複数の異種族の独立運動、次に批判の標的としているのが後宮の存在についてである。
彼らの主張では、帝国に居住するラグナ族以外の種族は差別されているという。ラグナ族しか貴族にはなれないし、数字の上では教育や福祉、経済格差もついている。
また、後宮制度自体、女性の権利が著しく制限され、男性至上主義を体言した悪しき装置であるという。
後宮の設置自体は、現行の“啓蒙の法”で承認され手続きを経た設置とはいえ、権力に寄って半ば強制的に若い女を吸い上げて、豪華な設備を維持しているのである。
このあたりのベース主義者達の批判は当然ともいえ、市民議院ではまだ1割程度の議席数ながら、その勢力は叙々に拡大しつつあった。
だが、アスンシオン帝国の人口の9割はラグナ族である。
議会でこれ以上の党勢力の拡大は難しい情勢にあった。ベース主義者の政党が主張する「全ての種族に同等の権利を与えるべき」では、ラグナ族の支持を集めるのは難しい。
このベース主義者の中で、議会での勢力拡大を諦めて、特に種族独立に特化した過激な行動を行う者達が、種族解放戦線である。
種族解放戦線は、武闘派組織として目的の為に手段を選ばず、国内でテロ行為を繰り返していた。
ただし、その過激な行動のため派閥内の対立も強く、ベース主義者達の中でも彼らを嫌悪する者も多い。
ベース主義に対抗する思想としてラグナ族第一主義という思想もある。
これは、優れた種族であるラグナ族が他の異種族を導くべきで、異種族はそれに従うべきという考え方である。
実際、ラグナ族の中には特殊な能力を持つ者がいる。
皇家に伝わる“聖剣レーヴァティン”や、テーベ族の“月影”、ランス族の“陽彩”など、他国のラグナ族の諸派の中にも特殊な能力を持っている場合が多い。
ラグナ族第一主義者たちは、ラグナ族とその諸派には、これら特別な能力があるのだから、他の種族より優れた地位にあるのが当然だと主張する。
特に、アスンシオン帝国の隣国、エルミナ王国はラグナ族とほぼ同族であるランス族を基幹とする国家であるが、ラグナ族純潔主義を掲げて国内に居住していた異種族の国籍剥奪、全てを追放したのである。
アスンシオン帝国では、ラグナ族の種族的な優位を謳い、エルミナ王国の方針に賛同する者も多い。
この二つの主張、ラグナ族第一主義とベース主義は、どうやっても相いれない。それゆえ、激しく対立していた。
アンセムは、皇帝に忠誠を誓う軍人だが、ベース主義の主張もわからないではない。
貴族の男女は明確に役割が区別されている。女性は当主になれないし、重婚もできない。不倫の禁忌も男性の比ではない。
アンセムの元彼女、ミュリカは男性顔負けの実力を持つ優秀な士官だったが、いつもその不公平な制度について不満を述べていたし、アンセムも彼女を理解していた。
しかし、アンセムは、歴史学や人類学の教養については人並み程度しかないが、いつも疑問に思っている事があった。それは、君主制度が他の地域と隔絶された文化圏でも必ず存在するということである。
ベース主義は社会から自然発生はしない。しかし、君主制は人間という集団の中から伝播されなくても自然発生する。
だから、この君主制には人類の根底に共通する何かが隠れているのではないかと考えていたのである。
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「どんなことがあっても、お通しする事はできません」
アンセムは後宮の政庁へと通じる南塔の城門で女性警備兵と揉めていた。
その日の城門当直のミュリカ・ヴィス・パブロダは、アンセムが城門を通過するのを認めない。
「私は、正妃だから法的には問題はない。ミュリカ、事態は一刻を争う。すぐに宰相のテニアナロタ公に知らせなければならないことがある」
後宮警備分隊には後宮内の諸事は正妃が対応するという通達が来ていた。宮女は後宮から出られないのが原則だが、正妃は式典などの際に外出が可能である。
ただし、明文化されていないが、これは皇帝と同伴という暗黙の了解があった上の条件である。
ミュリカは突然自分の名前を呼ばれた事に驚いたが、それでも反論する。
「正妃といわれても、まだ国民には正式に布告されていません。外出などされても妃様の安全を守る事はできません」
ミュリカは毅然とした態度で反対する。
アンセムは、彼女が絶対に持論を曲げない女だと知っていたし、時間も惜しかった。だから、彼はこういうときに昔使っていた強硬手段に出ることにする。
「ええい、説明している暇はない!」
アンセムはミュリカに飛びかかる。彼は彼女と喧嘩した際にすぐに決着させていた方法で挑んだ。
壁際に追い詰められ、壁に手を押し付けて、いきなり唇を奪われたミュリカは激しく混乱した。しかも相手は後宮の妃である。
周囲の同僚達も目を丸くして驚いている。
「んっ!?」
声にならない声を発するミュリカ。だが、このやり方は彼女には覚えがあった。
数秒が過ぎ、アンセムはかつてそうしていた時のようにそっと唇を離し、彼女を見つめる。
「ミュリカ、クーデターが起きればここは必ず戦場になる。敵に不意を打たれれば負けて、君の未来も私の未来も閉ざされる。それに君の新しい男を、種族解放戦線の奴らは絶対に許したりしないだろう」
「え…… なんで……」
ミュリカの混乱はさらに激しくなった。
このアンセムの妹は、ミュリカが公爵の男と付き合うために、アンセムと別れた事を知っている。
それだけではない、彼女に口づけする方法まで完全に同じだった。
「政庁と後宮の警備兵全員に非常召集をかけてくれ。私は、宰相と打ち合わせに行ってくる。ティト、後の手配は頼む」
「畏まりました」
メイド長のティトがアンセムの指示に素直に従ったのをみると、ミュリカはようやく正気に戻る。
女は詳しい説明をしない男に対して不満があったが、彼の知っている元恋人はそういう人物だった。
彼女が後宮と政庁を繋ぐ門を開けると、アンセムは侍女のパリスを連れて、深夜の政庁に入った。
後宮に隣接する政庁内は暗闇と静寂に包まれている。アンセムは昔ここの警備兵として勤務したことがあるので、その警備体制は完全に把握していた。
政庁は外部への監視はそれなりに行われているが、内部から侵入されることはまったく想定されていない。
外周の巡回はともかく、内部の巡回は完全に手抜きである。
アンセムは昔の記憶を辿って、厩舎に向かう。厩舎の扉は鍵が掛かっているが、アンセムは鍵がどこに保管されているか知っていた。
彼は、その馬の中から、一頭を選び颯爽と跨る。
「旦那様、私、馬は苦手なのですけど……」
「大丈夫。私の背中に捕まっていて」
アンセムは、パリスを後ろに乗せ、馬を走らせた。
深夜、政庁正門前で外側の監視を行っていた警備兵は、庁内から突然現れた騎馬に驚いた。
後宮の妃が華麗に馬を駆って飛び出し、帝都へと飛び出していったのである。
彼らは、その馬が帝都の闇に消えていくのを、ただ呆然と見ていることしかできなかった。




